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楽園の愚者達

第十章

 吹雪くような天候が、少しずつ和らいでいた。雪は激しく吹き付けず、舞うようにちらちらと降り積もる。ケビンは庭先に出て、彼女の姿が見えなくなっても、しばらく立ち尽くしていた。
 貴秋に促されて、ようやく玄関先に集っている千春達の前まで戻ってくる。
 彼は決して涙を見せなかったが、伏せられた眼差しが刻まれた痛みを表していた。
「もし、俺がもっと桂花の想いを満たすことができれば、彼女は莫迦なことを考えなかったのでしょうか」
 深刻な面持ちで聞くケビンに、クロードは「どうでしょう」と答えた。
「彼女は理想との狭間でも苦しんでいたようですからね。その苦しみが、全てを狂わせてしまうきっかけとなったのですよ。ケビンへの想いだけが全てとも言い切れません。生塾は彼女のよりどころであったのでしょうし。あなたが責任を感じることはありません」
「――はい」
 頷く彼の表情は晴れない。涼が雪にまみれた彼の髪に触れた。軽く払うと、はらはらと雪が散る。
「おまえは最後に、彼女に待っていると囁いていたな」
 千春には聞き取れなかった言葉を、涼が明かしてくれた。ケビンは「気休めにもならない」と自分を責めていたが、彼は「そうじゃない」と言った。
「彼女はその言葉に救われたはずだ。どこかに自分を待っている人がいると信じていられるのは、何よりも励ましになるから」
 その言葉は千春の中にも響いた。自分を必要とする人がいること。待っていてくれる人がいること。これまで千春も貴秋の想いに支えられてきた。
「私もそう思うわ」
 思わず声をかけると、ケビンは何かを噛みしめるように瞳を閉じた。隣で親友を見守っていた貴秋が、クロードに目を向ける。
「博士は、いつから桂花のことを疑っていたんですか」
「ケビンが休暇の届けを出した時です」
 貴秋が良く分らないという顔をすると、クロードは自嘲的に笑う。
「あなた達に、謝らなければなりません」
 伏せられた眼差しに自嘲の色が浮かんでいた。彼は開け放たれた玄関扉の向こう側で横たわっている人型に目を向ける。
「シズカにも、大変な傷を追わせてしまいました」
 口調は変わらず穏やかである。彼は再びこちらに視線を戻した。
「長い道程でしたが、ようやく決着がつきました」
 呟いてから、彼は千春達に全ての真相を語りはじめる。
「今回の財団との契約内容は、あなた達にも明らかにしていませんでした。今回の研究は、実は陸国との共同計画なのです。現在、我々が取り組んでいるのは間違いなく義脳の研究でもあるのですが、義脳の研究はまだ形になっていません。おそらく全体の一割も進んでいないでしょう」
 彼は背後に立っている涼を振り返って、かすかに頷いた。二人にしか分らないやりとりに、どんな思惑があるのか千春にはわからない。何かの合図のように見えた。
「ヘヴンとの共同計画の内容は、最新の人型に関わる契約です。生体機器を搭載する最新型の研究が、密かに一歩を踏み出しています。我々が提供しなければならないのは、義脳の研究経過。それが人型の緻密な頭脳に応用されて行きます。ですから、財団との契約は既に履行されている。義脳の試作品を提供する契約など、元からありませんし、そもそも義脳の完成には、まだ数年はかかります。我々の研究は途中経過の全てが、財団にとって契約商品なのです」
 千春には難しい経緯だったが、どう考えても納得のできない疑問が浮かび上がる。義脳がそれほどに未完成ならば、自分の頭に移植されたものが明らかにならない。クロードは千春の眼差しの意味を理解したようだが、ただ笑みを向けただけで、すぐには答えてくれなかった。
「しかし、その共同計画が立ち上がる頃に、情報が漏洩しているという事件が起きました。この事態を知っているのは、限られた人間だけです。トップラボのメンバーも、涼以外は誰も知らないでしょう。まだ秘密裏に動いている共同計画の内容が漏れることは、絶対に阻止しなければならない。義脳の情報が、第三者に盗まれる恐れもあります。とにかく情報を漏らした人間を突き止めることが最優先でした。財団をはじめとして、ヘヴンもそのためには協力を惜しみませんでしたが。――誰が機密を漏らしているのか、どんな組織が関わっているのか、何の手掛かりもありません。とりあえず、全ての人間を疑うことからはじめました。そのために、エデンは形のある試作品を提供するという偽りの契約を明らかにしました。全てが囮を作り上げるための仕掛けです」
 理解できるはずもなく、千春は貴秋とケビンを見た。彼らは言葉もなく、ただクロードの緑の瞳を見返した。貴秋がようやく口を開く。
「囮というのは、どういうことですか」
「言葉の通りですが。――我々はトップラボに裏切り者がいるのではないかと言う猜疑心にとりつかれていました」
「僕達のことも?」
「否定はしません。けれど、二人への嫌疑は早い段階で晴れました」
 黙りこんでいたケビンが、低く問いかける。
「博士。囮というのは、千春のことですか。俺も貴秋も、事件の解決のために踊らされていたということですか」
 クロードは隣に立っている涼を見た。暗い眼差しで、二人はケビンを見る。
「恨まれても、殴られても、仕方がないと思っているよ」
 涼は整った顔に苦痛の色を浮かべたまま、貴秋を見た。
「貴秋。千春には義脳の移植は行っていない。そんな試作品は元からなかったんだ」
 千春は何かを聞き間違えたのかと思った。貴秋も言葉を失ったように、ただ瞠目していた。その場に静寂が満ちると、貴秋が困惑したまま口を開く。
「だけど、……じゃあ千春はどうして記憶を失っていたんですか。視力だって取り戻しているし、何か治療法があったんですか」
 千春は思わず欠けていた視野が、本当に戻っているのか確かめてしまう。雪の舞う景色は、目の前に限りなく広がっていた。掌を眺めてみても、像が霞むこともない。
「千春の病は、元から再発していない。貴秋の逃亡を助けてからも、千春の再発だけが気掛かりだった。だから、シズカを介してずっと千春の血液を才国へ送らせていただろう。最後の検査結果は、千春が目覚める少し前の血液だが、血液検査では再発の兆しはない。おそらく、千春の病は右手の症状が最後だったんだ」
「だけど、脳の一部に発症したと、担当医が説明してくれました。僕もその画像を見たし、視野の狭窄だってはじまっていた」
「これはお前と千春に謝るしかない。脳への再発は、俺と博士が担当医の力を借りて捏造したんだ。視野の狭窄も、視力の低下も、それらしい症状が現れるように、薬剤を使った」
 千春は無意識に、短くなった髪を指でつまむ。あまりにも信じられない事実だった。移植のために髪が短くなったと思っていたのに、そうではなかったのだ。
「全てが、エデンから情報を盗む者を探し出すための仕掛けだったんだ」
「そんなことは許されることではないと判っていました。貴秋、千春。それから、ケビンにもヘレンにも、大変な苦痛を与えることになってしまいました。申し訳ありません」
 クロードと涼が謝罪するのを眺めながらも、千春は縛られた想いが解かれてゆくのを感じていた。
 貴秋を苦しめたくないと思いつめられた日々が、全て作られた舞台だった。
 過酷な舞台だったが、千春の中には、憎悪も憤りもなかった。
 ただ、良かったと思ったのだ。貴秋の犯した罪が、罪ではなくなる。
 その悦びだけが、じわじわと胸を満たす。
「俺と博士は、千春を囮にしようと考えてしまった。情報を欲しがる部外者がいるなら、侵入の難しい内側を責めるよりは、予想外の出来事で外側に漏れた情報を狙うだろうと思ったんだ」
 貴秋は大きく目を見開いていたが、気持ちが言葉にならないようだった。彼が明かされた事実に憤るのか、千春にはわからない。彼を満たす気持ちも安堵ならいいのにと願ってしまう。
 目の前に立つ二人を、千春は憎んだり出来ない。嫌いにはなれなかった。真実を打ち明ける声の重さが、彼らの苦痛を物語っている。仕掛けたことがどれほど過酷なことであるかは、彼らにもわかっていたはずなのだ。
 その罪悪と闘い続けて、今まで痛みを堪えてきたに違いない。
 自分だけではなく、彼らにも守らなければならないものがあったのだ。自分が貴秋を守りたいと願ったように、貴秋が自分を守ってくれたように。
 ケビンが妹の命を、貴秋との友情を守ろうとしたように。
 ただ、彼らにも守らなければならない物があった。共に在る人達を信じる心。それを得るために、心を鬼にして、全てを仕掛けたのだろう。
「ケビンにも謝らなければならない。貴秋がおまえを裏切るような形になってしまうのは、どうしようもなかった」
「いいえ」
 ケビンは困ったように頭をかいて、かすかに笑った。
「それは、もういいんです。彼からなぜ打ち明けてくれなかったのか、聞くことができたから。俺は貴秋に裏切られた瞬間はなかった。それを知ることが出来て、そんな機会を与えてくれて、感謝したい位です。たしかに、博士達のことを憎んだ時もありますが、今はもう裏切られたとは思っていません」
 涼は低く「ありがとう」と言って、頭を下げた。
「おまえの妹には、全て話してあった」
「ヘレンに?」
「貴秋達が逃亡してから、彼女が移植手術を受ける前だったかな。真実を知っていれば、少なくともヘレンは貴秋達を責めることはない。仕方がないと分かっていても、ケビンの抱える貴秋への憎しみは、最小限にとどめて置きたかった。だから、ヘレンには全て打ち明けることにしたんだ。絶望していたおまえを見ていたから、彼女にも思うところがあったんだろう。ひどいことをすると、責められたよ。だけど、約束どおり誰にも明かさずいてくれた」
「妹は桂花と仲が良かったから。結末を知れば哀しむかもしれない」
 そう言ってから、ケビンは何かに気付いて顔をあげる。
「もしかすると、ヘレンはどこかで感じていたのかもしれません。桂花が何かに関わっているということを。そうでなければ、全ての仕掛けを知っていて、貴秋達の逃亡だけを教えるなんておかしい」
「ヘレンが桂花に?」
「はい。桂花は妹に貴秋達の逃避行のいきさつを聞いたと言っていました。そこから、調べ上げたと」
「――なるほど。俺と博士はわざと漏らしている情報を、相手がつかんだのかと思っていたが。ヘレンのその行動がなければ、事態はいつまでも動かなかったのかもしれない」
「はい。だけど、きっと思惑だけではない桂花の気づかいを知っていたから、ヘレンは俺にも何も言えなかったんだ」
 黙って会話を聞いていたクロードが、軽くケビンの肩を叩いた。
「では、ヘレンも桂花を待っていてくれるでしょう。あなたと一緒に」
「はい」
 多くの思惑と、気持ちが絡み合っている。千春は繋がって行くなりゆきに、本当に長い道程があったのだと感じた。
 貴秋は目まぐるしく何かを考えていたが、何かが腑に落ちないらしい。千春には何となく想像がついた。貴秋がようやく口を開いた。
「だけど、涼さん。一つだけわからないことがあります。義脳を移植されていない千春が、どうして一年にも渡って眠り続けて、記憶を失っていたのか。その説明がつかない」
 貴秋の問いの答えは、千春の中にあった。
「それは、きっと私が逃げていたからだわ」
 彼がゆっくりと千春を見返る。千春は困ったように微笑んでみせた。
「私が目覚めることを恐れていたから。目覚めて、貴秋を巻き込んでしまったことを知るのが怖かった。自分のために貴秋は全てを賭けてくれたのに、私はそれを背負うことが辛くて、目を逸らしていた。私が、ずっと現実から逃げていたの」
 あまりにも情けなくて、千春は泣いてしまいそうだったが、何とか堪えた。
「ごめんね、貴秋」
「――千春」
「本当に、ごめんなさい」
「そんなこと……」
 彼の声が、わずかに震える。彼はようやく、これからのことを考えたに違いない。
 全てが偽りの出来事だった。二人で企てた逃避行は、意味をなくす。
 広がる安堵に呑まれて、誰を恨む気にもならないだろう。
 逃げ出さなくても、帰れる場所があるのだ。誰に責められることもなく、罪悪を背負うこともなく、二人で一緒にいられるということ。
「本当に……、良かった」
 貴秋の顔が歪んだ。激しく涙が零れて、彼はすぐに腕で顔を拭う。千春はそっと彼に寄り添った。外気は変わらず冷たいが、舞う雪が温かそうだと、千春ははじめて思った。
「貴秋、帰れるね。みんなのところに」
「――うん。千春と」
「そう、一緒に帰れるわ」
 二人で身を寄せ合って泣いていると、家屋の中へ姿を消していたクロードが顔を出した。
「荷物が荷造りされていますが、二人だけでどこかへ姿を消すつもりだったのですか」
 貴秋は隠さず頷いた。
「もう、誰かを巻き込むのは嫌だったんです。誰かに迷惑をかけているのが嫌だった。千春と二人だけで、誰にも関わらずに生きていきたかった」
 傍にいた涼とケビンが顔を見合わせている。ケビンが以前と同じように、貴秋の肩に腕を回してのしかかった。
「重い」
 貴秋が泣き腫らした顔で抗議すると、ケビンは嘲笑う。千春が久しぶりに見る、どこか微笑ましい光景だった。
「偉そうなことを言っているけど、それは間違えているぞ。貴秋」
「何が?」
「誰にも関わらずに生きてゆくなんて、できるはずがない。人は独りでは生きていけないんだから。もちろん、二人だけでも生きていけない」
 彼の強い言葉が、千春の胸に染みた。貴秋と二人だけで遠いところへ去る決意をしながらも、それが過ちであるということは判っていた。
 逃げて得られるものは何もない。
 二人きりでは、生きてゆけない。幸せにもなれない。
 取り巻く世界に背を向けて、行き場がある筈はないのだ。
 千春も貴秋も、痛いくらいに感じていた。
「憎んだり恨んだりしても、誰かと関わりがあって、やっと生きてゆけるんだ。そして自分も、知らずに誰かの力になっている。さしずめ、俺達はクロード博士と涼さんの役に立っていたと言うことかな」
 ケビンは憤ることもなく、明るい声で告げる。
「そうやって取り巻く世界ができあがってゆくんだ。覚えておけよ」
「そんなの、知っているよ」
 貴秋は答えながらも、再び涙を零した。
「また泣く」
「うるさいな」
 ケビンの腕が、二人を眺めていた千春にも伸びてきた。三人で円陣を組むような形になる。ひとしきり笑いあってから、ケビンが告げた。
「帰ろうか」
 彷徨い続けた想いは、今こうして一つになった。
 この人の輪の中に、千春は二度と戻ってくることが出来ないのだと思っていた。覚悟を決めていても、本当はどれほど欲しただろう。
 帰るべき場所があるということ。
 待っていてくれる人達がいるということ。
 もう、独りきりではない。二人だけでもないのだ。
 周りに築かれた、取り巻く世界はどこまでも広く限りない。こんなふうに見守り、支えてくれる人たちがいる。
 幸せになるという両親との約束は、果たされるだろう。この笑顔が届くようにと、千春は雪の舞う空を仰いだ。
 はらはらと舞い落ちる雪が、祝福の紙ふぶきのように降り注ぐ。
 もう何も恐れることはない。生きてゆける。その幸運をただ噛みしめた。
 貴秋の声が、逃避行の終わりを告げる。
「――一緒に、帰ろう」


楽園の愚者達 END


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サイトup 2004.8.28

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