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壊れた世界

砕け散った世界

 なれた足どりで、破滅(あおい)は女神(るり)の部屋にたどりつく。静寂にみたされ、闇に沈んでいた部屋は、蛍光灯のあかりで色彩をとりもどした。
 瑠璃が生きていた頃と、何も変わらない室内。
 ただ彼女の輪郭だけがどこにもない。
 葵はまよいのない仕草で、瑠璃が好んで座っていた独りがけのソファに腰かけた。
 わたしは立ち尽くしたまま、こちらを見上げた葵をにらむ。
 葵はわたしの憎しみに無頓着な様子で、あさく嗤った。
「なにをそんなに憤っているんだ」
「どうして、瑠璃をあざむくことができるの?」
 こみ上げた激情で声がふるえる。葵は何もいわずこちらを見つめていた。
「瑠璃はあんなに葵を慕っていたのに! まだ二年もたっていないのよ! なのに、……信じられない」
 怒りを吐き出すわたしに、葵は視線を伏せた。ふたたびこちらに眼差しを戻しながら、冷淡な声がこたえる。
「何度も言うが、僕は瑠璃を愛してはいなかった。更紗、彼女に同情して夢をかなえることは、そんなに悪いことなのか?それとも、生前の彼女に真実を打ち明ければよかったのか?僕が愛しているのは更紗だと」
「ふざけないで。……もう、わたしを愛していたなんて言わせない。瑠璃もわたしも、葵に弄ばれていただけよ」
「弄ぶ?」
 不思議な言葉をきいたような反応で、葵が眉を寄せる。黒硝子のような光沢をもった瞳に、わずかに苛立ちがにじんだのがわかった。
「僕が、新しい誰かを選ぶから?」
 彼をにらむ視線に力をこめる。怒りだけが充満していた。瑠璃でもわたしでもなく、他の誰かを求めるのならば、もう葵をおそれる理由がない。
 瑠璃がどんなに葵を想っていたか。わたしがどんな気持ちで二人を祝福したのか。
 今となっては、すべてが意味をうしなっている。
 葵はわたしの視線(いかり)を真正面から受け止めて、ふたたび嗤う。低く漏れた彼の声に、血が逆流した。
「何がおかしいの」
 声を高くすると、葵はソファから立ち上がり、その勢いのままわたしの腕をつかんだ。背中を打ち付けるような衝撃がはしる。
 いつかの放課後の教室を再現するように、わたしは追いつめられていた。閉じられた扉に押し付ける葵の力は、容赦がない。
 吐息の触れ合う距離にあっても、もう震えるような恐れはかんじない。
 逆巻くような苛立ちが全てを遠ざけている。心の奈落に生まれた怒り。
 わたしにはわかる。
 これは、葵の裏切りを責める瑠璃の怒りだ。
「おまえは気づいたはずだ」
「何を?」
「自分に施された呪いに」
 葵の瞳の中に自分の影を見つけながら、わたしは視線にさらに怒りをこめる。
「だから、何?それが、瑠璃をあざむいたことと、どう関係があるの?」
「瑠璃の呪いを、認めるんだな」
「認めたから、なんだというの?」
 たしかにわたしは気づいた。心の内に、瑠璃が生きている。
 わたしは彼女を失った瞬間などなかった。彼女が在りつづける限り、わたしが葵をもとめることはない。
 もう戒めを必要としない。心には強く穿たれた、瑠璃という名のくさびがある。
「瑠璃の呪いがなんだというの?」
「それを自覚することは、とても重要な変化だ」
「葵が瑠璃をあざむいたことに、関係があるとでもいうの?」
 まったく意味のない話だ。ますます苛立ちだけが募る。
 葵はわたしを背後の扉に押し付けたまま、上体をかがめるようにして顔を寄せてくる。
 うつくしい顔。
 そのまま頬のふれあいそうな距離で、彼は肩越しにささやく。
「自覚したなら、次へいこう。その呪いを施したのは、本当に瑠璃なのか?」
「そんなことは今、関係ない!」
「そうかな」
「いいかげんにして!」
 苛立ちに任せて葵の顔をつきはなそうと振り上げた手は、目的を果たさずとらわれる。
 まるで背後の扉に磔にされるように、わたしは葵に動きを封じられた。
 至近距離でこちらを見下ろす瞳に、じわりと滲み出す熱。
 跡形もなく消え失せていたはずの情熱が、葵を侵していくのが目に見えるようだった。
「更紗」
 艶を帯びた声。苛立ちが、恐れに上書きされていく。
 とたんに怖気づいたわたしに、葵はささやくように告げる。
「僕が愛しているのは、おまえだけだ」
 ささやきには、どんな拒絶も受け入れない強さが満ちていた。葵がさらけだす想いは、血しぶきのように激しい。
 彼からほとばしる気配に耐え切れずに、視線をそらした。うつむいたわたしの顎に、葵の長い指先が触れる。
 目をそらすことを許さないと言いたげに、上向きに込められた力。
 ふたたび葵を仰ぐと、作り物のように美しい瞳に、わたしが映っている。
「おまえを愛している。だけど、おまえには僕の言葉は届かない」
 ふっと彼が嗤う。
「おまえは瑠璃を選ぶ。けっして僕を選ばない。瑠璃の呪いに守られた体は、僕が触れることを許さない。
 意識を断ってまで、瑠璃の世界を守ろうとする」
 闇をふうじこめたような双眸にやどる、暗い決意。
「だから、僕も覚悟をきめた」
「覚悟?」
「春になったら日本をはなれる。おまえがそれまでに僕を選ばないのなら、違う女性(だれか)を選ぶ」
「……何を、言っているの?」
「僕は優しくはない。決して自分を選ばない女を、いつまでも待っていたりはしない。たとえ、どれほど愛していても」
 瑠璃をあざむいたように、葵は違う誰かをあざむいて生きていくというのだろうか。
 それは瑠璃のように一時の演技ではすまない。
 けれど、葵は成しとげる。瑠璃に演じ続けたように、違う誰かにも。
 そしていつしか、終わりのない偽りが、真実になってしまうのかもしれない。
 葵が、違う誰かを心から愛する日がおとずれる。
「更紗。僕を失いたくなければ、瑠璃ではなく、僕を選べ」
 葵の指先を振りほどくようにして、顔を伏せる。
 彼を失ってしまうのだとしても、瑠璃の世界に背くことはできない。
 はじめに瑠璃をあざむいたのは私だ。
 あの時。
ーー更紗は葵のことをどう思っているの?
 素直に、ありのままに、瑠璃に気持ちを打ちあけなかった私が、受けるべき罰。
 本当は初めから知っていた。葵が瑠璃を愛していなかったことは。
 わかっていて、わたしは瑠璃に葵をゆずったのだ。
 本当にひどいのは、わたし。
 葵を責める資格などないのに。
 どれほど後悔しても、瑠璃を失った今となっては、どうしようもない。
 もう、永遠に真実を伝えることはできない。償うことも。
「わたしには、葵を選ぶことはできない」
 葵の気配がさらに近づく。吐息が触れる。
「おまえは、そう言うと思っていたよ」
 穏やかな葵の声。わたしは固く目を閉じた。与えられた安息に、引き裂かれるような痛みを感じる。
 終わるのだと思った。
 瑠璃の世界が終わる。葵の愛をうしなって、砕け散ってしまう。同時に、わたしに穿たれていた楔も砕かれた。
 粉々に散ったかけらに、瑠璃の理想の王国と、わたしが抱きつづけたうしろめたさが見え隠れしていた。
 きらきらと、ガラスのように美しい幻想。
 葵がわたしたち双子の前から去っていくのなら、わたしたちの世界はうしなわれる。
 すべてが白紙にもどる。
「おまえを愛しているよ。誰よりも」
 ささやく声。もうどこにも辿りつかない、愛の告白。
「……知っていたわ」
「はじめてだな。……素直に認めた」
「私は葵を選ばない。だから、葵もわたしを選ばない。そうでしょう?」
「……そうだな。瑠璃を選ぶおまえを、僕は追いかけない」
 はっきりと認めてから、葵はそっと唇をかさねた。わたしは抗うこともせず、受け入れる。
 激しい波にとらわれて、身体中が葵を求めても、もう後ろめたさを感じない。
 瑠璃の悲鳴は聞こえてこない。視線を感じることもない。
 これは、全てを終わらせる口づけ。
 砕け散り、すべての理想と背徳をうしなった世界には、何も残らない。

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サイトup 2017.10.26

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