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楽園の愚者達

第三章

 王桂花は、今日も空き時間を利用して病室を訪れた。病室を覗くと、ヘレンと視線があった。彼女はとびきりの笑顔で迎えてくれる。
「桂花。私、ついに退院が決まったの」
 彼女はそれを自分に伝えたくて、たまらなかったのだろう。桂花は彼女に近づいて、手を差し伸べる。ヘレンの白い右手を、両手で強く握り緊めた。
「おめでとう、ヘレン」
 移植手術からは、既に二ヶ月が過ぎていた。術後の経過も良好で、最近では外出許可も与えられている。
 ヘレンの線の細い面差しは繊細だが、もう以前のような憂いはない。明るい表情が戻っていた。抜け落ちた金髪も生え揃い、短い髪型が余計に彼女を活発に見せた。
「退院はいつなの?」
「一週間後。最後の検査に異常がなければ、もう退院していいって」
「この生活とも、さよならね」
 桂花は悪戯っぽく片目を閉じる。二人で喜んでいたが、思わず本音が零れた。
「だけど、ヘレンがいなくなると淋しくなるわ」
「私、兄さんに便乗して遊びにくるわ。桂花も良かったら家の方に顔を出して」
「ええ、そうね。‥‥‥だけど、本当に良かった。おめでとう」
 改めて伝えると、ヘレンは感極まったのか顔を伏せるようにして頷いた。桂花は傍らの椅子に、無造作に腰かける。足を組んで、天井を仰いだ。
「ヘレンに愚痴を聞いてもらうこともできなくなるわね」
「そんなことないわ。退院したって、いつでも会えるし、いつでも愚痴くらい聞くわよ」
「ありがとう」
 視線をヘレンに戻して、桂花は寂しげに笑う。
「どうかしたの?桂花。嫌なことでもあったの?」
「そういうわけじゃないんだけど」
 どこか遠い目をして、桂花は深く息をついた。
「最近、思うことがあるの。――どれほど技術が進んでも、本当は人の寿命は決まっているのではないかって。生きていられるか、いられないかは、本当は生まれた時に決まっているのではないかと思うのよ」
 ヘレンがそっと瞬きをする。どこを見るともなく天井を見上げている桂花を見た。
「運命は決まっているということ?」
「わからないわ。だけど、そういうことを言っていることになってしまうわね。運命が決まっているとは思わないけれど、人が技術を持って病を克服しても、また新たな病例が発症する。その繰り返しを見ているような気がしてしまう」
 口調はいつも通りだが、桂花の眼差しは暗い。
 昨今、才国では人を死に至らしめる新たな病例が報告されている。まるで義体機器を推奨する才国が、天の逆鱗に触れたかのような症例だった。
 ある日突然、身体の一部が腐り、朽ちてゆくのだ。
 発症率は極めて低いが、原因が全くの不明で治癒させる術がないのだ。延命方法は、病に侵された部位を移植するしかない。提供者があれば、その臓器を。それで間に合わなければ、義臓器を移植する。それだけが、死を食い止める方法だった。
「人には与えられた寿命があって、それは不変なの。それを自然の断りに背いて繋ぎとめれば、何かが歪んで行くのではないかと思えるのよ。そして、やがて天の逆鱗に触れるのではないかって。もしそうであれば、技術を追い求めて人を無理に生かすことが、愚かに思える」
「桂花は、ここで薬剤の開発を進めているのに、そんなことを考えているの?」
 ヘレンが驚いたように目を丸くしている。桂花は慌てたように、ヘレンに視線を戻した。
「これは、もちろん極論よ。ただ、研究が煮詰まったりすると、いろいろ考えてしまうのよ。自分のやっていることが無力に思えたり。……ここに来て、多くのことを学んだけれど。央国の生薬のあり方とは、どこかが根本的にずれているのかもしれないわ。自然の理の中で生まれるものと、そうでないものと」
「央国は、才国と考え方が違うの?」
「最終的に目指すことは同じだと思っているわ。私は、央国の生塾という集まりで、いろいろなことを学んだ」
「聞いた事があるわ。央国が誇る生薬の研究組織でしょう?」
「ええ。エデンは、生塾とは手段や方法が違うけれど、結局、人を助けたいという結論は同じなのね。ケビンを見ていると、そう思うわね。人の助けとなる技術を創りだす。そのことに誇りを持っているわ。生きてきた環境が違うのに、方法論も全く違うのに、同じことを考えているなんて、すごいことね」
 ヘレンは興味深げに、桂花の話を聞いていた。
「桂花も誇りを持っているでしょう?」
 桂花は曖昧に笑うことしかできなかった。
「研究者は大変なのね、桂花が疲れてしまうのも無理はないわ」
 ヘレンの労わるような視線に気付いて、桂花は思わず恥ずかしくなった。後ろで一つに束ねている髪をくるくると弄ぶ。
「――まぁ、いろいろあるわけだけど。でも、ヘレンと話していると、気分転換になって楽しかったから」
 ようやく話が始めに戻る。ヘレンの退院を祝いながら、淋しいと思ってしまう気持ちはどうしようもない。桂花の伝えたかったことに辿り着いて、ヘレンは微笑んだ。泣き出しそうな表情にも見えた。
 桂花はしんみりとした空気を一掃するように、話題を転じた。
「ところで。可愛い妹が退院するというのに、ケビンは相変わらず覇気がないわね」
 兄の話題になると、ヘレンも心なしか表情が曇る。以前に兄が可哀想だと言って、ヘレンは泣いた。病の最中にあってもヘレンは気丈で、人前で涙することはなかった。それを知っているだけに、桂花はヘレンにその理由を打ち明けて欲しかった。
 ヘレンは桂花の気づかいを知っていたが、兄の憂鬱については頑なに沈黙を守った。
 それでも、日が経つにつれてヘレンは抱えていることが辛くなったのだろう。少しずつ、ケビンが苦しんでいる理由を語ってくれた。それが全ての真相であるのかは、桂花には判断がつかない。
「貴秋の行方が、未だにわからないせいね」
 桂花も深く息をついた。トップラボの失態にまつわる噂は、極めて真実に等しい。ヘレンはそう教えてくれたのだ。第一班に席をおくケビン=ウォーレンサーには、同じ班に親友がいた。
 河原貴秋である。島国の出身で、トップラボに席を置くに相応しい天賦の才を持っている。見た目は大人しそうな青年だが、話してみると気さくで人懐こい。桂花も気安い知人として、よく話をしたものだ。
 貴秋の中に、それほどの激情があったとは、誰も思わなかっただろう。真相を知らされた桂花も、にわかには信じられなかった。
 河原貴秋は財団に提供するべき研究成果を、断りもなく持ち出したのだ。
 ケビンの苦悩はそこから始まった。
 研究成果には既に報酬が決められていた。無事に契約がなれば、その一部はケビンの懐にも入る。そして、ケビンにとっては、その報酬が妹のヘレンを救う命綱でもあった。
 ヘレンの命を繋ぎとめる為には、財団との契約は果たされなければならない。彼女の病状にも、余裕があるわけではなかった。この機を逃せば、ヘレンの苦痛は長く続く。
 もちろん貴秋は、ケビンに架せられた一族の仕打ちを知っていた。ケビンがどれほどの思い入れで研究に打ち込み、共に成し遂げたのかも知っていたのだ。
 しかし、貴秋は全てを裏切って、研究成果と共に姿を消した。
「ヘレンは、貴秋を憎んでいないの?」
「……私は、憎めないわ」
 ヘレンは兄を裏切った貴秋に対して、憎しみを抱いていない。穏やかに、まるで彼の行く末を案じているようにも見える。桂花には、それが腑に落ちない。
 貴秋の犯した罪は、ヘレンにとっては命にも関わるほどの大逆だったと言っていい。恨んだり憎んだりすることが当然のように思えた。
「私はこうして回復したし」
「あなたは優しいわね、ヘレン」
「そうじゃないの」
 ヘレンは兄と同じ紺碧の瞳で桂花を見た。何かを堪えるような眼差しだった。
「仕方がないの。可哀想だから」
 ヘレンはそれきり沈黙する。意味が繋がらず、桂花が一人であらゆる憶測を追いかけていると、ふと彼女が口を開いた。組み合わせたヘレンの白い手は、心なしか震えている。
「退院も近いし、桂花には話しておくわね」
 あまりに緊張した声音に、桂花は危惧を抱いた。わずかに動悸を感じる。
 ヘレンの打ち明けた真実。
 桂花の辿るべき道は、その時に決まってしまった。


 千春が呼ぶと、仕事部屋に篭っていても、貴秋はすぐ部屋を出て来てくれる。
 極端に千春に室内を見られることを拒んでいることもなく、部屋の中を見せてくれたこともあった。彼が出入りする時には、常に室内を垣間見ることができた。
 仕事部屋は、いつでも足の踏み場がないくらいに雑然としている。様々な部品が散乱していた。片隅には機械の端末のようなものがあり、画面上には難しい設計図が描かれていたりする。
 眺めてみたところで、千春にはわからない。そんなふうに室内を明かされると、興味や好奇心に悩まされることもなくなった。
 千春が目覚めてからは二ヶ月以上が過ぎている。
 ボディガードのシズカとは、ほとんど会うことがない。二週間に一度くらいの間隔で、食料や、依頼した品などを運んでくるだけである。
 千春は、近頃やっと家政婦役が板についてきた。
 目覚めた時は行き場のない一心で、料理ができると豪語したものの、記憶していた献立は、あまりに貧相だった。思わずシズカに料理のレシピを依頼したほどだ。
 他にすることもないので、毎食、時間をかけて料理に取り組んだ。貴秋が満足してくれると、それが嬉しくて楽しかった。
「よしっ、完成」
 千春はいつものように食事の用意を整えて、貴秋の所在をさがす。目の届く位置に姿がないことに気付くと、廊下へ顔を出して、一階の奥にある彼の仕事部屋へ声をかけた。
「先生、そろそろ昼食にしませんか」
 かつて診療所であった家屋は部屋数が多い。千春は家を綺麗に保つくらいのことでしか役に立てないので、使われていない部屋も毎日のように掃除をしていたが、二人が使用している場所は限られている。
「お昼ご飯ですよ」
 彼は呼びかけに応じて奥の部屋から現れるはずだが、今日に限って、しばらく見守っていても扉の開く気配がしない。
「先生?」
 声が届いていないのか、何かに夢中になっていて聞こえていないのか。千春は廊下を進んで奥の部屋の前へ辿り着くと、扉を軽く叩いてみた。
「先生、ご飯にしましょう」
 中からの反応を待ってみても、音沙汰がない。千春は迷ったが少しだけ扉を開けて中の様子を見る。もし彼がうたた寝をしていたら、風邪をひくかもしれない。あるいは気分が悪くなって倒れているのかもしれない。
 一瞬の間に様々なことを考えて、少し不安な面持ちで部屋を覗いたが、貴秋の姿はなかった。千春は吐息をついて、扉を閉ざすと踵を返した。
 普段の生活で、貴秋が行き来する場所は限られている。一階では、台所から続いた食卓のある部屋と居間。そして、奥にある仕事部屋に、千春の使っている部屋。
 二階は一階ほどの部屋数がないが、貴秋の私室があった。寝台と棚があるだけの殺風景な部屋で、出入りは快諾されている。千春は掃除の度に足を踏み入れていたが、自由に出入りを許されていても、個人の部屋なのだ。仕事部屋と同じように、必要以上に近づかないようにしていた。
 一階のお決まりの場所にいないとなると、二階にあるその私室しか考えられない。
 千春は階段を上がって、貴秋の部屋の前で立ち止まると、軽く扉を叩いた。
「先生、ここにいるの?」
 室内からは反応がない。閉ざされたままの扉をしばらく眺めてから、千春はそっと中を覗いた。
 部屋の片隅にある寝台で、貴秋は無防備に横になっていた。眠り込んでいるようで、傍に寄っても目覚める気配がない。
「疲れているのかしら」
 自分のような素性の知れない人間と暮らしているのだから、無理もないのかもしれない。
 千春は申し訳なく思いながらも、初めて見る彼の寝顔を見つめた。
 胸の内から、切なく、温かい想いがこみ上げてくる。彼と過ごす間に、こんなふうに甘い毒が巡るような想いを噛みしめたのは何度目だろう。
 胸の詰まるような、泣きたくなるような気持ち。
 直後、きまって許されないことなのだと言い聞かせる。
 この人を好きになってはいけない。
 一見、平穏に見えるこの生活は、どう考えても不自然で、普通ではないのだ。
 千春は自分の曖昧な立場を忘れないように、何度もそう繰り返し、胸に刻んだ。それでも、こみ上げる想いに蓋をしてしまうことが出来ずにいる。
 瞳を閉じている貴秋の寝顔は無邪気で、千春は起こすのがためらわれた。食事は起きてからでも遅くないだろう。あまりに気持ち良さそうに眠っているので、そのまま部屋を出ようとした。
「――っ」
 扉に向かってそっと踏み出すと、つま先の辺りに何か小さな塊が触れた。何かを踏んづけてしまったと焦って、咄嗟に横に避ける。千春は貴秋が起きてしまわないかと寝台の人影を確かめた。
 目覚める様子はなく、小さく息をつくと、千春は改めて足元に転がっている物を見た。
 落ちていたのは指輪だった。小さな銀色の環に、澄明な石が煌いている。千春は竦むような思いに捕われて、すぐに身動きできなかった。
 それは紛れもなく、婚約の証として愛しい女性に贈る品なのだ。知らずに唇を噛みしめて、千春はそっと拾い上げた。環の内側には、――貴秋から千春へ――と文字が刻まれている。
 自分に与えられた名は、彼の婚約者の名前。
 胸の中を埋め尽くす、この激しい痛みはどこからやってくるのだろう。
 貴秋と本当の千春の間に、どのような事情があるのかはわからない。どちらにしても、貴秋には将来を誓うほど心に決めた女性がいるということなのだ。
(今さら、落ち込むことなんてない)
 強く唇をかみしめて、千春は沈んだ気持ちを励まそうとする。彼と自分の間には、いずれ別れがあるだけなのだ。記憶が戻るまでの間、ここに居候させてもらっているに過ぎない。
 記憶喪失の患者と、片田舎に住む医者。それだけの繋がりだ。
 千春はもう一度、寝台の貴秋を見た。幸せそうで無垢な寝顔。愛しい彼女との想い出を、夢の中で追っているのだろうか。
 投げ出された左腕。その手に握りしめていたのだろう指輪が、掌から零れ落ちたに違いない。
 千春が寝台の傍らに視線を移すと、小型照明に隠れるような位置に、小さな箱があった。
 婚約指輪に相応しい端整な作りだ。疑いようもない。
 彼の切なくなるほど、優しい眼差しの意味。
 千春は辿り着いた答えに耐えるため、かたく目を閉じた。
 彼はいつでも自分を通して、愛した女性を見ていたのだ。千春と呼ぶ時の声の穏やかな響き。自分に向けられた必要以上の優しさは、全てが本物の千春に向けられた想い。
 千春と名づけてくれた時に、大切な人の名であることは気づいていた。けれど、こんなふうに、突きつけられると辛い。
 目覚めた直後とは、貴秋に対する自分の気持ちが変わっている。あの時は、千春と口にすることで彼が満たされるのなら、それで良かった。千春という人の身代わりでも、その立場を受け入れることが出来たのに。
 今は違う。
 彼の心の中に住む、本物の千春が妬ましい。身代わりである自分の立場が、苦しくてたまらない。彼があまりにも優しくしてくれるから、いつの間にか都合の良い夢を見ていたのだろうか。
 あれほど好きになってはいけないと、繰り返し想いを戒めていても。
 既に手遅れだったのかもしれない。
 この暗い痛み。
 どんな言い訳もできないほどに、彼のことを好きになっていたのだ。かたく目を閉じていても、涙が溢れそうになる。
(私は、――莫迦だわ)
 記憶を失ったままで、誰かを好きになっていいはずがない。
 彼の優しさの裏側には、自分ではない千春がいる。そんな事情を抜きにしても、彼が自分を好きになる筈などなかったのだ。
 千春は泣きたくなるのを堪えて、箱を手にとった。貴秋を起こさないように注意しながら、指輪をしまって元の位置に戻す。
 部屋を出ると、こらえ切れずに涙が溢れ出た。既に見慣れた家屋の廊下が、ぼやけて滲む。逃げ場のない哀しみに包まれて、千春はひたすら声を殺して泣いた。


 貴秋が居間に姿を現したのは、一時間ほどが経ってからだった。千春は泣き濡れた瞳に気付かれないように、できるだけ貴秋と目を合わせないように振舞う。
「先生、起きた?ご飯にする?」
 居間から一続きの部屋に食卓と台所がある。貴秋はこちらに向かいながら苦笑した。
「ごめん。寝ていたよ」
「先生が謝ることなんてないわ。私、先にすませてしまったし」
 本当は胸が塞いで何も口にできなかったが、千春は明るく嘘をつく。改めて昼食の支度を整えた。
「どうぞ」
 食卓に並べた料理を勧めてから、不自然にならないように、彼に背中を向けてもう一度鍋に火をかける。
「こっちもすぐに温め直すから」
 貴秋は「ありがとう」と言って、寝起きの気だるげな動作で食卓の椅子にかけた。
「起こしてくれても良かったのに」
「だって、疲れているのかと思って」
 答えながら、千春は指輪を片付けてしまったことを思い出す。彼は箱にしまわれた指輪に気付いているだろうか。千春は火にかけた鍋に向かっていて、背後の食卓にいる貴秋の様子が読めない。振り返って泣き腫らした顔を見られるのも嫌だった。
「あっ、美味しい」
 後ろで貴秋の屈託のない声がする。どうやら、箱にしまわれていた指輪について、自分を疑う気はないようだった。指輪の存在を知られても、見られる事があっても構わないのかもしれない。部屋への立ち入りを許しているということは、彼には隠す気がないということなのだろう。
「良かった。そう言ってもらえると、居候としては嬉しい」
「千春は居候じゃないよ。僕の方が世話をかけているんだから」
「先生はここの主だから。じゃあ、私は家政婦さんね」
 千春はどうやって顔を見せずにこの場を切り抜けようかと逡巡する。鍋の中は、とうに沸点に達して野菜が踊っていた。
 どう考えても顔を見せないのは不自然だ。火を止めて器に装いながら、千春は泣いてしまった理由を捏造しようと試みる。
「はい。これもどうぞ、先生」
 コトリと汁物の入った器を彼の前に置く。予想通り、貴秋は傍らに立った千春の顔を見た。すぐに浮かべていた笑みが退く。
「どうしたの、千春。泣いていたの?」
 想像していたよりも真摯な眼差しを向けられて、千春はうろたえてしまう。
「どこか痛いの?それとも、気分が悪くなったとか」
 貴秋は今にも立ち上がりそうな剣幕で問い詰める。余裕のない彼の様子に、千春はどのように反応していいのかわからなくなってしまう。
「千春?」
「あの、何でもないの」
「そんなに泣き腫らした顔をして、何でもないわけがない」
 思いがけず叱咤までされて、千春は自分の部屋へ逃げ込みたい気持ちになった。下手な嘘は通じない気がしたのだ。だからと言って、本当のことを告白することもできない。
「千春、僕に気をつかわなくていいから。苦しい事があるなら、打ち明けて」
「その……私、――時々、とても不安になるの」
 何とか言葉を搾り出した。それは嘘ではない。目覚めてから、ずっと胸の内に抱えていた。自身の過去について、これからについて、考えると常に恐ろしい想像をしてしまう。
 記憶を取り戻すことも、怖かった。
 言葉にすると、不思議とそれが悲しみの本当の理由であるような気になる。
 貴秋は、深く澄んだ眼差しで真っ直ぐにこちらを見つめている。少し長めの前髪の合間から、凛とした瞳が覗いていた。
 千春の告白を聞いて、ゆっくりと表情が動く。まるで千春の痛みが伝わったかのように、哀しげな顔。
 ああ、と千春は思う。彼は自分を独りぼっちにしない。常に胸の痛みをわかってくれようとする。目覚めたときから、彼の傍で過ごすことが心地よかったのは、そのせいだ。
 ただ、彼の優しさが染みる。守られた日々。
 そして、それが自分の知らない千春への気持ちだと思うと、苦しかった。
「ごめんね、千春」
 顔を伏せて、彼は詫びた。
「僕では、君の力にはなれないんだね」
 千春は再び涙が零れ落ちそうになったが、歯を食いしばってこらえた。自分の身勝手な思いに傷つくのは、自分だけでいい。
 落ち込んだ彼の顔を見ているのは嫌だった。貴秋まで巻き込むことはない。
「先生のせいじゃないわ。先生は何にも悪くないもの」
 わずかに声が震えてしまったが、千春は何とか笑って見せた。
「私、目覚めたのがここで良かったって思っているの。先生には感謝している。だって、ここで過ごすのは楽しいし。先生ってば、一人では何もできないから。よく今まで一人で暮らしていたなって思う」
 うまく笑えているとは思えない。けれど、貴秋も同じように微笑んでくれた。
「千春が起きるまでは、人の住む家じゃなかったね。君がいてくれて、本当に助かっているよ」
「そう言ってもらえると、すごく気が楽になるわ。家事は私に任せていてね」
 家政婦のような働きが彼を助けている。千春はそう思い、多くの物思いを振り払って自身の立場を確認していた。
「先生、せっかく温め直したのに冷めちゃう」
「ああ、うん」
 貴秋は促されて、再び食事をはじめた。箸を進めながら、小さな声で告白する。
「でも、さっき僕が言ったのは、そういう意味じゃない」
「え?」
 何のことを言っているのか、千春にはすぐにわからなかった。貴秋は箸で汁物を掻き回した。
「千春がこんなふうに食事を作ってくれたり、過ごしやすいように家を片付けてくれたり。もちろん、そういうこともすごく助かっているよ。君と……」
 言いかけた言葉を、貴秋はなぜか最後まで口にしなかった。自嘲的に笑って、千春を見る。
「誰かとこんなふう過ごせることが、僕にとっては夢のような生活なんだ」
 その言葉から想像できる彼の立場は、千春が思っていた以上に過酷なものなのかもしれない。なぜ、独りきりでこんな所にいるのか。はじめの疑問が浮かび上がってくる。
 それを問うことは、千春にはやはり出来なかった。どこかにいるだろう本物の千春と共にいられないことにも、繋がっているのだろうか。
 彼女に贈るはずの指輪を眺めては、想いだけを確かめる日々。千春は勝手に思い描いた想像に、切なくなった。そして、それは間違えていないような気がした。
「君が目覚めてくれたから、僕は覚悟ができた」
「覚悟?」
 彼の語ること。その筋道が千春には理解できない。彼がここにいる、それまでの経緯を知らないからだ。
「先生は、どうしてこんな所に独りでいるの?」
 彼の痛みを理解したかったのかもしれない。千春は取り残された気がして、思い切って問いかける。貴秋は口を閉ざして、千春から視線を逸らす。
「ごめんね、それは言えないんだ」
 答えてはくれないと分かっていた。彼の秘め事に触れる資格が、千春にはない。踏み込むことは許されない。それを思い知るのが嫌で、ずっと聞かずにいたのだ。
 本物の千春なら、彼の全てを知っているのだろうか。じわりと、胸の底にある闇が、深さを増したような気がする。
「目覚めない君を見ながら、考えていたよ。もし、君が目を覚ましたら、僕は二度と自分の犯したことについて、後悔しないでいようって。誰に責められても、それが正しかったと、そう思っていようと決めた。――そして、千春は目を覚ましてくれた」
「そんなことで感謝されても。私は、何もしていないのに」
「うん。これは僕の勝手な迷いだね。だけど、どこにも出口がなくて苦しかったから。何でもいいから、気持ちを立て直すきっかけがほしかったのかもしれない」
 貴秋は他愛無いことのように、自身の葛藤を言葉にして、ただ笑った。千春には、彼の物思いを理解する術が与えられていない。
「だからね、ありがとう。千春」
 それでも、彼が今の生活を楽しみにしてくれるのなら、それだけでいい。彼の背負う何らかの苦しみ、それを少しでも和らげることが出来るのなら。こんなふうに笑っていてくれるのなら。
 自分がここにいること。その理由があればいい。
 それ以上を望むのは、贅沢だ。身に余る想いは、ずっと胸にしまっておけばいい。
「何もしてないのに、お礼を言われても困るわ」
「それもそうか。だけど、千春には言っておきたかったんだ」
「――うーん、まぁ、悪い気はしないけど。そうだ、先生。食後のデザートに林檎を剥くわ」
 千春は保管してあった林檎を取り出して、食卓の椅子にかけた。貴秋の向かい側で林檎を切って、ゆっくりと包丁で皮を剥いた。
「この前、シズカが箱ごと持ってきたの。二人でどうやって食べるのっていう量なんだけど。先生はアップルパイとか焼いたら、食べてくれる?」
「もちろん」
 貴秋は口に卵焼きを頬張りながら答える。
 その時。
「――っ」
 包丁の刃が、わずかに左手の親指に触れる。千春は少しだけ指を切った。血が出て小さな珠になったかと思うと、重みに耐えられず、すぐに下へと流れた。タッと食卓の上に、赤い雫が落ちた。
「千春、指!」
 貴秋の反応は早かった。すぐに千春の手をとって、近くにあったもので傷口を抑える。
「救急箱を持って来るから。そうやって傷口を抑えていて」
「大したことないのに。血なんてすぐ止まるし」
「黴菌が入って化膿したらどうするの?」
 貴秋はものすごい勢いで食卓を離れると、姿を消した。千春はぼんやりと傷口を抑えていたが、そっと外して眺めた。既に血は止まっている。
「――先生は、優しすぎるわ」
 だから、分不相応な期待をしてしまう。
 千春は深く息をついた。
 布地に含まれた血の赤が、鮮やかな染みを描いていた。


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