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楽園の愚者達

第九章

 千春が固唾を呑んで見つめていると、ケビンはその視線に気付いて浅く笑った。
「久しぶりに会ったのに、挨拶もしてもらえないのか」
 目覚めてから、ずっと千春は貴秋の話す島国語に触れてきた。
 久しぶりに響く才国語が、どこか自分にはかけ離れたものであるような錯覚に陥る。それでも、ケビンの言葉を、千春は以前と変わらず自然に理解することができた。
 彼に指摘されても、千春には返す言葉が浮かんでこない。
 ケビンは背後を振り返って、後ろにいる女性にも入るように合図した。女性が中へ踏み込むのを確かめてから、吹き込んでくる雪が目障りだというように無造作に扉を閉める。
 外界と遮断されると、風の鳴る音も極端に小さくなった。
 上着に積もった雪を手で払いのけて、ケビンはもう一度、晴れた日の海を思わせる鮮やかな瞳を貴秋に向けた。半ば自失していた貴秋は、その眼差しで我に返ったのか、傍らで膝をついているシズカに声をかける。
「シズカ、彼らは僕の知り合いだから。警戒をといて」
 銃を構えたまま静止していたシズカは、その言葉を受けて構えていたものを引いた。足に故障でもあるのか、立ち上がることをせず、跪いたまま頭を下げる。
 そして、動かなくなった。
 貴秋はその様子を見届けると、吐息をついてケビンに目を向ける。
「何をしにここへ来たんだ」
 詫びるどころか、まるで責めるような厳しさで、貴秋はそんなことを言う。千春は驚いて彼の横顔を見た。ケビンから視線を逸らさず、睨みつけるような眼差しで対峙している。嫌悪のこもった表情だった。
 どうして彼がそんな態度をとるのか、千春にはわからない。
「何をしに来たかだって?」
 ケビンは苛立ちを隠さず、さらに一歩貴秋に近づいた。
「そんなこと、説明しなくてもわかるだろう。研究成果を取り戻しに来たんだよ」
「無理だよ」
 冷たく言い放つ貴秋に、ケビンが激昂した。
「今さら、おまえの意見など聞いていない。自分が何をしたのかもわからなくなったのか。どれほどチームに迷惑をかけたか、考えたことなどなかっただろう」
「僕は全て承知の上で行動した。ケビンに言われなくてもわかっている」
「なんだと?」
 気色ばんだケビンに怯むことなく、貴秋はうるさそうに前髪をかきあげた。
「千春への移植が成功したんだ。今さら取り戻してどうするつもりだよ。試作品はもう一度形にすれば済むことだろう」
 怒りで言葉をなくしたのか、ケビンは血の気のない顔色で貴秋を見ている。千春には爆発寸前の火山のように見えた。貴秋の傲慢な台詞は、千春の理解も超えている。
 ケビンは貴秋のように人懐こい気質ではない。そのために相手に冷ややかな印象を与えるが、気づかいのできない人間ではなかった。傍にいれば、無愛想な振る舞いから覗く、彼の優しさに気付くのは難しいことではない。
 千春も第一印象は最悪だったが、共に過ごすうちに彼に親しみを感じるようになった。不器用な思いやりを、どれほど与えられたのか数え切れない。
 千春以上にケビンとの距離が近い貴秋が、知らないはずはなかった。何も告げずに姿を消した親友を、ケビンは憎んだに違いない。貴秋のことを信じているほど、心を許しているほど、受けた裏切りは色濃く刻まれただろう。
 それでも、と千春は思う。
 ケビンは渦巻き育って行く憎しみに苦しみながらも、貴秋のことを信じていたかったのではないかと思うのだ。貴秋に対して執着がなければ、憎んでも、恨んでも、やがて昔のことだと忘れられたはずだ。裏切りがあっても、ヘレンは命を犠牲にすることはなかった。ケビンの掛け替えのない妹は守られたのだ。
 貴秋との友情に未練がないのなら、いつか、心の通じなかった友であったのだと、苦い思い出として封印されて片がつくはずである。
 けれど、ケビンは貴秋を追って来た。
 才国から島国までの距離は、決して近くない。その遠大な距離を、彼は貴秋に会う為にやって来たのだ。
 何も告げずに、全てを裏切るほどの行動に出た理由。
 ケビンは貴秋からその理由を聞きたかったに違いない。千春にはそんなふうに思えて仕方がなかった。
「千春に移植された試作品を、今さら取り戻してどうする気だよ。千春を殺して取り出すのか」
 相手を突き放すような貴秋の態度は変わらない。自身の罪については、貴秋は詫びるどころか、一切触れない。言い訳や弁解が形になるきっかけすらなかった。
 ケビンの手が堅く拳を握り、小刻みに震えている。千春は狼狽するばかりだが、貴秋は態度を改めなかった。
「今さら、試作品を求めてこんな島国の外れまで来るなんて、莫迦げている」
「おまえはっ!」
 ついに堪えきれず、ケビンが貴秋に掴みかかった。千春が止めに入ろうかと一歩踏み出すと、貴秋は襟元を掴んだ彼の手を、激しく振りほどいた。
「僕が間違えたことをしたのは、よくわかっている。言い訳はしないよ。だけど、今さら僕を追いつめて楽しいのか」
「黙れよっ」
 ケビンの拳が、貴秋の顔面に向かった。千春は思わず目を閉じてしまう。鈍い音がして目を開けると、貴秋がどっと尻餅をつくように倒れるところだった。
「貴秋」
 千春が駆け寄って膝をつくと、貴秋は掌で殴られた頬を触った。
「大丈夫だよ」と呟いて、仁王立ちしているケビンを仰いだ。
「これで気がすんだのなら、帰れよ。僕達のことは放っておいてくれ」
 千春が見たこともないほど、貴秋は厳しい顔をしていた。人懐こく気の優しい彼を、どこにも見つけることが出来ない。
 別人のような表情をしている横顔を見ながら、千春は何もかもが腑に落ちなかった。
 わざと悪役を演じて、ケビンの怒りを罰として受け止めようとしているのだろうか。そう考えてみたが、自身の中に芽生えた罪悪感を拭うのであれば、ケビンに対してここまで辛く当たる必要はないようにも思える。
「ふざけるなっ」
 止めるのも構わず、ケビンは再び貴秋の胸ぐらを掴んだ。強く引き寄せて、迷いのない拳が貴秋の頬に炸裂する。千春が「やめて」と声をあげたが、それ以上の怒声に打ち消されてしまった。
「放っておいてくれだと?自分が何をしたのか判っていて、本気でそんなことを言うのか。試作品をもう一度形にするだって?随分、簡単に言ってくれる。おまえが研究成果の全てを奪って姿を消したおかげで、研究は振り出しに戻った。おまえに言われなくともチームは復元に努めているが、記憶を頼りに資料を立て直して、見事に手探り状態だ。財団との契約も白紙になった。そこまでチームを追いつめておいて、自分のことは放っておけだと?誰もが今もおまえ達のことを、血眼になって捜索しているさ」
「それは……」
 貴秋は何かを言いかけたが、すぐに呑みこんだ。
 千春はケビンの激しさに鼓動を高くして、二人の間に体を割り込ませる。かばう千春を、貴秋は「いいから」と腕を伸ばして傍らに退けた。
「そんなこと、僕にはもう関係がない」
「おまえのやったことは、犯罪なんだぞ」
「そんなことは百も承知だよ」
 再び掴みかかるケビンの腕に、千春はしがみつく。ケビンが求めている理由を、貴秋は決して口にはしない。彼は理由を口にできないのだ。
「やめてっ!」
 千春は喉が裂けそうな勢いで叫んだ。悲鳴のような声だった。親友の気持ちを踏みにじる貴秋の態度が、あまりに頑なで千春は気がついてしまったのだ。貴秋は、ケビンの立場を守ろうとしているに違いない。
 全てを語れば、ケビンがどのような行動に走るのか、貴秋には想像がつく。それは前にも彼が言っていたことだ。ケビンは貴秋の力になろうと奔走するに違いない。自分の立場を失っても、親友のために行動してしまう。
 貴秋はそれを恐れているのだ。
 彼を同じ罪に巻き込んではいけない。その一心で、頑なにケビンを突き放そうとしている。苦しい演技を続けているのだ。
 千春の記憶に刻まれた、仲の良かった二人。笑いあう光景が、今はあまりに遠い。
「違うの。違う。ケビン、違うのよ」
 ケビンの腕に必死にすがりついて、千春は繰り返した。
 傷つけあう二人を見ていることが、耐えられなかった。貴秋と二人で過ごすことを夢見たが、千春はその望みを打砕いて捨てた。
 貴秋には、まだ帰るべき場所があるのだ。彼の前に伸びている未来への道。約束された将来を諦めさせてはいけない。自分がいなくても、貴秋には支えてくれるものがある。
 こうして、彼を追ってきてくれる人がいるのだ。
 かけがえのない絆。自分のために、犠牲にさせていいはずがない。
「貴秋は、ケビンを巻き込みたくないの。だから、辛く当たっているだけなのよ。悪いのは、貴秋じゃない。そんな選択をさせた私なの」
「千春、何を言って……」
「もういいの、貴秋。私、もう充分幸せだったから、もういい。そんな、苦しい演技をしなくてもいい。きっと、今ならまだ貴秋は戻れるわ。私なんかに関わって、少し道を踏み外してしまったけれど、ケビンが追いかけて来てくれた。二人でなら、きっと戻れるよ」
 涙を零して、しゃくりあげながら、千春は訴える。泣きながらの言葉は明瞭さにかけていたが、胸が痛くなるほど切実に響いた。
 ケビンも千春にしがみつかれたまま、勢いを失っている。
「私のことはいいの。ずっと幸せだったから、もういい。次は二人の番よ。ケビン。貴秋はあなたに、夢に向かって歩き続けてほしいって。自分の夢はケビンに託しているからって。そう言っていたの。自分の我儘につき合わせて、ケビンまで道を踏み外すことはないって。ケビンに全て告白したら、ケビンが力になってくれること、貴秋は知っていたから。だから、憎まれている必要があるって。‥‥‥今だって、追いかけてきてくれたことが、本当はすごく嬉しいはずよ。二度と会えないと思っていたのに、顔を見られて、それだけでも嬉しいのに。貴秋は、そう言えないの。私を守りたいから、そして、ケビンを守りたいから。ごめんなさい、私が、二人のこと無茶苦茶にしてしまった」
 コートの袖が、千春の涙で濡れて染みになった。嗚咽を繰り返す千春の頭に、ケビンの掌が触れた。宥めるように、軽く叩かれる。千春は自分の訴えがケビンに届いたのだと、更に激しく涙が零れた。
「―――千春の言ったことは、本当なのか」
 静かだが、よく響く声がたしかめる。千春は落ち着きを取り戻したケビンから離れて、涙を拭いながら貴秋を見た。彼はごまかすことができないと悟ったのか、唇を噛んで俯く。
「どうして、こんな所まで追って来たんだよ」
 貴秋は腕を上げて、目元を押さえた。涙を確認しなくても、泣いているのだとわかった。
「俺は、おまえが憎くてたまらなかった」
 ケビンが素直に打ち明ける。貴秋は「当然だ」と頷いた。
「憎くて憎くて、だから、後を追わずにはいられなかったんだ」
 語られた言葉は辛辣だったが、声は穏やかだった。
「おまえや博士のことを、どれほど恨んだのか。おまえに想像がつくのか?居場所が判った時に、俺は迷わず会いに行こうと思った。殴りつけて、罵って、おまえが守ろうとしているものを、壊してやろうと思った」
 ケビンが隣にいる千春を見る。自嘲的な微笑みが浮かんだ。
「千春を殺しても後悔しないと、本気で思ったよ。だけど、俺の気持ちは、そんなことをしても報われない」
 貴秋がそっと顔をあげた。明らかに涙の跡を残した眼差しが、ケビンを仰ぐ。
「俺は、もう二度と裏切られるのはごめんだ」
「ケビン」
「わかるだろう?人を信じられなくなるのは、嫌なんだよ。おまえのことを、叔父と同じように感じるのは嫌だ。貴秋に裏切られたら、俺は二度と立ち直れない。二度と人を信用できない。それが判っていたから、確かめたかったんだ。おまえに聞きたかった。どうして俺に何も言わずに姿を消したのか、なにか理由があるはずだと、――ずっと、信じていた」
 貴秋が何かを堪えるように、強く歯を食いしばった。千春は安堵して、力が抜ける。ケビンはようやく、思い出の中にあるような悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「だから、そういうのを余計なおせっかいだと言うんだ」
「僕は‥‥‥」
 貴秋の言葉は、低いすすり泣きに呑まれた。それでも、何とか気持ちを伝えようと、口を開く。 
「巻き込みたくなかったんだ。……全てを決めたとき、覚悟はしていたけど、全然足りなかった。ごめん。巻き込んではいけないということを理由にして、残されたケビンの気持ちを、わざと考えないようにしていたよ」
 彼は泣きながら、「ごめん」と繰り返した。
「ケビンが信じていてくれることを、考えないようにしていたんだ。憎んでくれたら良いと思っていた。そうすれば、いつか嫌な思い出になって、ケビンは忘れてくれると思っていたから。一方的に、自分にそう言いきかせていた。本当はわかっていたのに、わざと目を逸らしていたんだ」
「――もう、いいよ。やっぱり貴秋は単純で、思っていたとおりだったから」
「ごめん、ケビン」
「だから、もういいって言っているだろう。男の癖に、いつまでも泣くなよ。ほら、千春も見ている。みっともないだろう。大それたことをするくせに、すぐに泣く。恥ずかしい奴だな」
 いかにも彼らしい気づかいで、千春は笑ってしまった。貴秋も小さく笑うと、袖でごしごしと涙を拭う。千春はその時になって、ようやく傍らに立っている女性のことを思い出した。あまりにも静かに見守っているので、存在を忘れていたのだ。
 彼女は一歩踏み出して、ケビンに近づくと「良かったわね」と声をかけた。ケビンも思い出したように「桂花」と呟いた。
「和解できたのは良いことだけど」
 桂花と呼ばれた女性は、座り込んでいる貴秋を見下ろす。彼が立ち上がるのを促すように、手を差し出して笑みを浮かべた。
「久しぶりね、貴秋。元気そうで何よりだわ」
 貴秋は差し伸べられた手に捕まると、身軽く立ち上がる。
「うん、久しぶり。何だか、みっともない所を見られたけど。もう一度、桂花に会えるとは思っていなかったよ」
 二人の打ち解けた様子を眺めている千春を、彼女は振り返った。
「あなたが、千春ね。ずっと二人から話を聞かされていたけれど。会うのは初めてね。王桂花です。はじめまして」
「は、はじめまして。遠野千春です」
 慌てて会釈すると、貴秋が補足してくれた。
「千春にも話したことがあったと思うけれど。ケビンの元彼女だよ」
 この人が、という思いで千春はじっと見つめてしまう。白衣の似合いそうな知的な顔立ちをしているが、穏やかな柔和さがあった。ケビンを見ると、彼はバツが悪いといった風情で視線を逸らした。
「だけど、二人が一緒だと言うことは、よりを戻したのかな」
 貴秋が二人を交互に見比べる。ケビンは「違う」とすぐに否定した。
「彼女は、ただ俺を気づかって、ここまで付き合ってくれただけで」
 言いながらも、ケビンは何かが腑に落ちないらしく、隣の桂花を見た。千春は彼女がまだケビンを想っているのだと簡単に考えたが、ケビンの表情はどこか剣呑だった。
 桂花は世話好きではあったが、そんな未練がましい想いで傍にいるということはしない。それを知っているから、ケビンは彼女の行動に対して、はじめて噛み合わないものを感じていた。ずっと、渦巻く葛藤に決着がつかず周りが見えなくなっていたのだろうと、失笑が漏れる。
 千春はそんなケビンの胸中には気付かず、微笑ましい気持ちで二人を見ていた。桂花は何も答えず、ふと浅く笑う。膝をついたまま動かない人型の前へ歩み寄った。シズカを眺めたまま、貴秋に問いかけがあった。
「これが、あなた達を守っていたのね。貴秋の命令は絶対なのかしら?」
「――おそらく、そうだと思うよ」
「では、私に警戒していないのね」
 呟くと同時に、桂花が素早く身動きした。再び懐から現れた手に何かが握られている。直後、ドンッと重い音が胸にまで響く。千春は一瞬、何が起きたのかわからなかった。他の二人も、床に倒れこんだシズカを呆然と見つめている。シズカは瞬きもせず、その場に仰向けに倒れていた。形の良い額に、不似合いな穴が開いている。
「いやっ」
 千春は咄嗟に目を逸らした。あまりに人を真似た姿が、額を撃ち抜かれた人間に見えたのだ。一滴の血も流れず、脳漿が飛び散ることもなかったが、気持ちのいい光景ではない。
 一呼吸ほど遅れて、辺りに漂う硝煙の匂いに気がついた。一瞬の信じられない行動を証明するかのように、桂花の手には拳銃が握られている。
「シズカっ」
 貴秋が人型に駆け寄ってたしかめる。頭部に組み込まれた指令系の装置が損傷したのだろう。シズカは微動だにせず、屍のようだった。貴秋はシズカを撃った桂花を振り返った。
「何をするんだ、桂花。これは最新の試作品なのに。何を考えているんだよ」
「都合よく、こんな所で人型の最新技術まで手に入るとは思っていなかった。無傷で持ち帰ることができれば良かったけれど、それで私がやられてしまっては本末転倒だものね。こうするしか仕方がないでしょう」
「……何の、話をしているの」
 桂花は答えず、素早く立ち尽くす千春に歩み寄った。貴秋が嫌な予感を抱いて
「千春」と声をあげる。何のためらいもなく、千春の胸元に銃口が押し当てられた。
「桂花!何の冗談だ」
 ケビンの怒声にも動じず、彼女は「動かないで」といつも通りの口調で応じる。狼狽しているのは三人だけで、桂花は落ち着いていた。隙がなく、彼女は千春を追いつめる。
「冗談なんかじゃないわよ、ケビン。トップラボの研究成果を手入れること。それが、私に与えられた使命。……貴秋、千春の命が惜しければ、あなたが持ち出した研究資料を出しなさい」
 突きつけられた要求に、貴秋はうろたえているようだった。千春は胸に押し当てられた、銃口の固さに身が竦んだ。彼女のしなやかな指が、カチリと銃弾を充填する。千春は固く目を閉じだか、どこからか恐怖が這い上がってきて、足元が震えた。
「できないのなら構わないわ。千春の死体から研究成果を取り出すだけよ」
「違う、桂花。僕は研究資料など持ち出していない」
「そんな筈がないでしょう。あなた達は結局そうなのね。人の命よりも、新たな技術の方が大切」
 千春は震えながら、閉じていた目をそっと開けた。唇を噛んで、押し当てられている銃口から目を逸らす。玄関から続く廊下にある窓が視界に入った。窓の向こうは真っ白で、雪のひとひらを見分けることもできない。その白い光景に、ふっと、何かの影がよぎったような気がした。千春は錯覚かと思って瞬きをする。何の影も見えず、白い景色だけが広がっていた。
 舞う雪が、窓硝子に影を映しただけだった。
「才国は、技術を追い求める為に、人に生きることを無理強いさせているだけ」
「そうじゃないっ!本当に知らないんだ。だから、さっきケビンに教えられて不思議に思っていた。どうして、未だに研究成果の復元が果たされないのか」
「話にならないわね」
「桂花っ」
 更に胸元に食い込んだ銃口を感じて、千春が覚悟を決める。
「私の中にある研究成果が手に入れば、貴秋とケビンは無事でいられるの?」
 真っ直ぐに桂花の目を見た。一呼吸おいてから、彼女は頷いた。
「本当に?」
「ええ」
 桂花の反応は、信じるには説得力が足りない。それでも、千春には信じてみるしかなかった。
「約束よ」
 千春は固く目を閉じる。貴秋が「千春っ」と呼ぶ声が聞こえた。
 思いも寄らない成り行きで、千春にはこれまでの経緯が全く分からない。それでも、ここで全てが終わるのだと思えた。
 貴秋やケビン、周りの人間を巻き込んで生き延びた自分には、こうして罰が下されるのだ。罰を受ける時が来たのだと、千春は覚悟を決めた。
 これまで、貴秋が惜しみなく与えてくれた愛で、千春はもう満たされている。
 貴秋はこれ以上罪を重ねてはいけないのだ。自分に関わって、道を踏み外すことはない。
 全てが自分の罪になればいい。この命と引き換えに、彼が再びあるべき道を辿り始めてくれれば、惜しむ理由はなかった。
 彼の才能を欲する人達がいる。待っている人達がいる。彼は必要とする人達に守られて、きっと元通りの生活に戻れるだろう。それだけが、希望として胸に灯る。
 それは、さっきケビンが与えてくれた希望だった。儚い望みに執着しなければ、貴秋には帰るべき場所がある。
 千春が去っても、貴秋は決して独りにはならない。独りではない。
 新たに与えられた夢。
――どうか、貴秋が幸せになれますように。
 祈りとともに、すぐ近くで銃声が鳴り響いた。


 千春は歯を食いしばっていたが、銃弾に貫かれるような衝撃はなかった。ゆっくりと目を開けると、ケビンが桂花の腕を強く掴んでいる。
「離して、ケビン」
「莫迦なことはやめろ。どうしてなんだ、桂花」
 桂花がケビンの束縛を振りはらおうともがいていた。ケビンは渾身の力で手首を捕らえているらしく、銃口は思うように標的を狙えない。
 千春を逸れた銃口からは、微かに煙がたっていた。火薬の匂いを感じながら、千春は壁に打ち込まれた銃弾を見つけた。
 もみ合いの末に、桂花の手から拳銃が落ちた。二度と桂花の手に戻らないように、貴秋がすぐに拾い上げる。
「邪魔しないで」
 桂花が叫んだ。隠し持っていたナイフが、勢いでケビンの腕を切り裂く。彼女は一瞬怯んだが、ケビンの腕の力が緩むと、そのまま千春をめがけて踏み出した。
「桂花、やめろ」
 千春の視界の端に、血に染まったケビンのコートの袖口が映る。逃げなければならないと思ったが、体が縫い付けられたように動かなかった。切り付けられて怪我を負ったケビンの腕が伸びるが、桂花は構わず突き進んでくる。
「千春っ!」
 貴秋がかばうように、千春の身体を抱いた。刃の先端が鈍く煌くのが見える。千春はこの後の事態を予想して、初めて声をあげた。
「いやっ、駄目。貴秋っ!」
 叫ぶと、キンと甲高い音が重なった。千春は貴秋の肩越しに、窓硝子の一角に亀裂が入るのを見た。どこからか突風が吹いて、髪が舞い上がる。桂花が不自然に膝をついて転倒するのと同時だった。
「そこまでです」
 聞き覚えのある声が響く。千春は信じられない思いで、現れた人影を眺めた。貴秋も千春を離して、背後を振り返る。
 閉ざされていた玄関の扉が全開していた。吹き込む風が、二人を冷たく包む。
 白衣とは対照的に黒いコートを纏って、ラボの責任者であるクロードが立っていた。
「彼らを警護している者達が、あなたを狙っています。これ以上の抵抗を続けると、命を失いますよ。動くと、撃たれた足も痛むでしょう」
 場違いなくらいに穏やかな声だった。ケビンが「博士」と呟くのが、千春にも聞こえた。扉の向こうに見える庭先には、警護の者だと思える影が見え隠れしている。
 千春には何がどうなっているのか、成り行きがわからない。
 続けて、クロードの後ろから、もう一人家屋の中に踏み込んできた人影があった。
「涼さん」
 誰なのか見分けると、貴秋が呼びかけた。彼は微笑みだけを返して、立ち上がれない桂花の前で膝を折った。彼女は見苦しくその場から逃れようとはしない。涼が手にしていた拘束具が、カチリと手首に繋がれる。手錠によく似ていた。
 銃弾は見事に彼女の足を貫通している。撃ちぬかれた傷を彼が止血した。とりあえず応急処置を施すようだ。
「どうして、博士達がここに?」
 貴秋の問いに、クロードは困ったように眼差しを細める。質問には答えずケビンを見た。
「怪我をさせてしまいましたね、ケビン」
「これは、大したことはありません。かすり傷です」
「先回りをして、出来るだけ穏便に解決したかったのですが」
 静かに告げて、クロードは手当てを受けている桂花を眺めた。
「あなたが、トップラボの機密を漏らしていたのですね。王桂花。我々の研究は財団と共にあるのです。三年前に、何者かがトップラボの膨大な資料を預かる回路に出入りしました。幸い最新の情報は漏洩しませんでしたが。我々は早急に策を講じて、二度と膨大な資料に侵入できないように、システムを作り直したのです。だから、あなたが手にした情報は、二度目からは全てが偽者なのですよ。漏洩した所で大した研究ではありません。それでも、我々には研究施設の中に、情報を盗もうとする人間がいることが事実として残されました。財団もこの事件を憂慮して、次の契約公開は犯人が明らかになってからだと慎重な姿勢に出たのです。財団は事実の解明に向けて、惜しまず協力するという体制を与えてくれました。だから、私達は貴秋達を囮にして、仕掛けてみたのです」
 桂花は俯いたまま、黙っている。千春には事の成り行きがよくわからない。貴秋も呆然とした面持ちで見守っていた。
「桂花。あなたはその仕掛けに見事にかかってくれました。犯人の標的を絞ることが出来たのなら、後は難しいことではありません。あなたの研究室からわずかな証拠を手に入れることが出来ました。その結果を受けて、あなたの自宅にも財団の捜査員が入りました」
 桂花は烈しい眼差しでクロードを仰ぐ。彼は動じず、少し離れた位置に投げ出されていたナイフを拾い上げて、カチリと刃を折りたたんだ。涼が処置を終えて、その場に立ち上がる。
「央国の生塾は、全てを認めたよ。この場所が知られてから、千春を狙ってきた人間は、ほぼシズカに捉えられていた。残党は財団の捜査員が始末をつけたようだ。君を助けに来る者は、もうどこにもいない」
 涼が教えると、桂花は顔を伏せた。何かを押し殺しているように、微かに震えている。
 千春は自分の知らないところで、そんな事態が起きていたのだと驚いた。シズカの不自然な歩行を思い出す。きっとシズカの足は損傷していたのだろう。それでも、主を守るために使命を全うしたのだ。
 桂花は打ちひしがれているように見えたが、思っていたよりは気丈な声がした。
「私は間違えたことをしたとは思っていません。才国の技術は素晴らしい。だけど、それを生かしきれない。人の手に余る技術が、どれほど人を苦しめているのか、考えたことはありますか。最高の技術を作り上げるために、人の命を玩具のように扱う。千春も、ケビンも、貴秋も、結局は手に余る技術に踊らされて、こんなふうに苦しんだのよ。義脳がなければ、彼らがこんな過ちを犯すこともなかった。愛する人が奪われる哀しみがあったとしても、それは誰もが乗り越えなければならないものだわ。人は必ず死んでゆくのだから。それを歪めようとあがいて、結局は苦しむことになる」
「では、生塾なら、技術を生かしきれると?」
「――それは、わからない。ただ、生塾は最新の科学技術には興味がない。代表は自然界の力を信じている方だから。私も多くの事を学んだ。企てたのは、その下にいた副代表。彼は自分達に技術を開拓する力がないことを理解していた。けれど、もし技術が手に入るのなら、絶対に使い方を誤らないと言った。自然の理に背かずに、活かすことができると。それが生塾の理念だからと。私には、副代表の言葉は響かなかった。エデンに所属するまでは、才国の最新技術を羨望していたし、素直にすごいことだと思っていたわ」
 桂花はそこで深く息をついた。
「けれど、セカンドラボの薬剤には、必ず多くの思惑が絡んでいる。一つの薬剤が完成しても、市場に出る時には意味を失っている。病に苦しむ人を助ける為ではなく、利益だけが優先している。生塾で学んだ、人の助けになりたいという思いは覆されて行く。これほどの技術が生塾にあれば、どれほど人の助けになるか、そう考えるようになった。私には、何が正しいのかよく分からなくなっていた。だから、答えがほしくて企てに加担したの。副代表はトップラボの技術を欲した。……だから、ケビンに近づいたわ」
 桂花はケビンを見あげて「ごめんなさい」と謝る。その眼差しがあまりに切なくて、思惑と無関係に、彼女がケビンを想っていたのだと知れた。ケビンは何も答えずに、立ち尽くしたまま桂花を見ている。
「ケビンに関わって、やがて私は今回の一連の事件に行き当たる。またかと思ったわ。苦しむケビンを間近に見て、あってはならない技術があるから、こんな事件が起きるのだと感じた」
「あなたは、技術を憎んでいるのですね。時として人を苦しめ、愚かな行動に向かわせる手段として」
 クロードの問いかけに、桂花は再び「わからない」と答えた。しばらく沈黙が訪れたが、再びクロードが口を開く。
「では、ケビンを苦しめる千春と貴秋が憎かったのですか」
 桂花は弾かれたように顔をあげた。自分でも気づいていない気持ちを言い当てられたような戸惑いの表情だった。千春は、クロードの言うことが正しいのだと感じる。
 彼女の語った成り行きは、繋がっているようで繋がっていないのだ。彼女が何かを理想に掲げて行動を起こしたとしても、千春の命を狙うという行為が全てを覆す。
 時として、いき過ぎた技術は、一所懸命に生きる人の思いを踏みにじるのかもしれない。技術を巡って醜い確執も起きる。どんなに素晴らしい技術でも、それは諸刃の剣となるのだ。それを求める人たちの思惑によって、善にも悪にもなってしまう。
 人は決して愚かではないとは言い切れないのだから。
――けれど。
 千春がそこまで考えたとき、クロードが告げた。
「あなたの中には、人の幸せを思う理想があったのでしょう。けれど、多くの思惑が絡み合うのを見ていると、見失いそうになってしまった。それを恐れて、生塾にすがってしまったのです。しかし、あなたが信じた生塾の副代表も人格者とは言い難いでしょう。彼は自身の私腹を肥やす為だけに、才国の技術を欲したのです。桂花、私は思うのですが、本当に人を助けたいと願う人物が、その手段に借り物を欲するのでしょうか。誰かを救いたいと思う気持ちが、何かを創り出そうとするのです。そう思いませんか」
 桂花は無言だったが、深い溜息を漏らした。
 立ち尽くして話を聞いていたケビンが、悲しそうに眼差しを伏せる。千春は彼も気付いたのだと思った。桂花という女性の中にあった真実に届いたのだと。
 まるで千春の思いをくみ取ったように、クロードが一つの答えを導き出す。
「桂花。あなたは、ケビンを本当に愛していたのですね。彼が苦しむのを見て、やりきれなくなったのでしょう。時として人を狂わせる技術を憎む。その思いを言い訳にして、あなたは義脳を憎みました。義脳を巡って愚かな行動に出た貴秋と千春を憎んだ。本当は、知っていたのでしょう。自分の気持ちなのですから。あなたはケビンを苦しめる千春と貴秋が憎かったのだと」
「―――私は」
 桂花がうなだれたように顔を伏せた。
「そうでなければ、あなたの語ったことも行動も、辻褄があわないのです。ケビンのためでなければ、あなたが目の前で懸命に生きている千春を殺す理由など、どこにもありません。貴秋自身を憎む理由もないでしょう。人を苦しめ、追いつめる技術が憎いのだとしても、それは目の前で生きている人間を殺す理由にはなりません」
 ケビンが一歩だけ彼女に近づいたが、再びそこから動かなくなった。動けなくなったのだと、千春は感じた。桂花の手が小刻みに震えていたのだ。今までひたすら気付かないふりをして、秘め続けてきた思いが明らかにされた。彼女の中を駆け巡る想いは、どのような結末を望むのだろうかと、千春は息を呑んでしまう。
「そうですね。私は、……苦しかった」
 俯いた桂花の顔から、涙が零れた。それは点々と床の上に落ちて、吹き込んで溶けてしまった雪に混じる。
「ここでの研究は私に新しい世界を見せてくれた。生塾で教えられた理念とは何もかもが違っていたけれど、それでも、いずれは人を助けるものであれば良かった。方法が違っても、目指していることは同じだと思っていたから。けれど、周りの思惑は、私の中にある理想からは遠かった。人を助けるという役割より、利潤の追求が優先している。それを否定はしないけれど、私には悔しかった」
「それでも、セカンドラボが手がけた薬剤が、役割を失ったことにはなりません。どんな思惑が絡んでいても、いずれは人を助けるという役割を果たします」
「……そうなのかもしれません。ただ、私は疲れていました。私の思いが、既に闇に捕まっていたのかもしれません。ケビンは、私にとっては救いでした。彼の研究に対する志には迷いがない。人の助けとなる技術を開拓して行くことに、誇りを持っていた。とても、慰められました。同じような思いの人間が間近にいることが、私の支えになった。彼と親しくなる動機など、どうでもよくなっていた。ケビンに出会えたこと、とても感謝しています」
「桂花」とケビンが呟いた。彼女は自分を蔑むような笑みを浮かべる。
「だから、千春と貴秋の事件を知った時に、苦しんでいるケビンを見ているのが辛かった。力になりたかった。だけど、貴秋達を憎んだ理由は別のところにありました」
 ケビンは何か感じることがあったのだろう。ふっと表情が翳る。
 彼女はゆっくりと頷いた。
「認めます、クロード博士。――人を狂わせる技術を憎むということは、建前になっていました。生塾にこの技術を与えるという使命も、いつからか言い訳になっていた。私は、ただケビンに必要とされたかった。私の想いは、ケビンの夢の前には塵に等しかった。彼の志に慰められながら、それを越えることの出来ない自分の立場が苦しかった。疎ましがられない、友人の距離を選ぶしかなかったわ。だけど、あなたは貴秋を思って、自分を見失うほど苦しんでいた。私には、そんなふうに執着してはくれなかったのに。――私は、ケビンの心を捕らえている貴秋が、憎かった。嫉妬していたの」
 桂花は「ごめんなさい」と繰り返した。
「私は弱くて、手に入らないものがあることを、認めることが出来なかった」
 聞いているのが辛くなるほど、哀しい告白だった。手に入らないものがあると認めるのは、簡単なことではない。千春には痛いくらいに良くわかる。
 誰かを傷つけ、犠牲にするとわかっていても、千春にも諦められなかったものがあった。貴秋と過ごすひととき。その至福を諦めることが、どれほど辛かっただろう。
 罪にまみれた思い出を恐れて、記憶の底に封印して逃げていた日々。忘れることで、苦しみから逃げ続けた弱い自分。誰もが同じなのだと思う。
 自身の弱さと戦わなければならないのは、同じなのだ。命を苛む病を患っているから、過酷なのではない。どんな些細なことでも、自分が挫けてしまったら負けなのだ。
 彼女はやっと自身の弱さをさらけ出すことができたのだ。それは一つの壁を乗り越えたことにはならないのだろうか。泣き崩れる彼女を見ながら、涙と共に彼女の罪が軽くなればいいのにと、千春は願ってしまう。
 ケビンがゆっくりと歩み寄るのを、誰も何も言わずに見守っていた。
 彼は桂花の傍で跪くと、そっと肩を抱いた。彼女の耳元で何かを囁いて、微笑む。千春には聞き取れなかったが、桂花は更に嗚咽して「ありがとう」と答えた。
 やがて財団の捜査員が彼女を連れて行くまで、ケビンは傍を離れなかった。


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サイトup 2004.8.24