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壊れた世界

悪魔の策略

 突如こみ上げた波にのまれたまま、わたしはその場にくずれおちる。
 幼子のように、呼吸をすることもままならないほど、はげしい痛みにおそわれていた。
 誰でもないわたしが、瑠璃の永遠の不在を認めてしまった。
 すべてが想い出になってしまう。
 とてつもない喪失感を、哀しみが埋めていく。
「更紗」
 明瞭な声が、ふっとわたしを現実に引き戻す。涙をぬぐうと、傍にころがっている卒業証書の筒が視野に触れた。
 ここが校舎の屋上であることを思い出して、はっとして顔をあげる。
「大丈夫か?」
 いたわるような穏やかな声。いつのまにあらわれたのか、傍らに葵が膝をついていた。視線をあげると、ミヤが色を失った顔色でこちらを見つめている。
 とつぜん火がついたように泣き出したわたしに驚いて、葵をよんだのだろうか。
 彼の背後に立ってこちらをうかがいながら、ミヤが今まで見たこともないほど、うろたえているのがわかる。
 不安げな眼差しをしていた。
 醜態をさらしたと自覚しても、恥ずかしさを感じることができない。
 絶望の余韻が、すべての感情をとおざけている。
 パタリ、パタリと、涙が落ちて、屋上のコンクリートに染みをえがく。
「香坂(こうさか)、ありがとう。もういい」
 わたしを見つめたまま、葵は背後のミヤに向かってつたえる。
「私、やりすぎたのかしら?」
「いや、予想以上に上出来だ。ありがとう」
「ーー先生。この貸しは高くつきますよ」
 ふっと顔をほころばせて、葵がはじめてミヤをふりかえる。
「いいだろう」
 うろたえて蒼白な顔をしていたのが嘘のように、ミヤの声に自信がよみがえる。
「じゃあ、サラサ。あなたが受験を放棄した理由を私が教えてあげる。本当は先生についていきたかったからでしょう?」
 止まらない涙を隠すこともなく、わたしはミヤをみつめた。
 そっとわたしに歩みって、彼女は細く白い指先で涙に触れる。
「先生が連れていく誰かは、あなたのことよ。気をつけなさい、サラサ。 先生はあなたが思っているより、ずっと諦めが悪いの。ある意味、ひたむきすぎて恐ろしい男よ」
 鈴を転がすように、ミヤが笑う。
「面白い経験をさせてもらったわ」
 彼女は「じゃあね」と告げて、何の未練もない様子で屋上から姿を消した。
 屋上を吹きぬける風を感じると、寒さがよみがえってきた。
 ミヤがしたのと同じように、葵が涙に触れる。指先があたたかい。
「おまえは僕を選んだ」
 わたしは固く目をとじる。葵にはすべてを見抜かれている。
「そして、瑠璃の死を認めた」
 彼のいうとおりだった。瑠璃を失ってからも、我をわすれるほど泣くことはしなかった。
 できなかった。瑠璃の死を認めていなかったから。
「わたしが、瑠璃を、……想い出にしてしまう」
 たえられなかったはずの現実が、すでに胸の内に宿っている。
「葵が、にくいわ。わたしから瑠璃をとおざける、あなたが」
「僕はそんな憎まれ口を聞きにきたんじゃない」
「そして許せない。瑠璃の気持ちを裏切るわたしを」
 わたしは選んでしまった。
 瑠璃の気持ちを裏切ることになるとわかっていても。
 あきらめきれなかった。
 葵を。
 目の前でほほ笑む、うつくしい悪魔を愛している。
「それでも、葵をうしなうことはできない。そんな世界には、たえられない!」
 奈落に秘めつづけた真実。はじめて素直に言葉にした。
「葵が好きなの。誰よりも」
 瑠璃よりも。
 葵が笑ったと思ったのは、ほんの一瞬だった。強い力に引き寄せられて、なにも見えなくなる。
 彼の体温と鼓動につつまれて、身動きができない。
 瑠璃と過ごしかけがえのない日々が、遠ざかる。
「やっと、手に入れた」
 肩越しに葵の声が聞こえた。
「僕の勝ちだ、瑠璃」
 まるでなにかを競っていたかのように、葵の声は勝者を思わせる強い響きを帯びていた。
「更紗」
 ずっと押し殺していた激情を解き放つかのように、葵の熱がわたしをおかす。
 瑠璃の気持ちを裏切って、わたしが手に入れた世界。
 甘くてにがい、背徳にみちた道。
 けれど、わたしはもう迷わない。
 壊れた世界の先に、新たな世界を求めて生きていく。
 この魔道を、葵と一緒(とも)に。

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サイトup 2017.10.29

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