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楽園の愚者達

第六章

 千春の外出は、担当医が認めてくれた。貴秋は休日を利用して、約束どおり彼女を外へと連れ出した。あまり遠出をして、かえって疲れさせることになってもいけない。そう考えて、施設からそれほど遠くない大通りへ向かった。
 千春の歩行は、既に義足だと思えないほど自然だ。ゆっくりと街を歩く程度なら、何の遜色もない。
 大通りは華やかな店が建ち並び、賑やかだ。一際大きな建物は劇場で、二人は観劇を楽しんだ。公演が終わると、カフェで遅めの昼食を取って他愛無いことを語り合う。
 軒を並べる店をひやかしながら、二人で街を彷徨っているとすぐに夕刻が訪れた。
 貴秋が腕時計を見ると、既に五時を過ぎていた。千春の門限は午後六時と決められている。
「千春、そろそろ戻らなきゃいけないね」
 街並みを飾る店にも、既に煌々と電灯がともされていた。秋も半ばになれば、日が暮れるのも驚くほどに早い。千春はレンガをはめ込まれた道を歩きながら、貴秋を仰いだ。
 駄々を捏ねることはなく、素直に頷く。大通りの広い道路の果てに沈んでいく夕陽が、千春の白い頬を朱に照らす。それが何も語らない千春を、淋しげに見せた。
 貴秋は切なくなって、思わず口を開いてしまう。
「帰り道で、どこか見ておきたい所はある?少し位なら寄れるよ」
 千春は「だけど」と言ってから、貴秋の気づかいを無駄にしないようにと思い直したのだろう。「ありがとう」と笑った。
「施設の近くに、小さな教会があったの。少しだけ、立ち寄ってもらってもいい?」
「もちろん」
 貴秋は教会に覚えがなかった。毎日のように行き来しているのに、気付いていなかったのだ。道程を戻ると千春の言うとおり、小さな教会があった。
 周りに植えられた常緑樹に隠されるように、ひっそりと佇んでいる。遠目には荒れている印象がしたが、近くまで来るとそうではないことに気付く。周りの庭園は、花こそ咲いていないものの、綺麗に手入れされていた。
 貴秋は神父の姿を探したが、人の気配がしなかった。一般に開放されているらしく、扉は開け放たれたままだ。
 建てられたのは、随分昔なのかもしれない。丁寧に手入れされているが、建物が示す年季の具合から、既に一世紀は経っているような気がした。
 ひび割れた階段を数段のぼって、二人は教会の中へと踏み込んだ。美しいステンドグラスが前方を飾っている。祭壇には飾り気がなく、古びていたが木目が綺麗だった。
 聖堂の中は明かりがなく、扉と窓から差し込む夕刻の陽光も、少しずつ夜の闇にのまれつつあった。
 千春は祭壇の前へ辿り着くと、貴秋を振り返った。
「ここでお祈りすれば、天国に声が届くのかしら」
「よく知らないけど。そうじゃないのかな」
 儀式やしきたりを無視したまま、千春は両手を組み合わせて顔を伏せた。一心に何かを願っているように見える。貴秋も同じように祈りを捧げるように手を組み合わせた。
 耳の痛くなるほどの静寂が広がる。堂内は暗さを増してゆくが、不思議と恐れはなかった。街の喧騒にはない静息が、心地よいほどである。
 千春はしばらく祈りを捧げていたが、やがてゆっくりと顔をあげた。
「何をお願いしていたの?」
 立ち尽くす千春に、貴秋が問いかける。彼女は「違うの」と首を振った。
「お父さんとお母さんに、報告していたの。私は幸せよって」
「千春のご両親って、島国にいるんだよね」
 不思議に思って首を傾げると、千春は「うん」と頷いた。貴秋の戸惑いを察して、千春が教えてくれる。
「あのね、実は島国の両親は養父母なの。本当の両親は、もう亡くなっているのよ」
 他愛無いことを話すように、彼女はあっさりと口にする。貴秋は初めて聞く事実だった。
「そう、だったの」
 何と言えばいいのか分からなくて、貴秋は言葉に詰まった。聖堂の中には夜の闇が忍び込んで、隣にいる相手の表情がはっきりと見えない。千春は堂内を扉に向かって歩き出す。貴秋もゆっくりと後に続いた。
 聞こえてくる千春の声は、いつもの明るい響きをしている。
「お父さんは交通事故。それから間もなく、お母さんが病気で。お母さんは昔から虚弱体質だったから。二人とも私が十歳の時に逝ってしまった。だけどね、お母さんが言っていた。私の笑顔が大好きだって。笑っていたら、いい事があると教えてくれた。だから、約束したの。一人になっても、必ず幸せになるって。いつでも二人に笑顔を届けるから、見守っていてねって。だから、こんなふうに病気になっても、できるだけ笑っていたい。簡単に諦めてはいけないって思っているのよ」
「――千春」
 声ははっきりしていたが、彼女が泣いているような気がして、貴秋は腕を伸ばした。彼女の長い髪に触れて、慰めるようにそっと頭に手を置いた。
「本当はね、哀しくて仕方がない時もあったわ。哀しくて、淋しくて、仕方がなかったけど。それでも、笑っていれば、幸せになれると信じることにしたの。私は運も良いみたいだし。両親の残した財産で、生活に困ることもなくて、……遠野家のような大きな家に迎えてもらえた。路頭に迷うようなことはなかったものね」
「千春のそういう所、僕は好きだよ」
 自分の置かれた立場を受け入れる彼女の強さ。それは輝きとなって、貴秋にも力を与えてくれる。この小さな体で、彼女は独りきりで真っ直ぐ立っている。
 決して幸運だとは言えない環境で、それでも自分は幸せなのだと笑う。自分を追いつめる不幸を振り返らず、乗り越えて、与えられたささやかな幸運だけを見つめているのだ。
 千春は貴秋の告白を慰めだと受け取ったのか、照れたように笑った。いつもの無邪気さで、暗闇に笑い声が響いている。
「真っ暗だわ。外も暗くなっちゃった。門限に間に合うかしら」
 教会を出ると、烈しい夕焼けの赤が、既に闇に呑まれていた。またたく星が、上空を一面に飾っている。貴秋は歩き出しながら、暗がりで懸命に腕時計をよむ。
「まだ二十分位はあるかな。ここからなら五分もかからないよ。遅刻して次回がなくなったら嫌だし」
 貴秋の言葉に、千春は驚いたように足を止めた。
「それって、また連れて行ってくれるの?」
「もちろんだよ」
「本当に?――嬉しいけど‥‥‥」
 言葉を詰まらせた千春を、貴秋は歩みを止めて振り返った。後ろで立ち止まっている彼女と、少しの距離ができている。
「どうしたの?もしかして楽しくなかった?疲れたとか?」
「違うの」
 千春は慌てて否定したが、すぐに困ったように俯いてしまう。貴秋が傍まで戻ってきて、もう一度「どうしたの?」と聞くと、少しだけ迷ってから、やっと聞こえる程度の声が尋ねる。
「だから、――その、私とデートして気を悪くするような彼女は、いないの?」
 貴秋は思わずぽかんとした。千春は俯いたまま、顔をあげない。
 闇が深くて顔色を見分けられないが、頬が紅潮しているのは間違いないだろう。
 自分の中にこみ上げて来る想いは、温かで激しい。
 貴秋はまだ、自分の気持ちを伝える気はなかった。
 けれど、溢れ出た感情がもどかしくて、口に出さずにはいられなかった。
「僕は、千春が好きだよ」
「え?」
 ゆっくりと、彼女が貴秋の顔を仰ぎ見る。戸惑った眼差しが、透明な闇の中で艶を帯びていた。聞こえた台詞を信じられずにいるようだ。あまりに真っ直ぐ見つめられて、恥ずかしさに貫かれたが、貴秋はごまかさずにもう一度打ち明けた。
「千春が好きだよ。――とても」
 伝えると、どんっと胸に衝撃があった。
 千春が、夢中で貴秋にしがみついてきたのだ。強く頬を押し当てて、泣いているのかもしれない。
 貴秋が腕を回して、小さな肩を抱く。指に、両腕に、彼女の長い髪が絡みついた。
 小さな身体は、温かい。
 二人の長い恋路が、はじまりを告げた瞬間だった。


 冬が訪れると、中庭にも凍りつきそうなほど厳しい風が吹いた。千春が愛用している石造りのベンチも、氷で出来ているのではないかと思う位に冷たい。
 冬場に中庭に出ているのは過酷なので、貴秋は千春の病室を訪れるようになった。千春は貴秋が来ると一緒に病室へ向かうが、彼が現れるまでは、今までと変わらず中庭に出て待っている。貴秋は中庭の寒さにぞっとして、病室で待っていればいいと言い聞かせるのだが、そのつど彼女は笑顔で平気だと答えた。
 手をつなぐと氷柱を握っているように冷え切っているのに、千春は寒さを苦にする様子もなく、貴秋が現れるとぱっと満面に笑みを宿す。
 彼女の思いが嬉しくないと言えば嘘になるが、刺すような厳しい冬の風は、貴秋が祈っても願っても緩むことはない。寒風が吹き抜ける中を、独りきりで待っている千春を思うと切なくてたまらなかった。
 貴秋は日々の休憩時間を千春と過ごした。休日も、千春に外出許可が与えられる限り、二人でデートを繰り返す。千春の左足は、ほぼ以前と同じだけの能力を取り戻していた。違和感に慣れると、千春は左足が作り物であることを、しばし忘れてしまうほどだと言う。義足の経過には、もう懸念することはなかった。
 夢のように楽しい日々が続いていたが、ある日の検査結果で全てが覆ってしまう。
 原因不明の病が、再び発症したのだ。それは日ごとに、じわりじわりと千春を苛むように広がっていく。
 幸い緩やかな進行であったため、しばらく経過を見ながら過ごす日々が続いた。千春は、中庭に出て貴秋を待つことができなくなったのだ。それは寒さが厳しくなってから、ずっと貴秋が望んでいたことだが、さすがに喜ぶことは出来なかった。
 いつものように貴秋が病棟を訪れると、千春の担当医と出会った。貴秋はそこで、担当の医師から驚くべき事実を聞かされた。担当医と別れてから、彼は思わず小走りになった。千春の病室へ向かいながら思い返すと、たしかに彼女の両親――それは養父母であるが――を見たことがないと気付いたのだ。
 貴秋が病室へ辿り着くと、千春は手にしていた本から顔を上げた。貴秋の息遣いが乱れていることに、すぐに気付く。いつもの笑顔は宿らず、
「どうしたの?」と驚いた顔をしていた。
「ねぇ、千春」
 貴秋は呼吸を整えながら、ここを訪れた時に決まって座る椅子を手で引き寄せた。ガタリと音をさせて、行儀がいいとは言えない座り方をすると、寝台に半身を起こしている千春を見る。
「さっき通路で千春の担当の先生と会ったんだけど。千春、病気が再発したことをご両親に伝えていないって本当?伝えないで欲しいと頼んでいるの?」
 千春は何か言おうと口を開きかけたが、言葉を呑み込むようにただ頷いた。
「どうして?」
「だって、その……まだ、経過を見ているだけだし」
「だけど、今後の医療方針はご両親も気になるはずだよ。千春が一人で決めて良いことだとは思えない」
 千春は困ったように視線を伏せた。長い睫が心なしか影になって、貴秋には表情が暗く翳ったように見える。何か悪いことでも言ったのだろうかと、貴秋も言葉に詰まってしまった。冬が訪れる前に、初めて二人で外出した時のことを思い出す。千春が教会で他愛なく語ったことが蘇った。貴秋は一つの考えが浮かんで、少し迷ったが口にしてみた。
「本当のご両親じゃないから、気をつかっているの?」
「――そういうわけじゃ、ないけど」
 否定する声に、いつものような覇気がない。
「父と母はとても多忙だから、才国まで来ることはできないわ」
「迷惑をかけるのが嫌?だからって、千春が気をつかって何も伝えないのはおかしいよ。ご両親だって、後でそんなことを知ったらきっと淋しい」
 浅く、千春が微笑んだ。
「知らないでいる方が、幸せなこともあるもの」
 貴秋はそれが千春の両親に対しての、優しい気持ちだと受け止めた。彼女は両親への思いをはっきりと言葉にすることはなく、それ以上は何も語らなかった。貴秋も深く詮索はしなかったが、――彼はこの後、自分がどれほど浅はかであったのか、痛いほど思い知らされることになる。


 千春の置かれた立場が明らかになったのは、病状が再発してから一ヶ月が過ぎた頃だった。これ以上経過を見守っていても進行が止む気配もなく、それをとどめる術もない。左足の時と同様に、彼女に対して義臓器の移植が提案された。
 事態がここまで来ると、千春の両親への気づかいを慮ってばかりもいられない。彼女の移植について担当医が島国の両親へ状況の説明をした。
 数日後、千春の実家となる遠野家から、一人の秘書が医療施設を訪れた。
 貴秋はいつものように、休憩時刻を利用して病棟へ向かう。病室の中に入ろうとすると、いつの間にか親しくなった千春の担当医が、苛立たしげ飛び出してくる。
 彼は貴秋に気付くと、一瞬歩みを止めた。何か言おうとして、けれど結局言葉にできなかったのか、そのまま無言で立ち去ってしまった。
 貴秋が呆然としていると、続いて見たこともない男が病室から現れる。三つ揃いのスーツを纏い、貴秋に気付くと軽く会釈をして立ち去った。
 嫌な予感を抱きながら、貴秋が病室へ入ると、千春は寝台に半身を起こしてこちらを見た。彼を見つけると、いつものように微笑んだ。張り詰めていたものが、ふっと緩んだような気がした。
「何かあったの?千春の先生がすごい形相で出て行ったけど。今の人は誰?」
「遠野家の秘書をしている人だと思う。両親の意見を伝えに来たみたいなの」
 千春の口調には、深刻さが感じられない。貴秋は少しだけ肩の力を抜いて、いつもの椅子にかける。
「じゃあ、ご両親は?」
「うん。やっぱり来ることが出来ないみたい」
「そっか。ご両親は今度の移植手術についてはどう考えているの。術式も日程も決っているけど、やっぱり心配なんじゃないの。そうやって人を寄越すくらいだし」
「――うん」
 千春の笑みが苦いものを含む。貴秋は鼓動が高くなった。病室を訪れた時に感じた不安が、再びこみ上げてきたのだ。
「私、ね。島国に帰ることになったの」
 伝えられたことの意味が、すぐにはわからなかった。事態に追いつけずにいる貴秋を置き去りにして、千春は続ける。
「秘書の人は、それを伝えに来たの。帰国の準備は整えてくれるみたい。とても急な話で驚いたけど、私、国に戻っても貴秋に手紙を出すわ。電話もするし、もし元気になれたら、また会いに来る」
 もし元気になれたら、また会いに来る。
 貴秋の頭に、不自然なほどその言葉がこびりついた。突如、こみ上げた感情が怒りであるのか、悲しみであるのか、よく分からない。カタカタと組み合わせた手が震えていた。
 病室を飛び出した担当医の態度が、痛いほど理解できた。
「貴秋のこと、絶対に忘れないから」
「――ここを出て、どうするっていうの」
 声が震えた。才国に娘を独りきりにして、一度も顔を見せることのなかった両親。その態度だけでも、気付かなければならなかった。
 彼女の周りには、両親の気配がない。毎日通っているのに、ただの一度も顔を見たことがない。彼らから千春に宛てた手紙を見かけたことも、電話で話していることもない。千春から両親の近況を、思いを、話を聞くことは、ほとんどなかったのだ。左足を失うほどの難病であるにも関わらず、不自然なほどに放任されている。
 千春はまだ気付かないのだろうか。養父母には、千春を守る気などないということを。
 そして、彼女の命が続くことなど、もう願ってはいないのだ。
 島国に戻れということは、それを意味する。ここを去って、千春に生き延びる道などない。島国の医療は世界的には上位にある。四大国に連なる一国なのだから当然だ。
 だからと言って、才国の移植技術に追いつくことはない。千春の患う病は、島国で彼女以外の発症例がない。千春が才国を訪れたのは、そのためだ。
 移植技術は明らかに才国が優れているのだ。
 養父母は千春を見殺しにすると、公言したようなものだ。
「島国に戻っては駄目だ」
 養父母の思いを信じている千春に、彼らを貶めるような言い方はできなかった。貴秋は、やっとの思いでそれだけを語った。
「せめて、移植を終えてからじゃないと」
 貴秋がどれほど千春を説き伏せたところで、両親の意見は覆らない。意味がないとわかっていても、言わずにはいられなかった。
「島国に戻ってしまったら、千春の病気は治らない」
 死んでしまうとは言えずに、貴秋は彼女の手を両手で握り緊めた。小さな手からは血の気が引いていて、ひやりと冷たい。貴秋ははっとした。
 彼女は帰国することがどういうことなのか知っているのだ。全てを知っていて、受け入れている。受け入れるしかないのだと、諦めている。
 原因不明の病に煩わされても、生きることを諦めない。そう言って笑っていたのは、いつだっただろう。笑っていれば、幸せになれると信じている。
 本当の両親と交わした約束。
 いつでも笑っている。そして、幸せなる。
 貴秋は、ようやくわかった気がした。千春はその想いに縛られているのだ。
 本来は千春を守るべき言葉が、彼女を苛んでいる。
 養父母のことを語る時の、彼女の憂い。ずっと知っていたのだろう。養父母が決して、自分に愛を注いでいないこと。それでも、彼女は幸せを演じていなければならない。
 実の両親が残した愛に、応えるために。
 何かある度に、養父母には連絡しないでほしいと頼む。自分の窮地にも、決して彼らが現れることがないのを知っていたから。
 自分の身を心配してくれる人など、家族など、もう一人もいないのだ。
 その事実を思い知ることを、千春は極端に避けてきた。
 失った両親との約束を守るために。
 彼女は、どんなときも、笑っていなければならなかった。
 幸せでなければならなかった。
 貴秋は唇を噛みしめた。
――知らないことが、幸せなこともある。
 千春の言葉の意味を、ようやく理解できたのだ。
「――私、貴秋に会えて良かった。病気にならなければ、出会うこともなかったもの」
「だから、まだ自分は幸せだと言うの?僕と会えたから恵まれていると」
「うん」
 千春は笑う。貴秋の視界が溢れ出てきた涙で歪んだ。渦巻き、こみ上げてくる感情をせき止めることが出来ない。もう、限界だった。
「千春は幸せなんかじゃないっ。島国に連れ戻されることが、どういうことかわかっているの?千春の両親は会いに来られないんじゃなくて、来るつもりがないだけだ。千春の命を見殺しにしようとしているんだよ」
「やめてっ」
 悲鳴のような声が響いた。
「私は自分のことを不幸だと思ったことはないわ」
「千春」
「そんなふうに考えることに、何の意味があるの?悲観して人を責めれば、私は助かるの?勝手なこと、言わないで」
 気丈な面持ちで、千春は厳しい眼差しを向ける。貴秋は涙を零したまま横に首を振った。
「僕は、千春に生きていてもらいたい」
「やめてったら」
「――婚約しよう。僕が君を守る」
 千春は言葉を失ってしまったように、貴秋を見つめた。みるみる頬が上気する。握り緊められていた彼の手を、振り払った。
「何を言っているの?人のことを莫迦にしているの?同情なんていらないわ」
「僕は今年で二十歳になる。才国では、婚約者には配偶者と同じ権利があるんだ。きっちりと手続きを踏めば、親よりも強い権利が手に入る」
「莫迦なこと言わないで」
「千春が僕を嫌っても、諦めない。僕が相手として不足なら、病気が治ったら婚約を解消すればいい。もう決めた」
 千春の白い手が震えていた。彼女は寝台の枕をつかんで、貴秋に投げつける。
「出て行って!」
「千春。死なないで、生きていて」
「出て行ってよ」
 貴秋は頷いて、無造作に涙を拭うと踵を返した。


 貴秋はすぐに休暇の申請を出した。
 研究室を照らす黄昏の陽光が、クロードと涼、そしてケビンと貴秋、四人の長い影を描いた。
 全容を教えられて、責任者のクロードと次席を勤める涼も、貴秋にかける言葉を失った。
 研究室には第一班の四人だけが残っている。
 重い沈黙の後で、クロードが聞いた。
「休暇を取って、どうするつもりですか」
「島国へ向かいます」
「何のために?」
「遠野家に、千春との婚約を認めてもらうために」
 ためらいのない台詞だった。その場にいた三人には、彼が何を考えたのか予想がついた。ケビンがわざと挑発するように口を開く。
「彼女は自分が守るって?王子様気取りか」
「どう受け取ってもらっても構わない。僕には彼女をみすみす死なせるような選択はできない。方法があるのなら、迷わないよ」
 貴秋は真剣で、頑なだった。
「あなたが親権にも勝る権利を手に入れたところで、その莫大な費用はどこから捻出するのです」
「千春には実の両親が残した遺産があるはずです。医療費は彼女の力で充分に賄える」
 クロードは軽く吐息をついた。貴秋は若く、それゆえに幼いのだと呆れたのかもしれない。彼の安易で稚拙な案に対しては、何も答えなかった。
「貴秋、三日だけ待ちなさい。遠野家が本当に千春の命を軽んじているのか、私にはそれが信じられません。あなたの誤解なのかもしれない。担当医から詳しい成り行きを聞いてみます」
 貴秋は強く手を組み合わせた。何かを堪えるように無言で頷いた。
 三日後、クロードは約束通り貴秋に休暇を与えてくれた。同時に、自身の研究室に彼を招いて、調べた事実を述べた。
「あなたに、幾つか伝えておかなければならないことあります。第一に、島国の移植技術のレベルでは、今回の術式は困難です。千春が島国に戻って、病を克服できる可能性は限りなくゼロに近い。担当医からも、秘書を通じてご両親に説明をしたそうですが、あちらの答えは、それでも娘を帰国させるという方針のようです。第二に、千春の相続した財産はとっくに遠野家の財産として、当主に相続されている。彼女の力では、多額な医療費を支払う能力はありません。例えあなたが婚約者として権利を手に入れても、千春には治療を受け続けるだけの費用がないのです」
 容赦のない事実を突きつけて、クロードは無表情に貴秋を見た。いつもの優しげな微笑みは浮かばず、そのせいか瞳の緑が酷薄に見える。
 貴秋は憤りを感じて、握り緊めた拳が震えた。休暇を与えられたところで、結局、彼のこれからの行いは無駄でしかないと言いたいのだろう。
「付け加えて、遠野家の携わる事業は経営が不信な趣があるようです。千春の財産について権利を主張したところで、一筋縄ではいかないでしょう。公に訴えても、裁決されるまでには時間がかかる。千春には、それほどの時間的な余裕もありません」
 どこまでも貴秋を追いつめる真実だった。自分を絶望させて諦めさせようという企てなのだろうか。貴秋は睨むような視線で、クロードを見返した。
「だから、博士は諦めろと言うのですか。費用なら、僕が一生をかけても払います」
「たしかに人の命は貴いですね。医師として、あなたが助けられる命を見捨てられないのは判りますが、全ての人を助けられるわけではありません」
「好きな人なんです」
 強く、貴秋はそう言った。子供の駄々のようだと思ったが、止まらなかった。
「千春が好きだから、死なせたくない。それだけです。病気に苦しむ全ての人を助けられるなんて、そんな傲慢なことは考えていない。僕に出来ることなんて、ちっぽけなことだ。だけど、僕はここに来るまで、そんなことすら知らずにいた。しばらくは博士も知っているように、非力な自分に絶望して、落ち込んでいました」
 世界的に権威を誇るトップラボに来てから、彼は嫌と言うほど思い知った。それは今まで挫折を知らずに歩いてきた貴秋には絶望的な衝撃だった。
 天童と呼ばれるほどの経歴は、自分が人より優れていて、何でもできるのだと錯覚させた。それが傲慢で、過剰な自信なのだと知らなかったのだ。
 気付くことができなかった。だから、ここに来てそれを思い知ったときに、逃げ出したくなった。今まで、努力することが当たり前だと思ったことがなかったのかもしれない。
「だけど、千春がそれは当たり前のことだと教えてくれた。僕は、ここに立っている、それだけで恵まれているのだと、言葉ではなく、教えてくれたんです。僕はそれで救われた。だから、今度は僕が千春を救ってあげたい。―――博士、それは傲慢なことですか」
「傲慢です。それはあなたの我儘にほかならない」
「それでも、生きていてほしい」
 クロードはふっと眼差しを伏せた。
「貴秋。これだけは覚えておきなさい。どれほどそう願っても、助けることの出来ない人達が存在すること。時には、生きていてほしいと願うことすら、残酷な仕打ちとなりえることを」
「――博士?」
「我々、医療に携わるものは、そんな思いと戦っていかなければならない。生きていてほしい、健康で笑って過ごしていたい。全てはそんな願いから技術が開拓されていきます。それでも、全てが解決することはありません」
 クロードが再び顔をあげた。依然として表情がない。
「覚えておきなさい。千春に生きていてもらいたいと願うのなら、それ相応の覚悟が必要だということ」
「どういうことですか」
「ケビンと涼は、私と違って優しいですからね。苦肉の策を提案してきました。千春を試作品の被験者にしようと言うのです。そうすれば圧倒的に費用はかからず、最新の技術が与えられる。その代わりに、多少の制約が伴いますが」
「そんな莫迦なこと」
「貴秋。言ったでしょう。千春に生きていてほしいと願うのなら、覚悟しなさいと」
「だけど、それでは千春が可哀想です」
 緑の瞳が、貴秋を一瞥した。思わずコクリと喉を鳴らす。
「覚悟ができないのなら、千春のことは諦めなさい。私は元々、この提案にあまり気が進まなかった。ですが、ケビンがあなたと同じ事を私に言いました。千春に対する貴秋の想いは、並みの思い入れではないだろうと。だから貴秋の気のすむようにさせてやりたい。想いを叶えてやりたいと。涼も同じです」
「ケビンと、涼さんが……」
 クロードは射抜くような厳しい視線を、貴秋に向けている。貴秋は突きつけられた選択に目眩を感じた。自分の浅はかさが身にしみた。どれほど困難なことに立ち向かおうとしているのか、気付かなかったのだ。いつでもそうだ。人に教えられて気がつく。
 それでも、やはり千春には生きていてほしかった。
 ずっと、傍にいてほしかったのだ。権利を手に入れるためだけに、彼女に婚約を申し出たわけではない。それは揺るぎない貴秋の気持ちだった。
 生きていてほしい。それが、彼女に被験者という束縛を架す未来なのだとしても。
 どんな罪悪も、試練も、彼女の命に勝るものはない。
「千春に生きていてほしいと願うなら、あなたはそれ相応のものを背負わなければなりません。それほどの覚悟がありますか」
「はい」
 ためらわずに、貴秋は頷いていた。迷いのない顔をしている。クロードがいつもの穏やかな微笑みを浮かべた。
「あなたは独りではありません。貴秋が決意するのなら、同じトップラボのよしみです。私達も協力は惜しみません」
 微笑んだクロードは、もういつも通りの柔らかな気配を取り戻していた。貴秋は試されていたのだと気付く。
「島国では婚約に公の形はないそうですね。とりあえず、才国の法に添う婚約に必要な書類は、ここに用意しておきました。そして、遠野家が今後いっさい千春の権利を主張しないように、法的な効力を持つ書類も揃えてあります」
 それからクロードは、わざとらしく声を潜めた。
「エデンの顧問弁護士を同行させるように手配しました。私用で許されることではありませんが、私からの婚約祝いと思っていただければいいでしょう。――いってきなさい」
「博士、ありがとうございます」
 周りの気づかいが身にしみて、貴秋は深く一礼した。
 彼はこの後すぐに島国の遠野家を訪れた。千春の養父母に婚約を承諾させるために、生まれて初めて地に手をついて頭を下げた。彼女の相続した遺産を放棄するよう強いられたが、その代わりに千春の生きる権利を手に入れた。
 遺産を手にした遠野家は、千春の権利には興味を持たない。醜い偽りで縛られた親子の絆は断絶した。
 今後、何が起きようとも、二度と千春の権利を主張しない。千春の今後は、婚約者の貴秋に一任する。その掟を、彼は遠野家に承認させたのだった。


 婚約に至る周りの環境は整えられたが、千春は頑なにそれを拒んだ。
 貴秋は向かい合ってはくれない千春に、根気よくこれからのことを語りかけた。
 養父母が婚約を認めたこと。遠野家との縁が切れたこと。生きてゆくために義臓器の被験者となること。言葉にすると、改めて彼女が失い、これからも失って行くものが、はっきりと形になった。
 彼女の命を守るために、貴秋は彼女に酷な仕打ちを架したのだ。
 これほどの苦境に耐えてまで、千春が生きることに執着しているとは、貴秋も思えなかった。全てが自己満足で、身勝手な振舞いでしかない。
 千春の拒絶を当たり前の結果だと受け止めてしまうと、貴秋にはそれ以上告げるべき言葉が見つからなかった。
 後悔はしないと決意していたが、悔いずにいようとすることが苦しかった。
 一週間、不毛な日々を繰り返しいる。
 貴秋は休日の昼下がりに、諦めずに千春の病棟を訪れた。冬も深まり、寒さは厳しさを増す。往来を歩くと、コートの襟を立てたくなるほどだった。
 休日になると、千春と二人で行き来した道のり。二人なら寒さも気にならなかったのに、今はこれほどに凍えてしまう。
 貴秋は重い足取りで、病棟へ続く門をくぐる。硝子張りの入り口から中へ入ると、心地よい温かさに包まれた。寒さは拭われたが、振り向いてくれない千春のことを考えると、気持ちが塞いだ。
 のろのろと病室へ続く通路へ向かおうとすると、トンと背中を叩かれる。振り向くと、ケビンが私服で立っていた。白衣を纏わない彼を見るのは、久しぶりのような気がする。
 いつからか、途中までの同じ道のりを、ケビンと共に帰宅することもなくなっていた。研究室を出てからすぐ帰途につかず、千春の病室へ足を向けることが習慣になっていたからだ。
「今日も千春の説得?」
 ケビンは明るい調子で、貴秋に確かめる。苦笑して頷くと、彼は
「よく飽きないな」とからかうように笑った。その笑顔で、貴秋は少しだけ暗い気持ちが拭われる。
 ケビンは多くを語らないが、いつでも貴秋が苦しんでいることを察して、そっと支えてくれた。今も自分を励ます為に現れたのだろうと、容易に想像がつく。
「ケビンこそ、どうしたの?」
「今さっき、千春に会ってきた。叱り飛ばして泣かしてやったぜ」
「はぁ?」
 貴秋が間の抜けた声を出すと、ケビンは声をたてて笑った。
「いろいろと腑に落ちなくて、苛々していたんだ。貴秋は冴えない顔しているし。もっと強い態度に出ないと駄目だ、おまえ。千春はきっと強い男が好きなんだ」
 冗談なのか判断がつかず、貴秋は目を丸くしてケビンを見た。彼は手を伸ばして、いきなり貴秋の額を指で弾いた。
「イタッ、何をするんだよ」
「貴秋は強い男だから。俺はそう思っている」
 唐突に告白されて、貴秋は額を掌で押さえたまま、反応が遅れた。
「おまえ、逃げなくなったからさ。前はどうしようもなく甘かったのに、千春に出会ってから、すごく変わった」
「何の話?」
 ケビンは舌打ちをして、わざと斜めの視線で貴秋を見る。
「一人でどんどん強くなりやがって。少し悔しいって話」
 再び目を丸くすると、ケビンはさすがに恥ずかしくなったのかフイと視線を逸らした。貴秋は思わず、ぽつりと呟いてしまう。
「信じられない」
「なんだよ、その気の抜けた感想は。とにかく、千春には一矢報いておいたから。俺は貴秋の味方だからな」
「女の子相手に?」
「そんなの関係ないだろう。だけど、やっぱり千春は悪い奴じゃなかった。安心したから、もう帰る」 
 ケビンは何の未練もないという足取りで入り口へと進んだ。振り返らずに、ヒラヒラと手を振っている。貴秋は彼が何をしでかしたのだろうと、思わず早足になった。病室へ辿り着くと、千春の顔を見ることが出来た。
 寝台に半身を起こしていたが、目元が赤く、泣き腫らしたのは瞭然だった。貴秋はケビンの台詞が冗談ではなかったのかと、息を呑んだ。女の子相手に何を考えているのだろうと、頭を抱えたくなる。
「千春、泣いていたの?」
 最近は、蒲団に潜り込んだ彼女に語りかけることしか出来なかった。こうして向かい合って話すことを、どの位果たせずに過ごしただろう。千春は泣き腫らした瞳で、真っ直ぐに貴秋を見た。久しぶりに聞く声が、凛と告白する。
「私、貴秋と婚約はできないわ」
「どうして?」
 貴秋は動揺を鎮めて、いつもの椅子にかけた。千春は大きく呼吸をしてから口を開く。
「勝手に島国の両親との縁を切った。私は彼らのおかげで、今まで幸せに過ごしてきたのに、貴秋は何も知らずに私から奪った」
「それは悪いと思っているよ。だけど、どんなことをしても千春には生きていてほしい。これが僕の我儘だということもわかっている。君が僕に愛想を尽かすのも無理はない。それでも、君の命を守りたかった」
「――私を、島国の両親のところへ帰して」
「それはできない」
 強く言い切ると、彼女の厳しい眼差しが貴秋を貫いた。
「こんなこと、私は頼んだ覚えはないわ」
「うん、そうだね。……これは、全て僕の我儘だから」
 静かに認めて、貴秋はただ耐えた。彼女に想いが届いてほしいと思ってはいけないのだ。千春から全てを奪い、生きることを無理強いした。
 生きていてほしい。彼女が自分を見てくれなくなってしまったら、その執着は意味を失うのかもしれない。自分の貫いた意志を、後悔してしまうかもしれない。そう考えると怖くなったが、彼は考えずにいようと努めた。
 彼女が生きること、それだけで報われる。強くそう言い聞かせた。
 嫌われてしまっても、まだこんなに、彼女のことが好きなのだから。
「貴秋はとても恵まれているから、分からないのよ。今まで手に入らないものなんてなかったでしょう?だから、私のことも思い通りになると思っている」
「違うよ」
「違わないわ。私の気持ちなんて絶対に分からない。そんな貴秋のことを好きにはなれない。大嫌いよ。だから、婚約はできないわ。好きでもない人と婚約するなんて、死んだ方がましよ」
 貴秋は唇を噛んだ。想いは二度と、彼女には届かない。夢のように笑って過ごした日々が、嘘のようだった。想いが通じていた一時は、幻のように儚い。彼女の中には、自分に対する嫌悪しか残っていないのだろうか。
「だから、私を島国へ帰して」
 千春の拒絶が痛い。それでも、諦めることは出来なかった。
「千春」
 泣きたくなるのを、懸命にこらえた。
「それでも、僕は君に生きていてほしい。――君が好きだから、生きていてほしいんだ。僕のことを嫌いでもかまわない。だから、自分の命まで否定しないで」
 千春は無言で、貴秋のことを食い入るように見つめていた。貴秋は涙が溢れて、隠すように顔を伏せた。濡れた声が、それでも告げる。
「お願いだから、生きていて。諦めないで」
 貴秋の手の甲を、零れ落ちた涙が打った。ポタリポタリと雫が弾ける。不自然な沈黙が訪れた。その静寂を破ったのは、千春の嗚咽だった。
「……どうして」
 貴秋がゆっくりと顔をあげて千春を見た。彼女は両手で顔を覆うようにして泣きじゃくっている。息が詰まって、しゃくりあげる度に声を漏らした。
「私は、貴秋に、何もしてあげられない、のに。あなたの、期待されている未来を、私が台無しにしてしまう」
「千春?」
「きっと、私なんかを選んでしまったら、貴秋が苦しむのに」
 彼女の想いに気付いて、貴秋は椅子から立ち上がった。
 さっきまで語られていた、突き放した台詞の全てが偽りなら。もう何も恐れることはない。
「千春、君は……僕のことを、気づかっていたの?」
 顔を押さえている手を引き剥がすように、貴秋は千春の腕を掴んだ。露になった顔は、泣き濡れていて、澄んだ眼差しを縁取る睫が震えている。
 目があうと、千春の顔が哀しみに歪んだ。
「――嘘なの」
 次の瞬間。
 無我夢中で、伸ばされた腕。
 どんっと、貴秋の胸に小さな体がすがりついてきた。細い両腕が、しがみつくように貴秋を捉える。彼の胸に頬を押し当て、泣き崩れて、それでも彼女は懸命に伝えた。
「大嫌いなんて、嘘よ。ごめんなさい、死んだ方がマシなんて、嘘なの」
「千春」
「貴秋が好き、大好きなの。あなたが、とても大切。大切なのに、私、貴秋のこれからを、奪ってしまう。だから、……ごめんなさい。ごめんなさい」
 繰り返される想いが、貴秋の後悔を跡形もなく拭った。腕の中で震える彼女から、やり切れない位に、気持ちが伝わってくる。かけがえのない、真実の言葉。
 彼女を抱きしめる腕に、自然と力がこもった。腕に、指に、長い髪が絡む。
 想いは、ずっと通じていたのだ。同じように相手が愛しくて、何よりも大切だった。
 千春の中にも、貴秋とよく似た葛藤があった。彼の想いを受け入れるということは、愛する者の未来を束縛する行為にほかならない。
 二人で歩む未来は、決して平穏だとは言えない。千春は恐れていたのだ。貴秋を巻き込んでしまうことが、怖かったのだろう。想いを殺し、突き放して、貴秋とは違うやり方で、彼のことを守ろうとしていた。
「千春に、傍にいてほしいんだ」
 さっきまでの苦しみが、跡形もなく消えうせている。千春はしがみつく腕に、更に力をこめた。
「両親がいなくても、僕が傍にいるから」
「うん」
「一緒に、これからを生きてほしい」
「――うん。私、生きていたい。ずっと、貴秋の傍にいたい」
 ごく近く、触れ合いそうな距離で眼差しが重なる。泣き腫らした顔で、お互いに少しだけ笑った。どちらからともなく、唇が触れる。
 溢れた涙が頬を伝い、重ねられたところへ流れていく。口づけに染みて、やがてたゆたう波を思い起こさせる、懐かしい潮の味になった。


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