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壊れた世界

心象の女神

 あかい太陽が稜線を染める。
 昼と夜がいれかわる、狭間の時間。
 さっきまで喧噪にみちていた校庭からも、音が失われていた。
 グラウンドを駆け回っていた人影がきえうせて、校内はまるでディストピアのように無人になる。
 下校時刻はとうに過ぎていた。
 わたしは身をかくすように潜んでいた教室から出ようと、鞄を手にする。
 立ちあがろうとしたとき、ふいにバタバタと遠くから足音が響いてきた。
「あれ? 藤咲(フジサキ)?」
 教室のまえを駆けぬけようとしていた人影が、不自然に勢いをうしなう。
「独りで居のこって、何やってんだよ」
 なんのためらいもなく、人影は私にあゆみ寄ってきた。
「速水(ハヤミ)こそ、こんな時間まで何をしていたの?」
「おれは部活だけど……」
 教室からのぞめる黄昏がさっきよりも陰りを増していた。
 不思議そうにわたしを眺める速水の表情にも、ふかい陰影が刻まれている。
「こんな時期に、まだ部活?」
 受験をおもって驚くと、彼は苦笑した。
「後輩に頼まれて仕方なくだよ。それよりも、誰かと待ち合わせか?」
 速水はじっとわたしを見つめる。放課後の待ち合わせは、彼氏ができたのかという問いと同じことだった。
「そんなわけないでしょ」
 わらって否定しても、速水は無表情だった。突如、彼からにじみだした気配がわたしをとらえた。
「そうかな。おまえ、さいきん雰囲気がかわったから」
「え?」
 なんの話をしているのか、急に見失ってしまう。速水が一歩わたしに近づいた。
「好きなやつでもいるの?」
「――いないわ」
 身を引こうとしたわたしの腕を、日焼けした手がつかんだ。距離をとろうとしたのに、さらに近づいてしまう。
「じゃあ、俺とつきあってよ」
 なにかを見失ったまま、わたしは速水の精悍な顔をあおぐ。そらされることのない瞳の奥に、思いつめた色が揺らめいている。
 見失っていたなりゆきが、急に目の前に姿をみせた。わたしは高くなった鼓動を意識する。
「とつぜん、なに?」
 やっと口にすると、速水は自嘲的にわらう。いままで知っていた同級生が、知らない人になってしまったような錯覚にとらわれる。
「とつぜんって?今までも、わりとアピールしてきたつもりだけどな」
 まったく気づかなかったわたしを責めるように、速水は腕をつかむ手に力をこめた。
「本気で気づいていなかったのか?」
「……それは」
 ふいに葵(アオイ)の姿が脳裏をよぎった。白衣をまとったうしろ姿。
 教師であり、幼馴染であり、――いまは亡き、瑠璃(アネ)の夫。
 わたしは唇をかむ。
 何に心を奪われてしまっているのか、痛いほどつきつけられる。
 悪魔のように、非道な男。
 瑠璃(ルリ)の失われた世界を、たやすく踏みにじる。
 わたしがかたくなに守ろうとする世界を、あざ笑うかのように。
 残像をふりはらって、まっすぐに速水をみつめた。
 胸に刻んだ十字架にそえた手に、しぜんと力がこもる。
 クロスのタトゥーでも封じこめられない想い。
 あの美しい悪魔にとらわれる前に必要な、新しい戒め。
 きっと速水なら、その役割を果たしてくれる。
「いいわ」
「え?」
「本当にわたしのことが好きなら、速水とつきあってみても」
「俺は、ずっと藤咲が、――好きだよ」
「わかった」
 今から、わたしは彼のことを好きになろう。
 何にも心を動かされないように。
 葵ではない誰かに向かって、心の在処(アリカ)をきめてしまえばいい。
「でも、本当に?」
 気持ちを推しはかろうとしているのか、速水の顔にためらいの色が浮かぶ。
 信じられないものを見るような彼のまなざしで、わたしはハッと我にかえる。
 同級生の告白という、くすぐったくなるような現実。
 恥ずかしくなって、かぁっと頬に熱がこもる。
 とっさにうつむくと、腕をつかんでいた大きな手が私の手をとった。
「俺、すぐに着がえてくるから、校門で待ってて。家まで送るよ」
 おそるおそる顔を上げると、速水も頬を染めていた。けれど、視線を伏せることはなく白い歯をみせて笑う。
 屈託のない笑顔。
 ときめきではない衝撃が、私の胸をしめつけた。
 これで良かったのかと、後悔にも似た痛みがせりあがってくる。
「じゃあな、校門で」
 つないでいた手をはなすと、速水は照れかくしのように踵をかえす。背の高い精悍な後姿は、すぐに教室から姿を消した。
 ほっと気が抜ける。
 しんとした教室の静寂が、私をつつんだ。
 夕刻のふり絞るような光が、失われようとしている。世界の大部分が闇に沈んでいた。
 私は鞄を持ちなおして、教室を出ようとした。
「――更紗」
 透明な闇をつらぬくように、美しい声が響いた。
 私をとりまいていた静寂が、急激に体を圧迫する。恐ろしさのあまり、体が震えた。
 しなやかに動く影色の輪郭が、音もなく近づいてくる。
「いつまで、こんなことを続けるつもりだ」
 顔をあげることができない。影色にのまれた自分の手がかすかに震えているのがわかる。
「また、無駄なことをくりかえすのか」
 すぐ近くに葵の気配をかんじる。とっさに走り去ろうとしたわたしを、葵が見逃すはずもない。
 速水よりもはるかに力のこもった手に、二の腕をつかまれる。
 そのまま壁に押しつけるようにして、葵はわたしの自由をうばう。
 壁についた彼の手に追いつめられ、わたしは息をのんだ。
 吐息が触れあうほど近くに、葵の端正な顔が迫っている。
 夕闇に沈んだ教室の中で、わずかに見わけられる表情に見え隠れする、冷酷な色。
 額が触れあいそうな距離で、葵が嗤う。
 長い指が、制服の上から胸をたどる。肌に刻まれた戒めの位置でピタリと止まった。
「新しい戒めのために、あいつを人柱にするのか?」
 葵の視線にたえきれず、顔を背けた。
「それとも」
 刻まれた十字架から指をはずし、視線をそらした私を引き戻すように顎に手をかける。
 込められた力を振り払うこともできず、のけぞるような角度で葵を仰ぐ。
「僕を煽っているのか?」
「ちがう……」
 彼はゆっくりと首をかたむけた。ふわりと、頬に葵の髪がふれる。
 ぞくりと体が反応した。
 耳鳴りがする。また、瑠璃の視線をかんじる。
「わたしに、さわらないで」
「駄目だ」
「瑠璃がみてる」
「――だから?」
「葵がこれ以上を望むなら、今、舌を噛み切って死ぬわ」
 顎にかけられた指先に力がこもる。耳鳴りが、引き裂くような瑠璃の悲鳴に変わる。
 どんなに望んでも、葵に手を伸ばすことは許されない。
 瑠璃の愛した男。
「本気よ。やめて」
「瑠璃には、僕が詫びよう」
 吐息がふれる。
「僕の舌を噛み切って、僕を殺せばいい」
「あ――っ」
 叫びが封じられる。迷いのない力。今までとは比べ物にならない、貪るような激しさで重ねられた唇。
 押し入れられた舌に蹂躙されて、抗うこともできない。
 瑠璃の悲鳴すら遠ざけてしまう、あまい衝撃。
 さそわれるように、葵の首に腕を回しそうになって、ぎくりと体がこおりつく。
 瑠璃の視線がよみがえる。
 ――更紗。わたしはね、葵のことがすきなの。
 美しいほほ笑み。よみがえる声。犯すことのできない半身。
 いつも共にある、もう一人のわたし。
 ぞっとせりあがる恐れ。
 「やめて!」
 なりふりかまわず、葵を突き飛ばす。震えが全身にまわって、立っていることができない。
 「更紗……」
 再び歩み寄ろとする葵の気配が、わたしを追いつめる。
 「いやっ、許して」
 「更紗?」
 「許して、瑠璃」
 決して手をのばしたりはしない。あなたを裏切ったりはしない。
 「瑠璃じゃない。更紗、僕をみろ」
 瑠璃の愛した男が、わたしに手を差し伸べる。
 触れてはいけない、葵の美しい手。
 「しっかりしろ……」
 闇の中でわたしを支えるように触れた、ながい指先。
 じぶんと同じ声をした、瑠璃の甲高い悲鳴がひびきわたる。
 「更紗!」
 「許して……」
 うしろめたさの正体。
 葵をもとめてしまう私を、許して。
 「瑠璃……」
 闇の中に浮かび上がる瑠璃の視線が、わたしを責める。
 恐れに耐えきれず、血が凍(こご)えていく。
 夕闇よりも深い暗黒が、ゆっくりと視界をみたす。
 やがて、奈落につき落とされるように、世界が暗転した。

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サイトup 2017.9.10

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