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楽園の愚者達

第五章

「貴秋、後を追いましょうか」
 シズカの声で、貴秋は我に返った。
 見えない鎖に縛られたように、彼は一歩も動けなかった。多くのことを思い、目まぐるしく行き交っていた考えが、シズカの声で断ち切られる。
「いや、いいよ。あの足ではそう遠くまで走れないはずだ。僕が後を追う」
 自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。貴秋は、まるで自分ではないような錯覚に陥る。ようやく千春の後を追って駆け出しながらも、その違和感は拭えない。
 千春の激しい訴えと、溢れ出た涙。
 ほんの少し前まで繰り広げられていた場面は、夢の断片のように現実感がない。家の外へ出ると、ちらちらと雪が降り始めていた。それは次第に激しく踊り狂い、白い帳となって目の前を閉ざした。吐き出した息が凍りつきそうな勢いで、白く立ち昇る。迷わず庭を過ぎて、貴秋は門扉から外へ続く道に出る。
 アスファルトで舗装された道は、車がやっと行き交える程度の幅で左右に伸びている。緩やかな傾斜があり、右へ踏み出せば上り坂になる。貴秋が辺りを見回すと、吹雪き始めた勾配を、駆け上っていく人影が見えた。その小さな背中を見つけると、突然焦っている自分を自覚した。
 やり切れない想い。こみ上げる焦燥。
 押しつぶされそうなほどに、募る後悔。
 自身の混乱が、単に飽和していただけなのだと気付く。
「千春っ!」
 絶叫するような、激しい声が出た。吹き付ける雪が視界を遮るが、彼女が微かに振り返った気がする。一本道の果ては、広大な丘になっている。見失う心配はないが、彼女の想いを見失ってしまいそうで、貴秋は気が急いた。
 笑っていてほしくて、ひと時の幸せが欲しくて、彼は全てを仕掛けたのだ。
「千春、待って」
 雪は激しく、貴秋にも振りつける。吹雪に攫われて、このまま彼女が消えてしまいそうな不安がこみ上げた。
 千春の中にある、人型ではないかという疑惑。
 婚約者の身代わり。
 それは想像もしていなかった展開だった。
 やり方を間違えたのだ。貴秋はひたすら自分を呪ったが、何が最良であったのか、どうすれば正しかったのかは、依然としてわからない。
 彼女には隠さず、全てを打ち明けていれば良かったのだろうか。
 それとも。
 やはり、はじめから全てが間違えていたのだろうか。
 恐れが広がり、密度を増して行く。貴秋の胸に、後悔が巣食う。
 思い知らされる。弱かったのは、自分なのだと。勝手な覚悟など、すぐにひび割れて砕け散る。こんなにも脆い。
 吹きつける雪の向こう側に、千春の影が見え隠れしていた。激しい風雪の中、ひたすら彼女の背を追いかけながら、貴秋はこれまでの成り行きを思い返す。
 全てのはじまりは、いつからだったのだろうと。



 河原貴秋の夢は、幼い頃から決まっていた。彼は医師になりたかった。きっかけは医師である祖父と父親の影響だった。彼の生まれた河原の一族は、島国では医療の世界に名が知れている。彼の祖父が小さな医院を開業し、それは見事に成功を収めた。祖父は医師というよりは、商才に長けていたのだろう。一代で大病院を築き、やがて息子が跡を継いだ。
 貴秋の父親は祖父と違い、医療を商売とは考えない。純粋に人を助けるという思い入れが強かった。親子でありながら、互いの目指す経営方針がかみ合わず、二人は激しく衝突していた。
 二人の仲は険悪に見えたが、医院の評判は良かった。祖父が最新の医療技術を売りにすると、父はその技術を、その恩恵を惜しみなく患者に施す努力をした。
 結果として経営は良好だった。親子の思惑とは別に、病院は繁盛していたのだ。
 貴秋はそんな二人の背中を見て育った。祖父も父も、彼には惜しみなく愛情を注いでくれた。貴秋が医者になりたいと打ち明けると、祖父は涙を流して喜んだ。
 父も貴秋に必要な環境を整えてくれた。
 貴秋が十歳になると、二人は医療技術の最も進んでいる才国への留学を許してくれた。幸い貴秋には与えられた環境を無駄にしないだけの能力があった。医師になりたいという漠然とした夢が、才国で学ぶ日々によって、はっきりとした形を描き始めた。
 祖父と父が、貴秋を後継ぎにしたいと考えているのは知っていたが、彼はもっと大きな世界を夢見てしまったのだ。
 才国の誇る、医療技術の最高峰、エデンの研究員となることである。
 貴秋の才能は、与えられた環境を最大限に生かし、運良く花開く。異例の速さで学院の過程を終了し、卒業時には既に天童だと噂されていた。その名声はエデンにも届いた。 彼は夢見た立場を手に入れることができたのだ。
 晴れて貴秋はエデンの研究員となった。最新の医療技術を司るトップラボの一員として迎えられた。トップラボは、義臓器の開発と、移植技術では他の追随を許さない権威を持つチームである。
 はじめは反対していた祖父と父も、貴秋の驚異的な才能が導いた結果には、素直に喜んだ。それほどに、彼の手に入れた経歴には非の打ち所がなかった。 貴秋は河原の一族にとっても、英雄だった。
 心躍るような思いでトップラボに配属され、彼はケビン=ウォーレンサーと出会った。
 一つしか年の違わない同期であり、やがては無二の親友といっていい存在となる出会い。
 これまで輝かしい道程を歩んできた貴秋だったが、さすがにトップラボにあっては、努力が必要だった。殊にラボの責任者であるクロードと、次席を勤める菱川涼の能力は底知れない。これが世界なのだと、改めて思い知らされた。
 ケビンと共に、切磋琢磨して過ぎてゆく日々。それは当初、貴秋に歓びを齎したが、日が経つにつれて迷いが大きくなる。これまで順調に歩んできた彼に、挫折を与えたのだ。
「貴秋、貴秋。良いモノを発見」
 ある日、貴秋が食堂で遅めのランチを取っていると、ケビンが走り寄ってきた。三時過ぎという時間帯では人影もまばらだった。 
 ケビンは貴秋より一足早く昼食を終えて食堂を出ていたが、しばらくすると、また顔を出した。彼は笑っていたが、どこか悪戯っぽい顔をしている。
 楽しげなケビンとは裏腹に、貴秋は深く息をついた。現在進行している研究に対して、一つの企画を任されて以来、彼は溜息をつくことが多くなった。
「どうしたの?ケビン」
「さっき中庭で、美少女を発見したぜ」
「はぁ?」
 貴秋は呆れたが、ケビンはかまわず続けた。
「あれは、島国の女の子じゃないかな。入院患者だと見たね。すごく貴秋の好みだと思うけど。あとで探してみないか」
 ケビンがそういう話をふっかける時には、必ず理由があった。貴秋は向けられた気づかいに思い至り、浅く笑った。自分が落ち込んだ時に、何とか気を紛らわせようとする手段なのだ。
「僕は、そんなに元気なかった?」
 貴秋が素直に訪ねると、ケビンは茶目っ気たっぷりに片目を閉じた。
「逃げ出したいって顔をしていた」
「そうですね。悩ましい顔をしていましたよ」
 聞き慣れた声がして、貴秋はぎょっとする。咄嗟に振り向くと、トップラボの責任者であるクロードが立っていた。隣には次席を努める菱川涼の姿もある。
「ク、クロード博士」
 焦ったという顔をしている貴秋を見て、涼がくすくすと笑う。彼は端整な容姿をしているが、気さくな性格だった。同じ島国出身のよしみもあり、貴秋は兄のように慕っている。
「涼さん」
 彼は笑いながら手を伸ばすと、ぽんぽんと軽く貴秋の頭を叩いた。からかうような素振りに、貴秋は頬が熱くなる。
「もう、涼さんまで」
「おまえは、少し気負いすぎ」
 見抜かれて、貴秋はますます顔を赤くした。傍らでケビンが大笑いしている。
「な、貴秋。美少女でも眺めて気分転換しようぜ。絶対、おまえの好みだから」
 貴秋は赤い顔のまま、上目づかいにケビンを見る。
「どうして、僕の好みだってわかるんだよ」
「だって、おまえ。この間、教えてくれただろう?」
「何が?」
 すっかり研究に対する憂慮を忘れ去って、貴秋は親友が何を言い出すのかと構えた。
「清楚で女の子らしくて、どちらかというと髪の長い子が好きだって」
「言ってないっ!」
「隠さなくてもいいじゃないか」
「ケビン!」
 クロードと涼が、幼い二人のやり取りに吹き出した。ケビンも笑いながら、「美少女の所在を確かめに行こう」としつこく勧誘する。やがて、貴秋もおかしくなってきて、声をあげて笑った。憂鬱な気持ちが少しだけ紛れて、久しぶりに笑顔を取り戻した瞬間だった。


 数日後、貴秋はケビンと二人で病棟を歩き回った。ケビンの言う美少女を一目見てみようという、単なる好奇心だった。二人は研究衣である白衣をまとって廊下を彷徨っていたが、病棟ですれ違う外来や内診を担当している臨床医とは白衣の形が違う。見た目も研修医のように幼いので、入院患者の不思議そうな視線を集めていた。
 病棟を形作る壁や通路は、穏やかな色合いをしている。研究棟に漂うような緊張感がなく、淡くて優しい雰囲気が漂っていた。
「貴秋、あの向こうから歩いてくる女の子」
 ケビンの声に導かれて、貴秋は視線をそちらに向けた。通路の窓からは、もうすぐ黄昏が訪れようかという気だるげな光線が差し込んで、眩しい。
 逆光になりそうな角度にある、小柄な人影を貴秋は見つけた。長い髪が印象的で、遠めにも肌が透けそうに白い。少女は、手すりに捕まって懸命にこちらへと歩いていた。
「どう?可愛いだろう」
 隣のケビンは自慢げに笑っている。貴秋は素直に頷いたが、ぎこちない歩行のせいか、可愛いという感想よりは、儚げな印象の方が強かった。
 意味もなく、淋しそうに見えたのだ。
「ねぇ、そこの二人」
 不自然にならないように、ケビンと二人で会話しているふりをしながら見守っていると、遠慮のない声が響いた。二人は誰のことを呼んでいるのだろうと、思わず辺りを見回す。もう一度、覇気のある声が響いた。
「もう、そこの二人のことだってば」
 少しずつ手すりに添って歩んできた少女は、真っ直ぐ貴秋とケビンを見ている。
「もし手が空いていたら、向こう側にある車椅子を持ってきてくれないかしら。リモコンを乗せたままこっちまで来ちゃったの」
 彼女の額には、うっすらと汗がにじんでいた。無遠慮な物言いは無邪気で明るい。貴秋は耳を疑ったが、目前まで辿り着いた彼女の表情に、恥じ入るようなしとやかさはなかった。可憐で儚げなイメージが、一瞬のうちに崩れ去る。
「自分でもう一度戻ればいいじゃないか」
 ケビンは明らかに年下である少女の、礼儀を無視した言い方に気を悪くしたらしい。その苛立ちのまま冷たく言い返した。少女はきょとんと、琥珀色の瞳を丸くする。
「それが、患者に対するお医者様の態度?」
「それだけ元気なら、もう一度、車椅子のところまで戻れるだろう」
 まるで子供の喧嘩だ。ケビンはそのまま貴秋に「行こう」と言って踵を返した。 唖然として立ち尽くす少女を横目に見ながら、貴秋も慌ててケビンを追いかける。
「見た目は可愛いけど、思っていた通り我儘だ」
 貴秋が追いつくと、ケビンがはき捨てるように呟いた。少女の無遠慮さに腹を立てるには、ケビンの苛立ちは度を過ぎている。貴秋には人懐こいという印象の方が強かった。
「車椅子を運んで欲しいと言っていただけじゃないか。足が不自由なんだから、助けてあげるのは当然だよ」
「不自由?違うな、彼女は恵まれている。甘えているだけだ」
「どういうこと?」
 ケビンは吐息をつく。
「噂によると、島国の資産家の娘だそうだ。左足を失って、義足を移植するためにここへ来た。あれは最新のモデルだぜ。慣れれば元通りに動くし、見た目だって、誰にも義足だなんて見分けがつかない。あれで歩けないなんて、甘えているよ」
「よく調べてあるね」
 貴秋が感嘆すると、ケビンは「まぁね」と気のない返事をする。
「貴秋が興味を持つかなと思って、先手を打って調べてみたんだけど。駄目だね、あれじゃ。予想以上に性格が可愛くない」
 少しのやりとりで、ケビンは断定している。貴秋は苦笑したが、成り行きで放って来た少女が気になって、思わず歩いてきた方向を振り返る。
「気になるのか?」
 立ち止まった貴秋に、ケビンは呆れたような眼差しを向けた。貴秋は一つだけ引っ掛かっていたことを口に出した。
「すごく、汗をかいていたんだ」
「それが?慣れない歩行は、一つの運動だからな」
「うん。だけど、何となく気になって。少しだけ様子を見てくる。ケビンは先に戻っていて」
「貴秋は優しいな」
 ケビンの皮肉を背中に聞きながら、貴秋は病棟の通路を戻った。
 少女はまだ同じ場所にいた。車椅子のある通路の奥まで戻ろうとしているのか、駆けつけた貴秋に背を向けるように立っている。
 手摺りで上体を支えるようにして、ひどく重い一歩を彼女が踏み出す。貴秋が前に回りこむと、彼女はようやく気配に気付いて顔をあげた。
 彼女の色を失った顔色を見て、貴秋が眉を潜める。彼女が身動きすると、一筋が白い頬を伝って流れた。冷や汗なのだと悟って、貴秋は息をのんだ。
「辛いの?僕がここまで車椅子を持って来るよ。無理しなくていい」
 蒼白な顔で、彼女はただ頷いた。もう微笑む余裕もないらしい。貴秋は通路に置き去りになっていた車椅子を、慌てて彼女の元まで運ぶ。
「はい、持って来たよ。とにかく座って」
「――ありがとう」
 ケビンと共に立ち去ったことを責める様子もなく、彼女は力なく車椅子に身を預けた。苦しげな仕草だった。単に慣れない歩行に疲れたというだけでは説明がつかない。
「気分でも悪くなったの?」
「何でないわ。もう大丈夫」
 そう行って彼女は気丈に微笑んだが、すぐに痛みを堪えるように顔を歪めた。
「足が痛むんだね」
 ケビンから聞いていた義足のことが頭をよぎった。この苦しみ方は尋常ではない。貴秋は一つの結論に辿り着いて、彼女の左足に触れた。
 激痛が走ったらしく、彼女が小さく声をあげる。その反応で、自分の導き出した考えに間違いがないと確信した。
「悪いけど、左足を見せてもらうよ」
 ゆったりとしたワンピースの裾に手をかけようとすると、彼女が
「何するのよ、触らないで」と声を高くする。貴秋は厳しい顔つきで彼女の訴えを聞き流した。
「一刻を争うかもしれない」
「何もないの。勝手なことしないで」
「そんなわけがないっ!」
 一喝して、強引に裾をめくり上げた。露わになった大腿部を見て、貴秋が「やっぱり」と小さく呟く。
 通常、最新型の義足は繋いだ部位の見分けがつかない精巧なものだ。彼女の場合は、一目で接合部分が明らかだった。皮膚が変色している。
「拒絶反応が出ている。このままでは、足から細胞の壊死が進む。早急に設定を変更して、手を打たないと」
「だけど、あの――待って。父と母に心配をかけたくないの。このことは家には知らせないで。お願い」
 激痛に耐えながら、少女はすがるような眼差しをする。貴秋は健気だなと微笑んで見せた。
「わかった、連絡はしないように言っておく。――義体機器の移植は、拒絶反応がつきものなんだ。別に珍しいことじゃない。処置を間違えなければ、大丈夫だよ」
 彼女は安堵したのか、ぐったりと緊張を解いた。
 それからの貴秋の指示は素早かった。すぐに担当医が駆けつけて、処置が施される手配が整う。
 少女が運ばれるのを見送ってから、貴秋は一騒動だったと大きく息をついた。
「……そういえば、名前を聞いてない」
 とても名乗りあっているような状況ではなかったが、少しだけ残念な気がした。ケビンなら知っているだろうかと、能天気に期待する。
 家族に心配をかけたくないという彼女の思いが、貴秋には深く刻まれていた。
 それから何気なく腕時計を見て、自分の立場を思い出す。
「うわ、もうこんな時間」
 とっくに与えられた休憩時刻が過ぎている。彼は慌てて研究棟へと駆け出した。


 研究棟に戻って、ケビンに少女の名を尋ねると、彼は予想通り教えてくれた。
 遠野千春。それが少女の名前だった。貴秋はその後の経過が気がかりだったが、確かめる術を持たないまま、数日が経った。
 一週間が過ぎた頃、貴秋は研究の合間を縫って、再び病棟を訪れてみようかと思い立った。少女が拒絶反応を起こしていた義足も、既に落ち着いている筈だ。
 ケビンを誘ってみたが、彼は既に興味を失っているらしい
「だから、彼女はあの時、拒絶反応で苦しかったんだ。最新型の義足に不満を覚えて我儘を言っていたわけじゃないんだよ」
 ケビンの誤解を解こうと、貴秋は幾度となく状況を説明していた。食堂と兼用である休憩室で、二人は食後のコーヒーを飲んでいる。ケビンは面白そうに貴秋を見た。
「それは知っている。俺は、もう彼女に対して苛立たしく思うことは何もない」
 ケビンの顔に浮かんだ笑い方が、悪戯めいた色を滲ませていた。
「苛立たしく思うこともない代わりに、見舞うほど彼女に興味もないってこと。そんなに気になるなら、貴秋が一人で様子を見てきたらいいだろう」
「ケビン、面白がっているだろう」
「別に。ただ、クロード博士と涼さんが気にしていたぜ。貴秋が上の空だけど、何かあったのかって。悩んで暗い顔しているよりはマシらしいけど」
 貴秋は一気に首まで赤くなった。ケビンは柔らかな金髪をかきあげて、無邪気に笑った。
「俺がちゃんと説明しておいたから。例の美少女に夢中だって」
「ケビン!」
 咆えてみたが、たしかに彼女のその後は気掛かりだった。頬を滑り落ちた冷や汗が示した彼女の苦痛を思うと、心配するなという方が無理だ。
「貴秋の気が紛れるなら、遅刻しても俺が言い訳を考えといてやるよ」
 研究に対して思い悩む自分への気づかいであることは知っている。それでも、既に悪戯心の方が比重を占めているのではないかと疑いたくなった。
 ケビンに散々からかわれてから、貴秋は食堂を出た。仕方なく一人で彼女を訪ねようと、食堂から病棟へ続く通路を進む。
 出入りに対して厳しいセキュリティの働いている研究棟と、穏やかな佇まいの病棟を、中庭が良い具合に隔てている。食堂はどちらの棟へも通路がのびていた。中庭を横切る通路に差し掛かったとき、貴秋は背後から声をかけられた。
「貴秋」
 聞き慣れた声だった。振り返るとトップラボの次席である菱川涼が立っていた。歩み寄ってくるその姿だけでも、彼は颯爽としている。いつ見ても、作り物ではないかと思えるほど、端整な容姿である。
「おまえに客が来ているけど」
「僕に?」
「ああ。博士が差し障りのない休憩室へ案内したから。行こう」
 促されて、貴秋は踵を返した。千春を見舞うのは、また後日にしようと諦める。歩いてきた道程を戻りながら、貴秋が涼を見上げた。
「ところで、客人って誰なんですか。接待室でなく休憩室へ案内するとなると、気安い人物ですよね」
 涼は答えず、ただ意味ありげに微笑む。腕を伸ばして、貴秋の頭をくしゃりとかき回した。
「それは会ってからのお楽しみかな」
 貴秋は釈然としない面持ちで涼と休憩室まで戻った。開け放たれた大きな扉から中の様子を見渡して、驚きのあまり立ち止まってしまう。思わず隣の涼を見ると、彼はこの状況を楽しんでいるように笑っていた。
 背中を叩かれて、その勢いで一歩前に踏み出す。
 左の隅にある窓際のテーブルから、三人の人影がこちらを見ていた。
「貴秋、こちらです」
 一人はクロードで、手を上げて貴秋を招いた。隣には、今にも吹き出しそうな顔をしたケビンが座っている。その向かい側に、信じられない人影があった。貴秋は目を疑ったが、彼女は立ち上がって歩み寄る貴秋に会釈した。
 長い髪が、頭を下げる動作に続いて、肩からハラリと流れた。
「突然、訪れてしまってごめんなさい。遠野千春といいます。この間はありがとうございました」
 丁寧に礼を言われて、呆然としていた貴秋はようやく我に返った。
「足の具合はもういいの?ずっと気になっていたんだけど」
「はい。おかげ様で。後で担当の先生に怒られたの。どうして我慢してまで放っておいたのって」
 色白の頬はもう蒼ざめてはおらず、屈託がなく綻んだ。立ったり座ったりする動作も、わずかにぎこちない程度だ。辺りには、車椅子も見当たらない。
 千春に椅子に掛けるように勧めて、貴秋も隣の席に座った。涼がカウンターの方から、飲み物を乗せたトレイを片手に持ってやって来る。
「まぁ、せっかくだからゆっくり話でもすれば?」
 彼は貴秋にアイスティーのグラスを差し出した。千春の手元には既にオレンジジュースがある。
「貴秋には気分転換が必要だから」
 さりげなく涼が貴秋の胸中を示した。研究に対しては、依然として溜息をつく日々だった。何とかしたいのに、思いは空回りするばかりだ。
 涼とクロードは、彼の拭われない焦りに気付いていたが、決して甘やかすことはない。彼らは貴秋の能力を信じているが、貴秋にはその信頼さえ苦しかった。
 立ち去ろうとする涼につられた様に、クロードもゆっくりと席を立った。
「では、私達はこれで。千春、これも何かの縁ですから、貴秋と仲良くしてあげて下さい」
 わざとらしくそんなことを告げて、クロードは柔らかに笑った。向かいのケビンは大爆笑している。千春はその場の思惑には気付かなかった様子で「こちらこそ」と素直に頷いた。
 幼い三人が見送る中、裾の長い白衣を翻して二人が休憩室から姿を消す。
 その姿が見えなくなると、千春はほうっと息をついた。
「すごく緊張しちゃった」
 彼女の反応が新鮮で、ケビンと貴秋は顔を見合わせた。思わずクスリと笑みが零れる。
「初めて二人に会った人は、たいていそう言うよ」
「俺と貴秋も緊張したよな」
 ケビンも初対面の時の嫌悪感はないらしく、打ち解けた口調で千春に語りかけた。
「見た目があれで、才能もあるし。漂っているオーラが違うんだけど。でも、二人ともすごく優しい」
 貴秋も頷いた。
「慣れれば、とてもきさくな感じだよ」
 二人の言葉に、千春は嬉しそうに笑った。
「二人とも、彼らのことを尊敬しているのね。すごく慕っているんだってよくわかる」
 言い当てられて、子供の自慢みたいだと貴秋とケビンは少し恥ずかしくなった。
「だけど、私からすれば二人もすごい。病棟のお医者さんが教えてくれたの。私と一つ二つしか変わらないけど、義体機器とその移植の権威なんだって」
 そこまで言ってから、千春はふいに表情を改めた。
「今さらだけど、そんな先生に向かって、こんなに気安く話しかけちゃいけなかったわね。ごめんなさい。つい、同年代の人だと思ってしまって」
 千春に頭を下げられて、二人は慌てた。貴秋達にとって、同年代の人間と出会うことは、この施設の中にあっては稀である。
 二人にとっても、分け隔てなく話せる千春との出会いは歓迎すべきものだ。
 貴秋がすぐに「頭をあげて」と声をかけた。
「そんなの、気にしなくていいよ。僕らはあの二人に頼っているだけの研究員だから。全然大したことないんだ。僕は河原貴秋。気安く貴秋って呼んでくれたらいい。で、彼はケビン=ウォーレンサー」
「俺もケビンでいいよ。今さら気をつかわれても気持ち悪い」
 ケビンもぶっきらぼうに名乗る。貴秋は初めて千春と言葉を交わしたときの彼の苛立ちを思い出して、その変貌ぶりに可笑しくなった。貴秋の考えを察したのか、ケビンが照れ隠しに横目で親友を睨む。
「なんだよ、貴秋」
「いや、別に。ケビンが素直になってくれて嬉しいよ」
 貴秋がからかうと、ケビンが反撃に出た。
「おまえこそ、彼女の見舞いに行くことを随分迷っていたよな。そんなに気になるなら、さっさと行けば良かったんだ。こいつ、ずっと君の事気にしていたんだぜ」
 千春が「え?」と目を丸くして、貴秋を見た。彼は千春の眼差しを受け止めることができず、顔を真っ赤にして「ケビン!」と声を高くした。
 二人の不毛なやりとりを見ながら、千春が楽しそうに笑い出した。
「ねぇ、じゃあ私のことは千春って呼んで。こんな所で友達ができるなんて思わなかった。すごく嬉しい」
 三人が顔を見合わせて笑った。「よろしく」という言葉が重なって、響いた。


 千春の患う原因不明の病は、まだ極めて症例が少なかった。病状が他の部位に再発する可能性も否定できず、義足の状態が安定してもすぐには退院できない。
 再発の懸念を払拭するために、移植後、一定期間は検査が必要だった。彼女はこの才国という異国の地で、検査とリハビリの日々を続けなければならないのだ。
 貴秋が千春と出会ってから、二人の姿が中庭に現れない日はなかった。午前中、千春は欠かさず義足のリハビリに励んでいるようだ。
 二人が会うのは常に昼下がりで、貴秋の昼の休憩時刻だった。
 ケビンも気が向けば顔を出すが、貴秋には余計な気をつかって現れないようにしていることが分かっている。胸中で苦笑してみるが、有り難くないとも言い切れない。
 今日も貴秋は、昼食を終えると食堂から中庭へと出て行く。秋も深まり、植えられた銀杏が、黄金色に色を変えた。どこか物寂しげな装いに見える。
 吹く風に煽られて、ひらひらと葉が舞い落ちた。まだ日中は温かいが、これ以上気温が下がると、外に出ているには寒い気候になりそうだった。
 千春はいつも同じ場所で待っていた。中庭にある石造りのベンチにかけて、本を開いている。
 貴秋の姿を見つけると、嬉しそうに笑って立ち上がった。
 彼女がいつもどの位の時刻からここで本を開いているのか、貴秋は知らない。自分が現れる頃には、千春はいつでも既にそこにいるのだった。
「貴秋、見て。私、ついに少しだけ走れるようになったの」
 手にしていた本を座っていたベンチに置いて、千春は少しだけ走ってみせた。貴秋は目を丸くする。
「千春はすごいね。移植後の義足や義手の経過を見たことがあるけど、こんなに早く走れるようになる人は初めて見たよ」
 素直に感動すると、千春は得意げに胸をはる仕草をした。
「そう言ってもらえると、リハビリにも意欲が湧くわ」
 眩しい位に笑いながら、千春は「だけどね」と続ける。
「私はとても運がいいと思うの。普通は、左足を失ってもこんなに精巧な足は手に入れられないもの。もっとずっと訓練して、それでも走ることの出来ない人はいるし。だから、私が元通りの能力を取り戻すことは、すごく当たり前のことよ。貴秋達にも会えて、才国に独りでも、淋しくないし。だから、とても運が良いと思っているの」
 そして、最後に照れたように「ありがとう」と呟いた。
 貴秋は胸が苦しかった。今までは、彼女の見た目の可憐さに惹かれていたのかもしれない。けれど、彼女の真の魅力は、そんなところにはなかった。
 当たり前のことのように突きつけられた、自分との違い。彼女は振り返らず、前を向いて生きている。原因不明の病に苦しめられた運命を、今さら嘆くことはしないのだ。左足を失って、それでも自分に与えられた環境は運が良いのだと笑う。
 偽りではなく、心から。
 貴秋は自身を振りかえって、恥ずかしくなった。自分で好きな道を選び、歩んでおきながら、研究で行き詰まると、すぐに逃げ出したくなった。落ちこんで悩んで、立ち直るために、周りの気づかいを必要とする。
 呆れるほど、弱さに甘えている自分。
 自分の苦しみが、どれほど贅沢な葛藤なのか考えたことなどなかった。
 恵まれた家に生まれて、思うとおり整えられた環境。叶えられた夢。 経済的にも、健康面でも、何一つ苦労などしなかった。
 夢を叶えようとして多くの障害に阻まれ、諦めるしかなかった人々の方が多いだろう。自身が興味を持った環境に生きていられるのは、それだけで幸せなことなのだ。
 そんな当たり前のことを、今まで気づかずに生きてきた。
「千春は、すごいよ」
 心からそう言うと、彼女はきょとんと貴秋を見上げた。
 互いに島国という同じ故郷に生まれて、今は同じように家族と離れて独りきりで異国に暮らす。そんな同郷意識が、二人の意識を通わせていたと思っていたけれど。
 間違えていたのだ。千春と自分の強さには、恥ずかしいくらいに隔たりがあった。
 同じであるはずがない。
 病で仕方なく療養している彼女と、好きな道を進んでいる自分。
 それを比べることが、既に間違えているのだろう。自分を不幸だと思うのは、容易い。自分の幸せは、環境や立場の優劣とは比例しないのだ。いつでも自分の心に比例する。
 例えば、どれほど周りからは苦境に見えても、本人が幸せならそうではない。逆に、どれほど裕福で恵まれた環境にあっても、自身が不幸だと思ってしまえば苦しい。
 幸せも、苦しみも、心の向かうべき方向を決められるのは、自分だけなのだ。
「ありがとう、千春」
 頭を下げると、千春は心底驚いたようだ。
「どうしたの?貴秋。私、お礼を言われるようなことしてないのに」
「僕が背負っていた荷物を、千春がそれは荷物じゃないよって下ろしてくれたんだ」
「何の話をしているの?」
 焦っている千春の様子が可愛くて、貴秋はただ笑った。空に向かって手を伸ばして、大きく伸びをしてみる。澄んだ空には、雲が筋を描いている。
 久しぶりに、心の底に立ち込めていた霧が晴れたようだった。
 憧れた世界。今はそこに立っている。
 忘れていた。一員になったから、立派なわけではないのだ。
 出来ないことがあるのは当たり前だったのに。
 いつから、これほど自分の力を過信して、傲慢になっていたのだろう。
 エデンの一員として在る。それが、どれほどの幸運なのか。
 忘れていた自分が、ひたすら恥ずかしくなった。
 自分に取り憑いていた翳りは、些細なことに過ぎない。
 これからは、落ち込むのではなく、もっと楽しんでみればいいのだ。そんなふうに考えると、取り組むことが面白くなるような気がした。
「良い天気だね。気持ちがいい」
「外に出て、お日様に当たるのはいいことよ」
「うん、そうだね」
 貴秋は中庭に植えられた銀杏の葉を眺める。枯れて散る葉も、物寂しいというよりは、陽光に照らされて喜んでいるような気がした。世界は明るく、眩しい。
 貴秋は漲って来た力に、もう少し勇気を足す。
「ねぇ、千春。外出許可とかもらえるの?冬が来る前に、一度二人で外に出てみない?」
 さりげなく誘ってみると、千春は「いいの?」と顔を輝かせた。中庭に降り注ぐ日の光よりも、千春の笑顔は眩しかった。
「貴秋は忙しくないの?」
「休日くらいあるよ」
「じゃあ、二人でデートね」
 無邪気に示されて、貴秋は思わず顔が赤くなってしまった。それにつられて、千春も頬を染めた。
「あの、あのね。担当の先生に、外に出でいいのか聞いてみる」
「うん」
 互いにどこか気恥ずかしくなりながら、いつものように時間を過ごして別れた。貴秋が研究棟へ戻ると、研究室に辿り着く前にケビンと出会う。彼はそこで貴秋のことを待っていたのか、壁に背を預けて腕を組んでいた。
「どうしたの?ケビン」
 立ち止まると、彼の柔らかな金髪がふわりと揺れる。視線が合うと、彼はいつもの悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「ついに初デート。おめでとう」
 貴秋の顔が一気にのぼせた。
「まさか、聞いていたの?」
 ケビンは声をあげて笑いながら「途中から」と白状した。貴秋が恥ずかしさのあまり顔を伏せていると、不自然な沈黙が訪れた。
「ケビン?」
 顔を上げると、ケビンは表情を改めて呟いた。
「千春はいい子だな」
 貴秋はすぐに反応ができなかった。ケビンが千春のことをそんなふうに言うのを、初めて聞いたからだ。はじめの嫌悪が誤解だと知れても、ケビンはどこかで千春のことを我儘なお嬢さんだと思っていたのだろう。
「ケビン、風邪でもひいたの?」
 貴秋は思わず彼の手首を持って、脈を見た。
「おまえ、俺のこと何だと思っているんだ」
「いや、だって。ケビンからそんな言葉を聞けるなんて思っていなかったから」
 ケビンは苦笑した。
「まぁな。たしかに千春のこと誤解していた。間違えていたよ。左足を失って、例えどれほど高性能な義足を与えられても、本当に我儘だったら、あんなふうに言えない。当たり前だとか、恵まれているなんて、言えないと思う。だから、はじめの態度は本当に悪かったと思って。今度会ったら、貴秋からそう伝えといてくれよ」
「そんなこと、ケビンが自分で言えばいいじゃないか」
「今さら?恥ずかしくて無理」
 彼は照れたのか、ぷいと横を向いた。ケビンの照れ隠しがおかしくて貴秋が笑うと、彼はもう一度振り返った。
「貴秋が背負っていた荷物を、千春が下ろしてくれた」
「――うん。自分を過信して、周りが見えなくなっていたのかもしれない。ケビンにも心配かけたね、ごめん」
 ケビンはふうっと大きな息をついた。
「貴秋が全て投げ出して、島国に帰るって言い出したらどうしようかと、ずっと心配だった」
 本音をぶつけられて、貴秋は頭を下げた。
「僕が甘えていたんだ、ごめん」
 心から詫びると、ケビンが右手を差し出した。貴秋がしっかりと握り返す。初めて出会ったときのように、二人が堅く握手した。
「これからも、よろしく」
「こちらこそ」
 改めて挨拶を交わしていると、どこからかささやかに拍手する音が聞こえて来た。二人がはっとして音のしたほうを向くと、クロードが手を叩きながら近づいてきた。
「素敵な友情を見せて頂きました」
 背後では涼が肩を震わせながら、笑いを噛み殺している。
「ですが、二人とも。休憩時刻はとっくに過ぎています。志が立派でも、行動が愚かでは意味がありません」
 いつも穏やかな彼には珍しく、口調が厳しい。逆鱗に触れたのかと、二人は蒼ざめた。
「申し訳ありません、博士」
 声を揃えて、慌てて頭を下げた。頭上で、クスリと笑う声がする。顔を上げると、クロードが可笑しそうに笑っていた。後ろでは堪えきれずに、涼が大笑いしていた。
「まぁ、今日は貴秋がやっと初心を思い出したようなので、それに免じて許しておきましょう。けれど、次は容赦しませんよ」
 貴秋はカッと頬に血が上る。「はい」ともう一度頭を下げた。


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サイトup 2004.7.18