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楽園の愚者達

第四章

 施設の中庭へ続く石造りの階段に、ケビンが腰掛けている。エデンの終了時刻は午後五時だ。所属しているチームの予定によっては、徹夜続きの日々になることもあった。
 ケビンの属するトップラボは、失われた研究成果の復元を続けている。財団との契約は一時的に白紙に戻され、再契約の見通しは立っていない。
 そのために、研究日程はゆるやかな時間割になっていた。それでも責任者のクロードや次席である涼の進め方は、どこか腑に落ちない。ケビンにはわざと足踏みしているようにも感じ取れた。
 時刻は六時前であったが、夏の盛りでは辺りはまだ明るい。
 貴秋達が姿を消してからは、半年以上が経った。秋が訪れると一年を迎える事になる。彼からは、依然として何の連絡もない。行方も見つからないまま、今日までが過ぎた。
 才国の夏は気温が上昇するが、陸国や島国に比べると、湿度が極めて低い。
 朝夕は真夏であっても島国の秋に等しく、涼しくて過ごし易い。
 昼の熱風ではなく、冷めた風が石造りの階段にも緩やかに吹いた。白衣を脱いだケビンは、年相応に学生のような風情で、じっと座っている。
 彼は、ふと背後に人の気配を感じて振り返った。
「なんだ、桂花か」
「まだ帰らないの?」
 階段へ続く施設の通路に、桂花が立っていた。彼女も既に白衣を脱いでいて、これから帰路につく様子だった。ケビンが見上げると、彼女は階段を下りて隣までやってくる。
「何を考えていたの?」
 ケビンは答えずに、中庭に繁る緑に目を向ける。桂花は隣に座り、手にしていた鞄を傍らに置いた。
「桂花こそ、帰らないのか」
「帰るけれど。――ヘレンは元気にしている?」
「ああ。学校へ戻って、楽しくやっているみたいだ」
 答えると、桂花がクスリと苦笑した。「その癖、変わらないわね」と呟く。
「癖?」
「都合の悪いことになると、黙り込んでしまう癖よ。秘めていて疲れることもあるでしょうに」
 あっさりと指摘されて、ケビンも失笑が漏れる。彼女のそんな指摘が嫌いではなかった。いつでも重い口を開くきっかけができる。
 ふだん口数の少ないケビンも、桂花とはよく話した。付き合い始めたのも、友人という関係の延長からだ。けれど、恋人という、甘く、どこか束縛めいた関係は、長く続かなかった。縛り合うには、互いへの執着が足りなかったのかもしれない。
 半年も続かずに別れて、今の関係がある。
 友人としてあるのなら、申し分のない相手だ。
 どちらかというと、ケビンにとって人を信じるということは容易くない。ウォーレンサー家との確執、そこで見た人間の欲望、愚かな執着。それらの記憶が、今でもケビンを苛んでいる。
 誰もが、自身の利益と欲のために行動する。与えられている優しさの裏には、常に何らかの思惑が潜んでいる。利害関係が破綻したとき、人は簡単に裏切るのだ。
 これまでに築かれた信頼も、親しみも、そこで全てが奪われて、やがて憎しみに変わる。
「貴秋の行方を探さなくてもいいの?」
 ケビンは胸の底にある水面を、いつでも穏やかに保とうと心がけている。それでも貴秋のことを思うと、水面が波打った。
 心を許した親友。全てを打ち明けて、力になってくれると思っていた。
 その愚かな幻想。
「彼の捜索は俺の仕事じゃない」
「だけど、許せないでしょう」
 低く、桂花が呟いた。ケビンは怪訝な顔をする。
「ヘレンの命と、千春の命を秤にかけて、彼は千春を選んだ。あなたに対して、これ以上の裏切りはないわ」
 はっきりと告げられた言葉に、ケビンは思わず動揺しそうになった。
「桂花?――千春は島国の実家に戻っているだけだ。貴秋の逃亡とは無関係だ」
 貴秋が研究成果を持ち出した時期に、彼の婚約者であった遠野千春も島国へ一時帰国している。
 二人が婚約者という関係にあったために、当時はそこからあらゆる憶測が噂となった。しかし、最終的な事実は、千春は事件と無関係だということだ。今は島国で療養に努めている。貴秋との婚約も破棄された。
 それが事実だ―――表向きには。
 真相は違う。それを知るのは、トップラボの責任者であるクロードと、次席の菱川涼。そしてケビンと、妹のヘレンだけだった。
 桂花が知るはずはない。
「私は、ヘレンから事実を教えてもらった。もちろん、誰にも話していないけれど。ケビン、貴秋は千春を連れて逃げた」
 ケビンは妹を心の中で叱咤する。けれど、それは一瞬だった。
 誰にも打ち明けられない筈の憎悪を、桂花には打ち明けることができる。その思いの方が、ケビンを強く占めた。
 彼女の言うように、貴秋は選んだ。
 自分との友情よりも、信頼よりも、ヘレンの命よりも。たった一人、遠野千春を望んだのだ。彼らを見守ってきたケビンには、その思いも理解できる。けれど、それ以上に裏切られた事実が苦痛だった。
 組み合わせて握り緊めた両手に、ケビンが額を押さえつける。
「俺は、―――貴秋が、憎いよ」
 顔を伏せたまま、はじめてケビンが漏らした。暗い響きに、桂花は思わず顔を歪める。振り絞るように告げられた本音。ずっと、胸の内に秘め続けてきた憎悪。
 忘れていた思いが蘇る。人は必ず裏切るということ。誰も信じてはいけない。
 信じられない。
「ねぇ、ケビン」
 渦巻く感情の波を静めるように、桂花の声が響く。
「私には、腑に落ちないことがあるわ。ヘレンに打ち明けられてから、いろいろ調べたの」
 ケビンがゆっくりと顔をあげた。
「これは、はじめから計画されていたことではないの?」
「それはないな。研究成果は未完成なんだ。誰がそんな物を試そうとする?貴秋のやったことは、許されることじゃない」
「だけど、千春の両親は、娘が実家に戻って療養していると認めているのよ。いくら行方不明を隠蔽するとしても、不自然だわ」
 ケビンは浅く笑った。
「遠野家は何も知らないよ。知っていたところで、口を出す権利はない」
「どういうこと?」
「これまで千春が生きてこられたのは、ここの技術と貴秋のおかげだ。でなければとっくに命を落としている」
「それでも、両親にいつまでも隠しとおせることなの?ばれた時には大問題になるわ。娘の命を弄ばれて納得するわけがない」
 桂花の問いに、ケビンは吐息をついた。
「――遠野家はね、とっくに千春を捨てた一族なんだ。当初は、千春の治療に前向きだった。けれど、病は左足の腐敗だけでは留まらなかった。遠野家はそこで千春の命を諦めた。移植を受け入れず、島国へ連れて帰ろうとしたんだ」
「まさか、それで貴秋は彼女と婚約を?」
「そう。才国の法では、婚約者には配偶者に等しい権利が認められている。貴秋は千春に気持ちを移していたから、激怒した。彼女の身柄について意見できる資格を得る為に、口約束ではない婚約の手続きを踏んだ。だから、千春の権利を、いまさら遠野家が訴えることはできない。それは本人と貴秋にある。二人の婚約は破棄されていない」
 遠野千春という少女の経緯を、桂花ははじめて知った。
「―――可哀想な子なのね、千春は」
「そうだね」
 頷いたケビンの眼差しは、暗い。
「俺はね、桂花。よく分かるんだ、二人の思いが。貴秋がどれほど苦しんで、嘆いて、悩んだのかも想像がつく。それでも、俺には一言も打ち明けてはくれなかった。財団との契約が白紙になっても、ヘレンは骨髄移植を受けられたわけだし。相談してくれれば、やり方があったのかもしれない。俺は頭ごなしに反対などしなかった。彼の力になろうと思っただろう。だけど、貴秋は俺を信用していなかった。それが、許せないんだ」
 今まで築いてきた関係が、全て偽りであったのだと、貴秋の行動が示したのはそういうことなのだ。
 これまで、二人で多くのことを語り合った。ヘレンのこと、千春のこと、研究について。互いを認めて、多くのことを語り合って過ごしてきたのに。
 親友であるという揺るぎない信頼を見失うと、醜い思いばかりが跡に残る。
 まるで迷路を彷徨うように、貴秋の心理を辿ろうとしている。幾度繰り返しても、裏切りという出口にしか辿り着けず、ケビンは気がおかしくなりそうなほど、彼を憎悪する瞬間があった。
「私は二人を見ていて、羨ましく思うことがあったわ」
「千春と貴秋を?」
「違うわ。私は千春のことはよく知らないし。あなたと貴秋のことよ。仲が良くて、エデンの双璧にも負けない絆だと思っていた」
 素直に打ち明けると、ケビンは浅く笑った。中庭の向こう側に、佇む棟が続いている。建物の合間から、空が覗いていた。鮮やかな朱が広がっている。夜の闇が訪れる前の、ひと時の黄昏。
「二人の絆を破っても、貴秋は望んだ。だけど、千春が助かるとは思えないわね。彼女の寿命は、はじめに発症した時から決まっていたのではないかしら。あがいても、結局は同じ結果になるのなら、彼女の両親が諦めたときに、貴秋も諦めるべきだったのよ」
 桂花はどこか突き放した言い方をする。貴秋達に対して、一片の同情もない口ぶりだった。ケビンが彼女の横顔を見る。静かな振舞いのまま、憤っているのだと気付いた。
「それでも、一緒にいられれば幸せなのかもしれない」
「だからと言って、人を裏切っていいということにはならないわ」
 桂花の言葉は厳しく、正しい。今のケビンには心地よい響きだった。
「千春に未完成の義脳を移植するなんて。技術的に、貴秋一人だけでそんなことは可能なの?」
 この一連の成り行きに疑問が残っているらしく、桂花は再び問いかけた。ケビンは少し考えてから頷く。
「絶対に無理だとは言えない。トップラボのメンバーは、貴秋も含めて、移植手術の技術を高い水準でもっている」
 桂花は横に首を振った。
「誰にも気付かれずに、そんな大手術を一人で成し遂げるなんて不可能よ」
 断定的な態度に、ケビンは表情を改めた。彼女は一連の事件について、何か重大なことを知っているのではないかと思ったのだ。
「同時に、そんな患者を連れて逃げ回ることは、もっと不可能だわ。半年も経って行方が見つからないなんておかしい。誰か仕掛けている人間がいて、彼らに協力しているのよ」
「桂花、何か知っているのか」
 桂花は目を閉じる。教えてしまっていいのかどうか、迷っているようにも見えた。
「ずっと、あなたに教えるべきかどうか迷っていたの。だけど、ケビンがそれほど抱えているなら、事の真相をはっきりとさせた方がいいのかもしれないわ」
 ケビンはわずかに動悸を感じた。嫌な予感がする。
「私は、あなたがラボの双璧を尊敬して信頼しているのは知っているわ。だけど、今回の逃亡劇には、二人も関与している」
「まさか!」
 あまりの事実に、ケビンは思わず声をあげた。
「桂花。いくら君でも、根拠もなくそんなことを言うのは許さない」
「根拠はあるわ」
 彼女は自身の鞄を引き寄せて、一枚のディスクを差し出した。
「許されることではないけれど、少し強引な手段を用いて調べたの。トップラボ共通の暗号が使われていて、私には全てを読み解くことはできない。それでも、貴秋と彼らが連絡をとりあっているということは理解できた。ここに、その内容をコピーしたわ」
「――嘘だ」
 桂花はただ眼差しを細めた。冗談だと笑い飛ばすには、彼女が真剣でありすぎたし、冗談で口にできるような話でもない。
 差し出されたディスクを受け取るケビンの手が、知らずに震えていた。
「ケビン。私はあなたの味方よ」
 桂花の声が、遠くに聞こえた。
 ただ、与えられた事実が悔しくて、憎くて、何もかもが信じられない。
 暗い怒りに貫かれて、ケビンは目眩がした。



 千春は以前に打撲した左足を眺めていた。シズカとの初めて対面は、今でも思い出すと少しだけ恐ろしい。任務に忠実な彼女は千春を不審者だと認識してしまったのだ。結果、攻撃に及んで千春を傷つけた。幸いなことに、大した怪我はなかった。打撲といっても痣が現れるわけでもなく、痛みもなく、すぐに完治した。
 左足の腿に、攻撃を受けた箇所がある。普段は気にならないが、改めて見つめると肌の色がわずかに異なっていた。直径五センチにも満たない円を描くように、不自然な跡が残っている。
 傷跡と言うには薄く、打撲の跡にしては違和感があった。
「本当は撃ち抜かれていたのかな」
 そんな筈がないことも知っている。足に銃弾を受けて、半日で傷が塞がるわけがないのだ。歩いたり走ったりすることには、何の支障もない。
 千春は考えるのをやめて、寝台から立ち上がる。
 貴秋は一時間位前から、仕事部屋に篭っていた。いつ出てくるのかは予測できないが、呼びかけるまで現れないような気がしていた。
 千春はいそいそとした気分で時計を確かめる。台所にあるオーブンでアップルパイを焼いているのだ。そろそろ設定していた焼きあがりの時間が近い。様子を確かめるために自室を出ようとして、千春はふと視界の端に動く影を捉えた。
 窓の向こうに、門扉から続く庭先を歩いている人影が見えた。玄関の扉へ向かって、スタイルの良い長身の女が歩いてくる。
 シズカだ。
 腕にはいつものように、大きな箱を抱えている。
 千春は警戒することなく、部屋の窓を開けた。途端に寒気に襲われて、千春は体を震わせる。秋が過ぎ去り、外の気温は低い。ちらほらと雪の降る日もあった。
「静。おかえり」
 千春が声をかけると、シズカはごく自然な動作でこちらを見た。表情のない彼女は微笑むということがない。
「千春、ただいま戻りました」
「すぐに玄関の扉を開けるわ」
 両手が塞がっているシズカにそう告げて、千春は慌てた様子で窓を閉める。自室から出て、すぐに玄関まで駆けつけた。
 玄関の扉を開くと、シズカは颯爽と家の中に入ってきた。細い腕に、前が見えなくなるほどの箱を抱えているとは思えない、無駄のない動きだ。
 幾つか積み重ねられた箱を見ていると、千春は華奢なシズカには負担ではないかと気の毒になってしまう。人型が人間とは比べ物にならない力を持っていると教えられても、完璧に女性を模した姿を見ていると、そんな罪悪がこみ上げた。
「静。重たくない?私、一番上に乗っている箱だけでも運ぼうか?」
 もしシズカに感情があれば、千春の気づかいに小さく笑ったかもしれない。シズカは「問題ありません」と答えた。
 千春はその素っ気無い反応に、さらに居心地が悪くなる。
「待って待って、静」
 思わず目の前を横切ろうとするシズカを呼び止める。主に呼び止められると、シズカには拒否権がない。物理的に主の命が危機に瀕しているなど、よほど差し迫った場面でない限り服従する。
 千春は立ち止まったシズカの前で、背伸びをして最上段の箱に手を伸ばした。
「その上の箱、私が持つわ」
 シズカは無言で立ち止まったまま、千春の動きを見守っている。千春はゆっくりと上の箱を手前へずらした。それだけでも思っていたより、力を込めなければならなかった。箱を自身の手で支えるため、千春はその重みを覚悟した。
 引っ張ると、ふっと箱の重みが腕に移動した。
 想像以上に重い。何が入っているのだろうと疑問に思ったが、それは一瞬だった。
「―――っ!」
 荷重に耐え切れず、千春はバランスを崩した。やっと腕に抱えた荷物がするりと滑る。あっと思う間もなく、一歩前に出していた左足の上に落ちた。見事に腿の辺りにぶち当たると、箱はバタンと重い音を響かせて、床に転がった。
「千春、大丈夫ですか」
 シズカは積み上げられた箱を素早く脇に置いて、千春の前に跪いた。一方、千春は箱の重みを左足で受け止めて、言葉も出ないくらいに痛い。思わずその場に座り込んで、打撲した箇所を押さえた。
「大丈夫ですか」
 千春はようやく「大丈夫」と答えた。涙が滲むほどの痛みは、少しずつ退いて行く。今の物音を貴秋が気にしないかと、千春は思わず奥の部屋を窺った。彼に心配をかけてしまうと、千春は分を過ぎた貴秋の気づかいに苦しくなる。考えずにいようと努めても、彼が自分を通して見ている婚約者のことを考えてしまうからだ。
 自分に向けられる、切なくなるほど優しい眼差し。それを真正面に受け止めるのは辛い。
 物音は伝わっていないのか、貴秋が出てくる気配はなかった。千春はほっとして、立ち上がろうと身動きする。
 シズカが察したのか、迷いなく手を差し伸べてくれた。
「――あ、れ?」
 左足に心もとない感覚があった。そして、余計なものがぶらさがっている違和感。千春はシズカの手につかまって、ゆっくりと立ち上がる。左足のぎこちない反応に、ひやりとした戦慄を覚えた。
 スカートに隠れた大腿部に、何かがあるのだ。
「千春、怪我でもしましたか」
 ジスカの抑揚のない声を聞きながら、千春はそっと左足の腿に手を這わせる。スカートの生地ごしにも、その感触は明らかだった。柔らかなものが、べろりとめくれている。
 柔らかなもの。
 千春はコクリと喉を鳴らす。手で触れて押さえても、麻痺してしまったのか、痛みはない。出血もなかった。
「千春、怪我をしたのですか。どうしました?」
 凍りついたように動かない千春の前で、シズカは膝をついたまま繰り返す。答える余裕がないまま、千春は腿の辺りまで、ゆっくりとスカートをたくし上げる。
「ひっ――」
 咄嗟に口を両手で押さえた。貴秋に気付かれたくないという一心で、懸命に悲鳴を飲み込んだのだ。脳裏には、今見た光景が焼きついている。
「千春、怪我をしたのですね。すぐに貴秋を……」
 大きくはないが、激しい口調で千春が否定した。混乱したまま、それでも貴秋に知られてはならないと、強い意志が働く。
 貴秋の元へ向かおうと立ち上がったシズカを、すぐに引き止めた。
「静。私は大丈夫。先生には知らせないで」
 試しに一歩踏み出すと、左足はいつものように動いた。依然として痛みは感じない。
「歩けるし、平気よ。――静、私の部屋まで一緒に来て。お願い」
「わかりました」
 奥の部屋に続く廊下で騒いでは、貴秋に気付かれてしまう。千春は何事もなかったように、気丈に自分の部屋へと進んだ。荷物をそのままにして、シズカも言われたとおり後をついてきた。


「千春。私には怪我をしているように見えました。間違えていますか」
 自分の部屋に戻ると、千春は寝台に座り込んだ。手が小刻みに震えている。シズカは無表情にそんな主の様子を眺めてから、足の具合を見つめた。
「貴秋を呼んだ方がいいのではないですか。顔色もよくありません」
「駄目よ。静、お願い。今はとにかく私の傍にいて」
 シズカを自分の傍にとどめておいて、千春はもう一度左足を確かめた。厚みのある肌色の皮が剥がれ、辛うじて一部だけで繋がっていた。落下した箱の角は想像以上に鋭利で、勢いがついていたのだろう。千春の腿に突き刺ささり、抉ったようだ。
 シズカは身動きせず、千春の傷口を見て繰り返す。
「怪我をしているように見えます。手当てが必要です」
「これは、怪我じゃないわ」
 深い部分からめくれた皮を、千春は震える手で触った。痛みを確かめるように、指先を動かすが、何の感覚もない。
「怪我をしていたら、痛むし、血が出るはずよ。――こんな、……生身の足じゃないのに、怪我なんてできない」
 抉られた部分から覗く、作り物の内部。微細な管が、無数に絡みあっていた。
 抉られていない部分は、今も精巧に人の足を真似ている。肉の弾力も、温もりも生身に等しい。しかし、肌の剥がれた裂け目からは、緻密な機械が露出していた。
「では、私の言葉が間違えているのですか。怪我ではなく、故障と言えばよろしいですか。どちらにしても、手当てが必要です」
 人型のシズカに、千春の思いを察しろというのは不可能だ。
「故障?……私が、人間じゃないということ?」
 千春は思わず、シズカを責めてしまう。
 シズカはただ立ち尽くしていた。沈黙が訪れて、その静けさが千春を苛む。ひたすら恐ろしい憶測が幾つもよぎった。
 記憶が戻らない限り、自分が何者であるのかさえ証明できない。
「私、いったい何なの?」
 自身を証明する手立てが、何もない。
 何もわからない。
 混乱した頭で、千春は一つの答えに辿り着く。
「――まさか」
 千春は血の気の引いた顔で、目の前に立っているシズカを見上げた。
「静。私は、あなたと同じ人型なの?」
 シズカは口を閉ざしたまま、新緑の虹彩でこちらを見つめている。答えはなかった。
 頭に浮かんだ憶測が、恐ろしい勢いでどんどん形になった。千春には、その妄想を遮るだけの、確かな事実が何一つなかったのだ。
 疑いようのない真実であるかのように、全てが繋がって行く。
「私の記憶。……失ったのではなくて、はじめからなかったの?」
 何も覚えていないのではなく、初めから記憶がなかったとしたら。ここで目覚めたあの瞬間が、全ての始まりであったなら、過去など覚えている筈がない。
 それは元から存在しないのだから。
 貴秋があれほどの経歴を持ちながら、こんな片田舎で暮らしていることの意味。最新の人型の試作品は、シズカではなく自分ではないのだろうか。
 容貌だけが人を真似ていたアンドロイドは、既に信じられない躍進を遂げていた。
 感情という、人にだけ許されていた心を、ついに手に入れた。限りなく人の全てを真似て、同じように食事まで摂取する。それが人間のように動力となるのかは疑わしいが、どこまでも精巧に人の振舞いを追い求めて、可能にしたのかもしれない。
 最新型の試作品である自分に与えられた、奇蹟のような技術。シズカは、その最新の技術を守るために、自分達を警護している。
 何の齟齬もなく、千春にはそれが正しい筋道であるように受け止めることができる。
 記憶がない理由に、それが一番適切である気がしたのだ。
 自身を人間であると信じて暮らすほど、感情豊かな人形。その姿は、貴秋の婚約者である千春を真似て作られている。
 自分を見つめる、彼の優しい眼差し。愛しい者と同じ姿、同じ声、同じ振舞いが、彼の傍にある。もしかしたら、この想いすら作り物で、あらかじめ定められていたのかもしれない。
 千春の身代わり。それが自分の誕生の意味なのだろうか。自分の中には、元から自分など存在しない。全てが作り物。
 この苦しみも、葛藤も、彼を想う揺るぎない気持ちさえ、――全てが。
「シズカ。戻っているのか?」
 巡る思考が、廊下から響く貴秋の声で遮られた。千春が止めるより早く、シズカが反応してしまう。
「貴秋、こちらです。千春が故障しています。すぐに手当てを」
「なんだって?」
 扉の向こう側で、貴秋の狼狽した声がした。
「嘘よ。先生、入ってこないで」
 千春は思わず寝台から立ち上がって、逃げ場を探してしまう。貴秋が廊下を駆けて来る足音がしたと思うと、すぐに部屋の扉を叩く音がした。
「千春、入るよ」
「駄目よ。静、お願い、止めて」
 開きかけた扉を、シズカは命じられたまま閉ざす。貴秋がドンッと激しく扉を叩いた。
「千春、何があったの?シズカ、どけ」
「駄目、彼を部屋に入れないで」
 貴秋よりは千春の言葉に従うのか、シズカは扉の前から動かなった。向こう側で、貴秋の怒声がする。
「シズカッ!」
 その激しさに、千春の方がうろたえる。なぜ彼にこの抉られた傷跡を見せるのが嫌なのか、自分でも理由がわからない。彼が全てを仕掛けたのなら、今さら隠さなくても知っていることなのだ。
 それでも、彼に身代わりとして扱われるのが嫌なのだろうか。自身を通して、彼の中に現れる本物の千春を知りたくない。どれほど人を真似ても、所詮は全てが作り物。抉られた傷跡が、それを示す。
 人間ですらない、身代わりの人形。貴秋にそんなふうに扱われて手当てを受けることが、たまらなく惨めであるような気がした。
「シズカッ、どけっ」
 シズカを叱咤しながら、貴秋は激しく扉を叩いている。
「千春っ、どうしたの?」
 声だけで追いつめられて、千春はいつの間にか部屋の片隅まで退いていた。気がつくと、背に壁が迫っている。焦って室内に視線をめぐらせると、今さらになって窓に気がついた。強引に、そこから外へ逃げ出してしまおうかと考える。
「シズカ。コード110143。優先順序を変更。マスター001千春、削除。003に変更。マスター002貴秋、削除。001に変更。以上」
 扉の向こう側で、貴秋が早口に何かを告げている。千春は動悸のする胸を掌でおさえた。どうすればいいのかわからない。
「コード110143、変更を受け付けました」
「シズカ、扉を開けて」
「わかりました。どうぞ、貴秋」
「駄目よ」
 千春の訴えも虚しく、次の瞬間、シズカがためらわず扉を開けた。千春は強張った表情で、貴秋を拒絶する。
「いや。先生、来ないで」
 千春は咄嗟に窓に向かって踏み出そうとしたが、一歩も進まないうちに、強く腕をつかまれた。すぐ間近に、貴秋の余裕のない眼差しが迫っていた。
「いったいどうしたの?千春」
 スカートに隠されて、貴秋には損傷した大腿部の様子が見えない。千春が黙っていると、シズカが変わらず抑揚のない声で教えた。
「千春の左足、大腿部に故障が見られます」
「――左足?」
 自分の腕を捕まえている彼の手に、わずかに力がこもる。千春は強く唇を噛んだ。彼は全てがばれたと動揺したに違いない。これまでの、平穏な幸せごっこは終わりを告げるのだ。千春は耐え難いほどの惨めさに襲われた。嫌というほど、彼の愛する千春の身代わりであることを思い知らされる。
 哀しくて、悔しくて、惨めで、賢明に堪えたが涙が溢れた。どうせ偽者であるなら、こんな苦しみは省いてくれれば良かったのだ。こんな葛藤を再現することに、意味があるとは思えない。
「千春、痛むの?」
 零れ落ちた涙をどう受け取ったのか、貴秋がいつも通り、穏やかに問いかける。
「とにかく、足を見せてもらっていいかな」
「……じゃ、ない」
「え?」
「私は千春じゃないっ!」
 強く否定して、千春は驚いている貴秋と視線を交わす。一度言葉にすると、今まで堪えていた想いが一気に溢れ出た。
「誰かの身代わりなんて嫌。どれほど千春を真似て作られていても、私は千春じゃない」
「――何を言って……」
「私は、先生が作った新しい人型なんでしょう?だから、誰にも知られないように、こんな所でひっそりと暮らして、様子を見ている」
「千春、違う。少し落ち着いて。君は誤解している」
「だったら、どうして左足のことを先生は隠していたの?本当は初めて静に会ったとき、撃ち抜かれていたんでしょう?それを先生が元通り修復した。初めから全て知っていて、黙っていたのよ」
「――それは……。だけど、違うんだ」
「私、自分の足がどうなっているのか、見てしまったもの。先生が大切にしている指輪も見てしまった。私は先生の大切な千春にはなれない」
「違う、落ち着いて。君は千春なんだ。それが、君の本当の名前なんだよ」
 千春はカッと頬に朱が昇るのを感じた。つかまれていた腕を、渾身の力で振りほどく。勢いで、涙が宙に散った。
「私は千春じゃない!身代わりにはなれない」
「だから君が……」
「私はっ」
 千春がいっそう声を高くして、貴秋の言葉を遮る。これ以上、偽りで築かれてゆく言葉を聞きたくなかった。彼の顔が、涙で歪む。
「先生が、好きなの。……だから苦しい。助けて、私のことを見て」
「――千春」
 彼がその名を呼ぶ度に、一筋の傷が刻まれる。想いを打ち明けても、それでも聞こえてくるのは、――ただ、千春と。彼の愛しい人の名前だけだ。
 傷口は、抉れるほどに深さを増す。それを癒すはずの、自分の名がない。
 誰にも呼んでもらえない。
「……例え作られた命でも、誰かの変わりなんて嫌」
「君は誰かの代わりなんかじゃない」
 自分に触れるように伸ばされた貴秋の手を、千春は激しく弾いた。
「もう、たくさんよ」
 彼を突き飛ばすようにして、その場から逃げ出す。
「千春!」
 背後から、貴秋の声が追いかけてきた。千春はかまわず廊下を駆ける。
 もう全てがどうでも良かった。千春はこのまま消えてしまいたかった。
 靴も履かずに、彼女は裸足のままで玄関を抜けた。
 外は息が白くこごるほど寒い。ちらちらと、雪が降り始めていた。


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