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楽園の愚者達

第八章

 凍えるような寒さが、いつのまにか茹で上がりそうな熱さに変わっていた。吹雪の中で、千春は貴秋の腕に抱かれている。
「思い出して。僕の気持ちだけでもいいから」
 風の鳴る音の中で、声だけが明瞭に響いた。彼が思い出してほしいと望んでいる。彼が望むのであれば、思い出さなければならない気がした。
 千春の中で、何かが記憶の空白を埋めようと蠢く。
 自分の中を埋める思い出。閉ざされた過去を辿ろうとすると、行く手を阻む思いがあった。遡ることを望まず、許さない。立ちふさがるもう一人の自分。
 思い出してはいけないと、強く心の底で警鐘が鳴った。
 千春はその激しい危険信号にすくむ。開けてはいけない扉があるのだ。
 意識が高熱に浮かされたように朦朧としている。このまま目を閉じて眠りにつこうかと思えた。目覚めた時には、また全てを忘れているのかもしれない。
 苦しいこと、哀しいこと、その全てを。
「僕は、君が好きなんだ。他の誰でもない、君だけが」
 意識を手放そうとすると、体を抱く腕に更に力が込められた。泣いている彼を感じて、胸が苦しくなる。哀しみに震えている体。千春はこの抱擁を、どこかで味わったことがあるのだと気付いた。
「……生きていてほしかったんだ」
 この声を、想いを知っている。生きていてほしいと願う気持ちも。
 苦しいのは、自分ではない。思い出を捨てて逃げることなど、許されるわけがない。
 逃げてはいけない。向き合って、彼に応えなければならないのだ。
 目を逸らしてはいけない。ここで、目を閉じてはいけない。
 胸に去来する、思い出の波。
 千春は目眩に襲われた。空白を埋める情景が、封印をとかれたように溢れ出る。
 あまりの激しさに、繋ぎとめていた意識が呑まれてしまう。
「……私――」
 朦朧とした意識の中に、蘇る声。
(僕のことを許して)
 胸に木霊する想い。愛しくて、切ない。
 固く閉ざした扉が、ゆっくりと開かれてゆく感覚。
(――君を守る)
 いつでも、声は哀しみに満ちていた。目を覚ませば、その哀しみは自分のものになってしまう。
 千春はそれを恐れていた。
(僕のことを嫌いでもかまわない)
 胸を苛む想いに捕われてしまう。
 許されない罪を犯したのだ。
(生きていて、死なないで)
 生きていては、いけなかった。
(諦めないで、――傍にいて、……)
 思い出してはいけない。
 けれど、忘れることは許されない。
 あれは、愛しい人の言葉。自分を包む、優しい温もり。
――貴秋の声。
(ああ、……どうして)
 生きていては、いけなかったのに。
 自分が生きている、そのために払われた犠牲。代償。
 貴秋の輝いた未来。その全ては奪われた。
 他の誰でもない、千春がそう仕向けたようなものだ。
 出会って、想いを通わせてしまったから、彼を巻き込んでしまったのだ。
 二人で過ごした情景が、千春の中を埋め尽くしていく。
 愛した人に罪過を背負わせて、自分がここにあるのだということ。
 自身を守る封印を破って、千春はようやく全てを思い出した。



 過去を辿る夢から醒めると、温かい涙が頬を伝うのを感じた。辺りは暗い。千春は涙を拭って目を凝らす。ぼんやりと室内が浮かび上がってきた。
 元は診療所であった家屋の、千春の部屋だった。
 締め切られたカーテンの向こう側に、陽光を感じない。吹雪くような風の音も聞こえてこない。部屋はしんと静まり返っている。
 真夜中の気配がした。
 意識を失う間際の、息の苦しくなるほどの熱はひいている。激しい雪の中を、貴秋は千春を抱えてここまで運んでくれたに違いない。
「私、生きていた」
 千春の頬を、再び熱い涙が零れ落ちた。
 記憶を失ったまま目覚めた、以前の自分とは違っている。彼の示したとおり、身代わりなどではなかったのだ。貴秋から全てを奪った罪。どうして、そのことから目を逸らしていられたのだろう。忘れることなど、許されるわけがなかったのに。
 こみ上げる想いを、何と表現すればいいのかわからない。千春は声を殺して泣いたが、時折、嗚咽が漏れた。
「千春、目が覚めたの?」
 近くで聞き慣れた貴秋の声がした。千春ははっとして、視線を彷徨わせる。暗闇に慣れた目は、寝台に寄り添っていた影を見分けることができた。千春がゆっくりと半身を起こすと、彼の影も身動きした。寝台に上体を伏せるようにして、貴秋も眠っていたのだろう。
「気分はどう?」
 彼は音もなく立ち上がり、寝台に腰かける。身体をよじるようにして手を伸ばすと、寝台の隅にある小さな照明をつけた。暗闇が一角だけ、光に包まれる。貴秋と千春を照らし出すには、充分な光だった。
「泣いているの?左足が痛む?」
 彼は千春の記憶が戻っているとは夢にも思わないだろう。自分を気遣う彼の仕草は、記憶の断片と異なるところがない。いつでも千春に向けられているのは、切なくなるほど優しい眼差しだった。
「黙っていたのは悪かったけど、君の左足は義足なんだ。できる限りは直したつもりだけど、損傷したまま動かし続けたから、影響で高熱が出た。三日も眠り続けていたから、心配したよ」
 貴秋は腕を伸ばして、千春の頬を伝って流れる涙を指で拭った。そのまま額を掌で押さえて「熱は下がっているね」と微かに笑う。
 記憶を失った千春を責めることもなく、また記憶がないために誤解をして、身代わりは嫌だと我儘をぶつけた千春を嫌悪することもない。彼の振舞いは、どこまでも優しく千春を守り続けるのだ。止める術のない涙が、尽きることを知らないように溢れ続けた。
「千春、泣かないで。君は本当に誰の代わりでもないんだよ」
「……知っている、わ」
 嗚咽しながら、千春は何とか答えた。彼が
「え?」と聞き返すのと同時に、もう一度繰り返す。
「知っているわ、貴秋。私、全て思い出した。自分のことも、貴秋のことも。全部、思い出したのよ」
 打ち明けると、わっとこみ上げてくるものがあった。堪えきれずに、千春は彼にすがりつく様にして声を上げて泣いた。この腕の中に戻れたことが、嬉しいのか哀しいのかもわからない。
「嘘、だ。――本当に?本当に思い出したの?千春」
 彼にすがりついたまま、千春は深く頷いた。支えるように回された貴秋の腕に、力がこもる。「奇蹟だ」と呟く声が、かすれていた。
「奇蹟なんかじゃ、ない。私は貴秋の将来を駄目にしてしまったわ。どうして?貴秋。どうして、私のために全て捨ててしまったの?ケビンの信頼も、ヘレンの命も。貴秋の立場も夢も、私が奪ってしまった」
「違うよ、そうじゃない。千春のためじゃないんだ、これは自分のためにしたことだから。千春が自分を責める必要はない。それに、ヘレンの骨髄移植は無事に果たされた。大丈夫だよ。誰かの命を犠牲にしたわけじゃない」
「じゃあ、ケビンは?全て知っていたの?」
 千春は身体を離して、真っ直ぐに貴秋を見上げる。彼は翳りのある微笑みを浮かべて、首を横に振った。
「ケビンに打ち明けたら、彼がどう動くのかは想像がついた。だから、話せなかったんだ。僕には、ケビンの夢や立場を奪う勇気がなかった。彼には、そのまま歩き続けていてほしかったから、憎まれることを選んだんだ」
「――そんな」
「ねぇ、千春。君は、僕のことを恨む?こんな思いをさせてまで、生きること無理強いさせた僕のことを、憎んでしまう?……僕は、千春との約束を守らなかったから」
「そんなこと……」
 千春は言葉が詰まった。彼を憎むことなど、できるはずがない。
 いつでも、卑怯なのは自分だった。哀しみと苦しみから逃げる為に、忘れてはならない記憶を、罪と一緒に封印していたのだ。
 彼には傷ついてほしくなかった。犠牲を払ってほしくなかった。それは本心でありながら、偽善でもあったのだ。いつでも心の底で、千春が懸命に隠していた本音。
 貴秋と共に、生きていたいという願い。
 叶えられてはいけない夢にすがっていた。ひとときでも長く生きて、彼の傍にいたかったのだ。両親に架せられた約束ではなく、千春が彼との幸せを夢見てしまった。
「ごめんね、千春」
「そんなこと、ない。貴秋が謝ることなんてない。私が貴秋を憎むなんて、できるはずがない。だって私、知っていたわ。私が生きるということがどういうことか。あなたがケビンを裏切って、全てを無くすと知っていて、それでも。――私はそれでも、本当は貴秋の傍にいたいと願っていた。生きていたいと思っていたのよ」
 決して口にすることのできなかった本音を告白すると、貴秋は強く抱きしめてくれた。責めることもなく、ただ強く抱きしめていてくれた。
 貴秋は千春を離さずに、ゆっくりと口を開いた。
「どこか、遠くへ行こうか」
「どこかって、どこ?」
「誰も僕達のことを知らない田舎の街がいい。過去を全部捨てて、ひっそりと穏やかに暮らすんだ」
「ここよりも、遠くで?」
 千春が体を離すと、貴秋は頷いた。 
「ここは博士達が用意してくれた場所なんだ。ほとぼりが冷めるまで、隠れているための場所。博士達はきっと、その後のことも考えてくれているだろうけど、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。僕が一方的に連絡を絶てば、今ならまだ僕一人がやったことにできるはずだ。もし全てが明らかにされて、彼らが立場を失うようなことがあったら辛いし、……それに、いつまでも千春を監視されているようで嫌なんだ」
「静のこと?」
「シズカはここに置いていこう。登録を抹消して、それで問題はないと思う。博士達にもさよならの連絡くらいは入れる」
「――だけど、それは、本当に全てを裏切ることにならないの?」
「そうだね。僕はどこまでも勝手だ。だけど、トップラボを裏切るのは、はじめから考えていたことだから、今さら怖気づいたりしない。ひっそりとどこかに紛れて、穏やかに暮らせたら、それ以上は望まない。千春が一緒なら、それだけでいいよ」
「貴秋はそれでいいの?全部なくして。家族の所にも二度と戻れないのよ」
 彼は穏やかに笑った。どこか大人びた微笑みで、千春がはじめて見る表情だった。
「もう、覚悟は決めていたから。千春が目覚めてくれたから、後悔しない。全て思い出して許してくれたから、もう何も怖くない」
「だけど、私はいつまで生きていられるかわからないわ」
 弱気な発言に叱責されるかと思ったが、貴秋は頷いた。
「それでもかまわない」
 静かだが、決意した声だった。千春は貴秋の覚悟を感じた。
「もう、今、手に入れた幸運で充分なんだ。千春と何の束縛もないところで過ごせたら、その思い出だけで幸せだと思う。僕は生きていけるよ。だって本当は、とっくに失っていた筈なんだから、今が在るだけでも、幸せなんだ」
 与えられるはずのなかった、二人の時間。貴秋がこれ以上の未来を夢見ていないのだと、千春にもわかった。諦めているのではなく、手にできた幸せだけを見つめているのだ。
 貴秋はどうすれば満たされていられるのかを知っている。これ以上の至福を夢見てしまったら、今手の中にある幸せが色あせてしまう。
 両親を無くしてから、千春もずっとそうして生きてきた。目の前にあるささやかな幸運を噛みしめて、生きてゆくということ。
「うん。そうだね、貴秋。私達、こうして二人でいられるだけで、もう何よりも幸せだね」
 彼が傍にいて、触れ合うことができる。それ以上の至福はない。不安に苛まれて、その満たされた思いを失う必要はないはずだった。 
 ぱたぱたと、千春の瞳から涙が零れ落ちた。貴秋が腕を伸ばして、もう一度千春を抱き寄せた。彼が傍にいてくれるなら、今はそれ以上を望まない。
 望んではいけない。
「どこか遠くへいこう。二人だけで」
「――うん」
 どこか遠くへ。
 千春は頷いたが、この約束も果たされることはなかった。



 午後五時を過ぎると、エデンの研究棟にも静寂が満ちている。
 何の前触れもなく、研究室の扉が開いた。その部屋の主であるクロードは、発光している画面の下でキーを打つ手を止めず、振り返る。
 入ってきたのは、彼がもっとも信頼を寄せる涼だった。彼はいつもの調子で隅に配されているソファに座る。
「今、通路でケビンと擦れ違いました。博士の思惑通りに、事は運びそうですね」
 共にトップラボを背負う者として、二人には守らなければならないものがあった。クロードはキーを打つ手を止めて、椅子に掛けたまま体の向きを変えた。同時に、研究室の照明が灯る。
 冬は日が暮れるのが早く、夏に比べると照明の反応時刻が早い。
「ケビンが休暇届を出しました」
「理由は?」
 涼の問いかけに、彼は首を横に振ってみせた。蒼みがかった銀の髪が動作に合わせてサラリと翻弄される。
「陸国の叔父を訪ねるのだと言っていましたよ。……信じてはいませんが」
「貴秋の所へ行くというわけですか」
 クロードは頷いた。貴秋との連絡は、一連の事件のはじまりからずっと続いていた。
 千春に関わる全ての経過は、二人に報告されていた。貴秋にとっては、無謀な願いのために危険な橋を渡らせた二人への、恩返しの思いがこもっていたのかもしれない。
 移植後の経過を詳細に伝える。その位のことでしか、研究に打ち込む二人の力になれないのだと悟っていたのだろう。
 最近、彼から連絡があったのは一週間前のことである。千春が記憶を取り戻したという報告だった。
「貴秋の所在を、彼との通信の記録に故意に記してみましたが」
「それでケビンが貴秋の所在を知ったのは、疑いようがない。彼は、ずっと私達のやりとりを知っていた。知っていて、今日まで何も聞かずに機会を伺っていた」
 クロードは腕を動かして、画面の電源を落とした。
「我々に対して口数が減るのも道理ですね。さぞかし裏切られたと思って、貴秋と同じように憎まれていたことでしょう」
「全てを明らかにして、彼らが許してくれるのかどうか」
 涼の憂慮をものともせず、クロードは穏やかに笑う。
「許されなくとも、これ以上、トップラボの情報が漏洩するのは阻止しなければなりません。そのために、私達は仕掛けたのですから」
「はい」
「……千春の記憶も戻りました。一年以上も意識を取り戻さず、ようやく目覚めた時には記憶を失っている。あり得る筈のない事態に、一時はどうなるのかと思いましたが。貴秋は義脳の移植が原因だと、疑問を抱くことはなかったようですね」
「彼にとっては、長い一年半だったはずです。私と博士の仕掛けたことを知れば、激怒するだろうな。一発くらいは殴られる覚悟をしておいた方がいいかもしれません」
「殴られるだけですめば良いですがね」
 クロードが苦笑を浮かべると、涼は重い吐息をついた。
「それで、涼。どうだったのですか。貴秋との通信は、わざと記録に残して漏らしていたわけですが。それでも、ケビンがはじめから私達を疑って、そんな真似をするとも思えません。誰か教えたものがいる筈です。目処はつきましたか」
「断定はできませんが。ただ、本日休暇の申請をした人間がもう一人います。セカンドラボの、王桂花。ケビンとは付き合っていた時期もあったと思いますが」
「王桂花。セカンドラボの央国出身の女性ですね」
「はい。……彼女は央国の生塾から、エデンに抜擢されました。ケビンの親しい人間だと言っても、この符合は都合が良すぎます」
 クロードは長い指先でこめかみを押さえた。央国は四大国に数えられる一国ではあるが、医療工学については後進国と言えた。古から生薬の精製に長けており、自然の治癒力を大切に守るという人々の思いが強い。才国のように、造られた臓器を移植するなどという発想を受け入れるのは、まだ難しいだろう。
 陸国に並ぶ広大な国土を持ち、他の大国よりも気候が緩やかで農耕に適している。
 生塾というのは央国に根付く組織だ。自然の理に背かない医療を模索している集まりで、優れた生薬を生み出して来た。その自然界の恩恵を最大限に引き出す技術は、才国も注目している。
「だいたいの形が見えてきたようですね。財団に協力を仰いで、早急に情報を集めてもらいましょう。わざと貴秋の所在を漏らした時点で、彼らの身辺の警護は強化してあるので心配はしていませんが。技術を手に入れることが目的であれば、間違いなく、囮である千春を狙うでしょう」
「はい。私達も、貴秋達のところへ向かわなければなりませんね」
「ええ」と答えながらクロードは白衣の胸にあるネームプレートを外す。涼もこれからの行動を思い、ソファから立ちあがった。クロードが指示を出す。
「ケビンよりも、先回りをしておく必要があります。チームには休暇を与えて、早急にスケジュールの調整をして下さい」
「わかりました」
 素早く部屋を出ようとした涼の背中に、クロードが穏やかな声音を投げる。
「ようやく全て明らかになりそうですね」
「長い道程でしたね、博士。猜疑心にとりつかれた日々も終わりです。そのために、彼らを苦しめてしまった」
 自嘲的に笑って、涼が室内から姿を消す。クロードは白衣を脱いで、深く息をついた。
 大芝居を打って仕掛けた成り行きが、ようやく動きを見せる。これから、どのような展開が繰り広げられるのかを思うと、胸が騒いだ。少々のことでは動じることのないクロードだが、今回に限っては焦燥が渦巻く。
 全てが思惑の通りに、何事もなく決着がつけばいい。
 そう願わずにはいられなかった。



 千春は小さくまとめた荷物を眺めながら、溜息をついた。顔をあげて室内の窓から外を見ると、ひらひらと雪が降り始めている。記憶を取り戻してから、貴秋と二人で旅立つ用意を整えたが、予定していた日程からは既に五日が過ぎてしまった。
 旅立つことのできない理由は、シズカだった。
 これまで一週間か二週間に一度、その人型は顔を見せた。行動には謎が多いが、定期的に物資を運んでくることを考えると、こちらの都合で足止めすることもできない。シズカは決して家屋に宿泊することはなく、最後に現れたのは千春が高熱で倒れた日である。
 貴秋はシズカの次回の訪問時期を予想して、この家屋から引き払う日を予定した。これと言って手続きをするわけではないため、単なる心構えに過ぎない。
 前の訪問から二週間を過ぎるまでは鷹揚にかまえていたが、それからは一日が過ぎるたびに嫌な気持ちが増した。
 何かあったのではないか、あるいは何かの予兆ではないのかと不安が強まってゆく。
「今日も、シズカはやって来ないのかしら」
 思わず千春が呟くと、傍らに座っていた貴秋が顔を上げた。
「どうだろうね。今までを振り返れば、もう現れてもいい頃だけど」
 言いながら、彼も同じように窓から庭先を眺めた。
「また、雪が降ってきたね」
「うん。外は寒そう」
 前に降り積もった雪が解けてなくなる前に、新たに雪が降り積もる。まだ積雪の厚みはそれほどではないが、庭先の雪の白さが失われることはない。
 千春は何気なく短くなった髪を指で弄ぶ。貴秋と出会った頃の長い髪が嘘のようだった。おそらく脳に移植をした時に、切られてしまったのだ。
「前と比べると、随分短くなったね。また、髪を伸ばすの?」
 貴秋に聞かれて、千春は迷わず頷いた。
「もちろん伸ばすわ。だって、貴秋は髪の長い女の子が好きだって聞いた事があるもの」
 からかうように言うと、彼は
「違う」と慌てていたが、すぐに誰がそれを教えたのか思い当たったらしく、淋しそうに呟いた。
「ケビンだね。彼が教えたんだろう」
「うん」
 隠さず頷くと、貴秋は「そっか」と言ったきり黙り込んでしまう。袂を別った親友のことを考えているのだろうと、千春も口を閉ざした。
 目覚めた時、彼は千春に一ヶ月眠り続けていたと教えてくれた。しかし、実際は一年以上の月日が経っていたのだ。目覚めない自分を前に、貴秋がどのような気持ちで過ごしたのかを考えると、千春はそれだけで胸が苦しくなる。
 彼は千春の反応から、記憶を失っているとすぐに判断したらしい。記憶がないのなら、一連の成り行きを思い出さない方が千春のためだと考えて、過去を教えなかったという。
 才国の医療施設で過ごした日々を、千春は昨日のことのように思い出せる。記憶を取り戻すと、一年以上も経っていることの方が驚きだった。
 千春は立ち上がって窓際に寄ると、雪の降っている外を眺めた。庭は美しいほどに、一面が純白に染められている。
「綺麗」
 思わず呟いて、魅入ってしまう。
 汚れのない光景に、不自然な影が現れたのはその時だった。千春が小さく声を上げると、貴秋がすぐに反応した。素早く立ち上がって窓際へ寄ると、外の状況に目を走らせる。
「――シズカ?」
 影は間違いなくシズカだったが、明らかに様子がおかしい。いつものような颯爽とした振舞いはなく、不自然な歩みで真っ直ぐに扉へ向かってくる。貴秋がすぐに玄関へ飛び出した。千春もすぐに後を追う。
「シズカ、どうしたんだ」
 美しい人型は中へ入ってくると、まるで力尽きたようにがくりと膝をついた。無表情のまま貴秋を仰いで口を開く。
「どこかに身を隠してください。貴秋、千春。出来る限りお守り致しますが、お願いします」
「シズカ?」
 シズカは開け放たれた扉の向こう側に広がる光景に対して警戒をとかない。膝をついて立ち上がることの出来ないまま、上着の内側から銃を取り出し、両手で構える。
 庭先に人影はなく、門扉の外にも何も見えなかった。
 千春は激しく踊る雪の向こう側に目を凝らす。貴秋も息を呑んで、シズカの警戒に同調した。風の音が激しくて、物音を捉えることは出来ない。
「身を隠してください」
 シズカは同じ台詞を繰り返していた。突然の成り行きに、貴秋は身動きができないようだ。千春も現実感が沸いてこない。シズカの警告を背景音のように聞き流していた。
 緊張が高まって行くのを感じる。千春はコクリと息を呑んだ。
 次の瞬間。
 吹雪の向こう側で、庭先に人影が現れた。
「――駄目だ、シズカ。撃ってはいけないっ!」
 千春が現れた人影を見分ける前に、貴秋の怒声がした。シズカは主の言葉に逆らわず、そのまま静止した。白い帳の中を、傘も差さずに現れた人影。一人は見たことのない女性だったが、もう一人は千春にも見覚えがあった。
 背の高い、凛とした姿。
 雪が吹きつけても、その明るく黄色の強い金髪は白く染められることがない。記憶に刻まれた白衣が蘇る。同じくらいの丈のコートが、強い風に煽られてひるがえった。
「……ケビン」
 貴秋の呟きが、千春にも聞こえて来た。信じられない訪問者を前にして、千春は動きを封じられたように立ち尽くす。以前のように、笑顔で迎えられるような立場ではなくなっていた。
 ザクザクと雪を踏みしめる音が、少しずつ大きくなる。表情を読むことが出来る距離まで来ると、千春はゾクリと背筋に戦慄が走った。吹き込んでくる風よりも、彼の微笑みの方が冷たい。蔑むような酷薄な色が、ケビンの美しい瞳の青を彩っている。
「久しぶりだね、貴秋」
 二度と聞くことのないと思っていた、懐かしい声が聞こえて来た。


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