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楽園の愚者達

第二章

 彼女はベッドの上で、手鏡を覗きこんでいた。自分の顔を見れば、何かしら記憶のヒントがあるのではないかと思ったからだ。
 鏡には少しばかり頬のこけた女の子が映っている。
 美醜はともかくとして、見覚えがあるとは言えなかった。
 年の頃は貴秋と同じ位だろう。髪は短めで、島国と央国に多い黒髪だ。瞳も黒い。
 どちらも真っ黒とは言えず、髪は光に透けると赤茶で、瞳も琥珀の色を湛えている。
 それでも才国や陸国の人々にある金髪碧眼や褐色の髪色にはほど遠い。
 目覚めてから、貴秋と話していたのも島国語だった。才国語にも知識があるようだが、彼女の中でもっとも自然に出てくるのは島国語のようである。
 どうやら島国の出身であることは間違いなさそうだった。
 彼女は鏡を見つめたまま、自分の髪に指を伸ばした。 
 髪は肩にかからない長さだが、不自然で綺麗に揃っているとは言えない。彼女は手串で何度も梳いたが、効果はなくおさまりがつかなかった。
 一ヶ月の昏倒を差し引いても、この髪では身ぎれいな女の子だったとは思えない。胸の奥で、自分が何者なのだろうという恐れが蠢いた。
 眠りから覚めたけだるさが退くと、彼女はある言葉を思い出したのだ。どこで聞いたのか、誰の言葉なのか、懸命に考えても自身の手掛かりには繋がっていかない。
 自身の過去に連なる言葉であるのか。それとも、単に夢の中で作り上げられた幻想にすぎないのか、わからない。ただ彼女は恐ろしかった。
 手の届く棚の上に、そっと手鏡を置いた。胸が苛まれる思いがする。
 気を逸らそうとしても、何か事件に関わっていたのだろうかと、不安がこみ上げて来た。
「お待たせ」
 嫌な気持ちを払うようなタイミングで、貴秋の声がした。彼は食事を用意していたらしい。手にした器から、湯気が昇っていた。
「お腹が空いているはずだから。手はじめに、まずこれ」
「ありがとう」
 与えられた食事は重湯だった。気持ちが塞いで喉を通らないと思ったが、何も食べていないのだと思うと、彼女は突然空腹を感じた。
「お腹が空いていると、気持ちも暗くなるから」
 まるで彼女の胸中を見透かしたように、貴秋がそんなことを言った。それほど暗い顔をしていたのだろうかと、彼女が視線を伏せた。
「そうね。いただきます」
 手渡された重湯を口に含む。味のないそれが、ただ沁みるほどに美味しい。
 点滴だけの生活は、すっかり彼女から体力を奪っている。
 ベッドを降りようとして立ち眩み、すぐに貴秋に止められたのだった。
「それにしても。名前も思い出せないのは、困ったね」
 ゆっくりと食事を進める記憶喪失の患者を前に、貴秋が腕を組んだ。彼女は申し訳ない思いがして、彼を見つめた。
「君のことを、何て呼んだらいいのかわからないから」
「――ごめんなさい」
 彼女にはどうしようもないことだ。名前を思い出せるものなら、思い出したい。
 うなだれた彼女を見て、貴秋が慌てたように続けた。
「あの、違うんだよ。僕は別に責めているわけじゃなくて。その、少し提案があって」
「提案?」
 不思議そうな眼差しで、彼女が貴秋を見つめる。
「ここにいる間だけでも、君の名前を決めておこうと思って。……嫌かな」
 まるで叱られた子供のように、貴秋は上目遣いにこちらの様子を窺っている。どこか微笑ましくて、彼女は思わず笑みが漏れた。
「ううん。私もその方がいい。だけど、名前と言われても、どんな名前を?」
「千春」
 あまりに迷いがないので、彼女は反応が遅れた。
「あ、いや。千春なんてどうかなって。気に入らなかったら、別にいいけど」
「それは、……誰か、あなたの知っている人の名前?その人に私が少し似ているとか?」
 彼の命名があまりに素早いので、彼女はそんな憶測をしてしまう。何の下地もなく、すぐさま考え出したとは思えない。
「似ているとかじゃないけど。まぁ、知っている人の名前かな」
 貴秋は少し照れたように、俯いて視線を泳がせている。
「大切な人?」
 少しだけ興味を感じて詮索すると、貴秋はふっと彼女に視線を戻す。質問には答えず、困ったように笑っただけだった。
「とても綺麗な名前で好きなだけ。千の春なんて、何だか幸せそうだから」
「―――素敵な名前ね」
 彼の優しげな口調から、きっと大切な人の名前なのだと感じ取れた。彼がその名を呼ぶことで満たされるのなら、それでいいだろうと思えた。
 これまでの、ささやかな恩返しだ。
「私、千春でいいわ」
 笑って見せると、貴秋も「良かった」と笑った。
 彼女――千春は、すっかり冷めてしまった重湯を再び口に運ぶ。
「それ、口にあうかな。本当はもっと美味しいものが用意できればいいんだけど。千春には久しぶりの食事だから」
「ううん。とても美味しい」
 千春は覚悟を決めて貴秋を見た。重湯を食べ終えると、たしかに元気が出たような気がする。
 とにかく今の状態で、自分が頼れるのは彼しかいないのだ。
「あの、一つだけお願いがあるんだけど」
「ん?どうしたの?」
 警戒する様子もなく、彼は優しげな目で千春を見つめている。
「私を、このままここに置いてほしいの。せめて、記憶が戻るまで。その代わり、体力が戻ったら家のことはするし。掃除でも、洗濯でも。こう見えても、私、きっと料理くらいは出来ると思うの」
 彼はゆっくりと、千春の手から空になった器を取り上げる。何かを考えているようだ。それは無理もない。けれど、ここで彼に見放されると、千春には行く場所がない。
 今も思い出した言葉だけが、脳裏に刻まれている。
 千春が緊張した面持ちで見守っていると、貴秋は拍子抜けするほど簡単に答えを述べた。
「いいよ」
「本当に?」
「だって、君は自分のことを思い出せない記憶喪失の患者だし。僕はこう見えても医者だから」
 もっともな理屈であるような気もしたし、強引な理由である気もする。千春にとっては、どちらでもいいことだ。
「良かった。ありがとう」 
「僕ははじめからそのつもりだったよ。だから、君に名前をつけてみたわけだし。―――だけど」
 貴秋の声がわずかに低くなる。千春が緊張を取り戻すと、先を続けた。
「僕がここにいるのには理由があるんだ。君は決して、それを詮索しないこと」
 それは警告だった。真剣な眼差しを向けられて、千春はコクリと喉を鳴らす。
「――わかったわ」
 貴秋があれほどの経歴を持ちながら、こんな辺境の土地で独りきりでいる。千春がはじめに感じた違和感は間違っていなかったらしい。彼には、やはり何か理由があるのだ。
 思い返すと、「表向きは診療所」だと言っていたような気がする。本職は別にあるということだろうか。
「そんなに心配しなくてもいいから」
 千春はハッとして、かけ巡る推測を胸の奥にしまいこむ。貴秋は苦笑を浮かべた。
「例えば、もし僕が悪人だとしても、君を巻き込んだりはしない。何かあっても、絶対に君だけは守ってあげるよ。約束する」
 腕を伸ばして、貴秋は小指を立てて見せた。島国では、誰もが幼い頃から知っている仕草だ。誰かと何かを約束するときに行われる指きり。
 千春は何も言えずに、彼の小指に自分の小指を絡ませた。
 子供じみたやり方なのに、言葉で説得されるより、千春にはこの約束が胸に響いた。
 優しい人だ。正体の知れない自分を不安にさせないように、気を配ってくれている。
 独りきりで、ひっそりと過ごさなければならない理由を抱えているのに、貴秋は嫌な顔一つしないのだ。この約束を疑う気にはなれなかった。
 秘め事はお互い様だが、貴秋は身の安全を約束してくれたのだ。
 千春は全てを打ち明けていない自分が、卑怯でたまらなくなる。
 これから、もしも貴秋を危険な目にあわせることになったら、後悔するだろうか。
「千春、本当に例えばの話だからさ。そんなに怖がらなくてもいいんだってば」
 貴秋は気づかうように千春を見ている。自分の言い方がまずかったのかと、うろたえているようだった。
「怖いのは、あなたのことじゃないの」
 千春は自嘲するように笑う。もし自分が逃亡者で、貴秋を巻き込んでしまったら。
 間違いなく、千春は後悔するだろう。彼がもっと無愛想な人間だったなら、こんな罪悪感もなかっただろうか。
 秘めておくことが出来ず、ゆっくりと貴秋に告げた。
「私、少しだけ思い出した言葉があるの。それが誰の言葉で、いつどこで言われたのかは分からないけれど」
 貴秋がすっと表情を引き締めて千春を見た。
「――どんな言葉を思い出したの?」
「『僕のことを許して』って。それから、『死なないで、生きていて』、『諦めないで』って。そんな言葉を覚えているの」
 彼は少しも表情を動かすことなく「他には?」と聞いた。千春はただ横に首を振る。
「私、死なないでって言う言葉を思い返すと、自分が生きていてはいけなかったと強く感じるの」
「どうして?」
「それは――理由は、わからないけれど」
 しばらく沈黙があった。やがて貴秋が「そっか」と呟いた。
 千春は不安になって、もう一度、彼に確かめてしまう。
「こんな私でも、本当にここに置いてくれるの?もしかしたら、私は何かとんでもない事件に関わっているのかもしれない。あなたのように、安全を約束したりできないのに」
 不安を吐き出すと、貴秋はその剣幕に驚いたように目を見開いた。
「まぁ、落ち着こう、千春」
 大したことではないという態度を装っているのか、貴秋は冷静だった。
「君を拾ってからのこの一ヶ月、別に何も起きなかった。こんな田舎だしね」
「――だけど」
「とにかく、記憶が戻るまでは療養するしかない。君が自分のことを思い出さないと、何もはじまらないよ」
 大らかな神経の持ち主に、千春は呆気に取られた。救われたと言ってもいいのかもしれない。自分が大袈裟に考えて過ぎているだけなのかと思えてくる。
「千春は優しいね」
 ふいに貴秋が優しい目をして笑う。千春は首をかしげた。
「だって、自分のことより、僕のことを心配してくれたんだろう?だから、千春は絶対に、悪い子じゃないよ」
 貴秋は嬉しそうに笑っている。変わらない無邪気な態度に、千春は張り詰めていた気が緩んだ。じわりと目頭が熱くなる。俯くと、シーツにパタリと涙が落ちた。
 それで一気に狼狽した貴秋の様子が、すぐに伝わってくる。
「ち、千春。どうしたの?」
「――何でもないの。気が抜けただけ」
 泣き笑いの顔を上げると、貴秋がほっと胸を撫で下ろした。
「驚いた」と呟くと、そのまま悪戯っぽく笑う。
「事情があるのはお互い様だから。気楽に行こう」
 頷くと、千春は涙を拭ってベッドの上で背筋を伸ばした。
「先生、しばらくお世話になります」
 きちんと挨拶をして、その場で深く頭を下げた。



 広くはない病室で、ヘレンは窓から差し込む光に目を細めた。エデンの一角にある病棟の一室である。兄のケビンは、勤めている研究棟からは少し離れた位置にある病棟に、休憩時間を利用してよく顔を出した。
 妹の見舞いに来ていたケビンが、そっとカーテンをひく。ヘレンを照らす昼過ぎの陽光が、柔らかく遮られた。
「ありがとう、兄さん」
 ベッドに半身を起こした状態で、ヘレンが呟いた。ケビンは頷いて、傍に用意された椅子にかける。
 ヘレンの骨髄移植は無事に行われた。経過も良好で、今までの苦痛が嘘のように回復に向かっている。先日、一般病棟の個室に移ったばかりだ。病室の片隅に積まれた見舞い品を、ケビンは忌々しげに振り返った。髄液に法外な値をつけたウォーレンサー家からの品である。二人にとっては血を分けた叔父ではあるが、これを機に今度こそ縁を切り、生涯疎遠を貫くつもりだった。
 一族に適格者があったため、ヘレンが命を落とさずに済んだことには感謝している。しかし、その恩義を差し引いても、これまでの一族の仕打ちは償えるものではない。
「兄さん、そこの林檎をとって」
 見舞いの品に、果物の詰まった花籠があった。ケビンはためらったが、妹がしつこく要求するので、仕方なく手に取った。
「食べる気なのか?毒が入っているかもしれない」
 林檎を手渡しながら、ケビンが悪態をつく。ヘレンは兄と同じ紺碧の瞳を細めて、くすくすと笑った。
「林檎に罪はないわ」 
 副作用によって抜け落ちていた金髪が、生え揃ってきている。日ごとに元気になる妹の姿が、ケビンには眩しかった。彼女はベッドの横につけられた棚の抽斗から、小さな果物ナイフを取り上げた。白い器を受け皿にして、林檎にナイフを入れる。
「私はこうして一命をとりとめた訳だし。どんなに薄情でも、守銭奴でも、それだけは叔父さんに感謝する」
「ヘレンは優しいな」
「そうかしら。だって、私はこれからも生きて行けるのだもの。それだけで、どんなことでも許せる気がするの」
 ケビンには返す言葉がない。幼いとばかり思っていた妹が、いつのまにか隣に肩を並べている。病に伏しながら、彼女はずっと葛藤していたのだろう。兄の自分よりも深いところを彷徨っていたに違いない。諦めないと強がりながらも、自分の命を諦める瞬間があったのかもしれない。
 胸をつかれて、ケビンは思わず目頭が熱くなった。たしかに、今こうして妹と語り合える幸せは、何ものにも変えることはできない。
「そうかもしれない。――本当に、よかった」
 ケビンの中に、心の底から込み上げてきたものがあった。ヘレンは器用にリンゴの皮を剥きながら、兄の漏らした言葉を噛みしめていた。
「ヘレン、元気?」
 白衣を来た若い女が、ためらうことなく病室へ入って来た。兄妹でしんみりとしていた空気が、華やいだ雰囲気を取り戻す。
「桂花、私はご覧のとおりに元気よ」
「その調子だと退院もすぐね」
 そう言って明るく笑う女は、王桂花である。四大国に数えられる央国の出身で、女性にしては背が高く、長い黒髪をいつも一つに束ねている。ケビンと同じで研究棟に勤め、エデンのセカンドラボに属していた。
 央国には生塾という生薬を専門分野とする組織がある。古から植物の精製に長けており、多くの生薬を生み出して来た。昨今は医療方面にも進出をはかりつつある。
 エデンのセカンドラボは、義臓器を開発するトップラボとは異なり、薬剤の開発が主な研究内容だった。桂花は生塾での知識を乞われて、エデンに招かれた。
 ヘレンを介してケビンと出会い、二人は付き合っていた時期もあったが、長くは続かなかった。恋人という束縛よりは、友人という気ままな距離感を選んだ。
 あっさりと二人の関係は破綻したが、今も友人として親しい。
 桂花は二十歳のヘレンとは七つも年の差があるが、まるで姉妹のように気が合うらしく、病棟をよく訪れた。
「はい、これ。私からもお見舞い」
 桂花が暇つぶしのためにと、ヘレンに最近の話題作である小説を手渡した。彼女が桂花に与えられた書籍は、もう二桁になろうとしている。
「いつも、ありがとう」
「どういたしまして」
「良かったら、これをとうぞ」
 ヘレンが食べやすい大きさに切った林檎を、桂花に差し出す。彼女は遠慮することなく一つを手に取った。ケビンが立ち上がって、桂花に椅子を譲る。彼は腕時計に目をやって、吐息をついた。
「俺はそろそろ戻るよ」
 ヘレンが兄を見上げて「頑張ってね」と声をかけた。
 財団との契約延期という失態からは一ヶ月以上が過ぎた。トップラボに課せられた謹慎はとっくに解けている。
 ケビンは妹に「ああ」と答えたが、その様子を見守っていた桂花には以前の覇気がないように見えた。頬張っていた林檎を呑み込んで、思わず問いかけてしまう。
「どうしたの、ケビン。元気がないわね」
「そんなことはないよ」
 彼は取り繕うように笑みを浮かべた。妹のヘレンが回復してゆく様を目の前にして、どうにも納得がいかない仕草だ。ヘレンを振り返ると、彼女も気遣うように兄を見つめている。桂花はすぐに一つのことに思い至った。トップラボが財団との契約を延期したのは、施設内では周知の事柄だ。それ以上の事実は漏らされていないが、エデンでは一つの噂があちこちで囁かれている。
 トップラボの研究員が、私欲のために研究内容を持ち出したという噂だ。
 簡単に口にしていいことなのか迷って、桂花はじっとケビンの顔色を窺ってしまう。彼はその若さで、トップラボの第一班に席を置く。施設内でも一目おかれているチームの一員なのだ。契約の延期についての真実も、彼ならば知っているのだろう。
 しかし、トップラボの手の内は部外者に漏らされることはない。付き合っていた頃でさえ、ケビンは機密に対しては頑なに口を閉ざした。桂花が気安く聞いたところで、彼は答えてくれないだろう。答えてはいけないはずなのだ。
 わかっていたが、桂花は思い切って口にした。
「最近、貴秋の姿が見えないことに関係があるの?」
 ケビンは無表情を演じていたが、わずかに緊張が走ったように感じた。
「俺には関係がない」
 素っ気無く答えて、ケビンは病室を出て行った。やはりおかしいと桂花は思う。トップラボの第一班は、四人のチームだ。ラボの責任者であるクロード=スタンリー。次席の菱川涼。そして、ケビンと河原貴秋。彼らの信頼関係は揺るぎないものであるらしく、またケビンと貴秋は仲が良かった。
 桂花も二人が笑いながらやりとりしているのを頻繁に目にしていたし、それは普通の青年同士の仕草で微笑ましいものだった。
 けれど、最近は貴秋の姿を見かけた記憶がない。
 噂はそこから端を発しただけなのだろうか。真実はわからない。
 関係ないと答えたケビンの横顔の暗さが、桂花の胸に刻まれる。
「やっぱり、あの噂は本当なのかしら」
 ヘレンに聞こえるように、わざと桂花が呟いた。彼女なら、兄から真相を聞かされていてもおかしくはないと思ったのだ。ヘレンは吹聴されている噂を知っているのか、ゆっくりと桂花の方を見る。とても哀しそうな顔をしていた。
「兄さんも、苦しんでいるんだわ」
「どういうこと?」
「きっと、信じることが出来ないのよ」
 ヘレンの言葉は要領を得ない。桂花が聞いても、ただ横に首を振るだけだった。
「とても可哀想なの」
「ケビンが?」
 ヘレンは答えず、まるで南の海を模したような瞳から涙を零すばかりだった。



 千春が目覚めてから、一ヶ月以上が過ぎた。動けるだけの体力を取り戻してからは、貴秋との約束通り家事をこなすことにした。
 木造建築の建物は二階建てで、相当に年季が入っている。診療所であったせいか部屋数も多い。得体の知れない器具もたくさんあった。
 そのどれもが埃をかぶっている。ここが診療所としての役割を果たしていないのは、すぐに知れた。やはり、貴秋の本職は片田舎の町医者ではないのだろう。
 彼は千春に一部屋だけ立ち入りを禁じた部屋があった。仕事部屋だと説明があったが、それ以上は詮索できなかった。それが、ここで過ごすための規則なのだ。
 千春は邪推をすることを、自分で禁じた。貴秋の言いつけを破らずに、とにかく家の大掃除をすることに決めた。
 必要のない部屋は閉ざしたままだったらしく、大変な有様になっていた。せっかくの庭も荒れ放題で、一体どこから手をつければいいのか分からないほどだ。
 記憶が戻るまで、どれ位の時間がかかるのかはわからない。明日、思い出すのかもしれないし、十年先なのかもしれない。
 考え出すと不安になるので、気を紛らわせていたかった。
 締め切られたままの雨戸を開けて回る。冬も間近な時期では、晴れていても午前中は気温が低い。肌寒さは、動き回っていると気にならなくなった。
 縁側のある部屋は、そのまま庭に面していた。放置されていた部屋は埃っぽい。畳を剥がして、庭先に立てて並べた。
 空は小春日和で気持ちがいい。家中の窓を開け放して、光と風を通した。
 家屋の主である貴秋も、仕事部屋への立ち入り以外は何も言わない。千春は隅々まで掃除機をかけて雑巾で拭い、一人で好き勝手に片付けた。
 夢中になって片していると、いつの間にか日が高くなっている。昼食の準備にかかる前に、もう一度縁側から庭先へ降りた。畳が倒れていないか確かめようと思ったのだ。
 庭はぐるりと石を積んだ壁に囲まれていて、中の様子を遮っている。
 畳は陽光に照らされて、温かくなっていた。
 千春はもう一度縁側へ戻ろうとして、物音を耳にする。じっと耳を澄ませると、カサカサと草を踏みしめるような音がした。
 千春が出ているのは裏庭のようなもので、門扉から続く庭へは回り込まなければならない。この家屋には、貴秋と自分しかいないはずなのだ。
 自分が目覚めてから今まで、誰かが訪れてくるような気配はなかった。
 鼓動が急に激しくなった。その足音は、貴秋なのかもしれない。あるいは、彼の知り合いなのかもしれない。けれど、もし自分の追手であればどうすればいいのだろう。
 千春は唇を噛みしめて立ち尽くしていたが、出来るだけ足音を殺して気配のある方へ歩いた。家屋の壁に背中を押し当てて、そっと門扉へ続く庭をのぞいた。
 誰かいる。
 人影は貴秋ではない。癖のある長い黒髪が、ゆったりとうねって美しい。肌も白く、女性にしては長身だが、男性にしてはあまりに華奢だった。
 訪問者が女だと分かり、千春は少しだけ気が抜けた。女は両腕で一つの大きな箱を抱えて、迷わず家の扉へと向かって進んでくる。
 物影から見守っている千春とは、五歩の距離もないところまでやって来た。思わず息を殺して窺っていると、女が何の前ぶれもなくこちらを見た。
 ぎょっとして千春が一歩退く。女の動きは素早かった。手にしていた荷物を放り出して、一瞬でこちらへ向かってくる。
「――っ」
 ドタリという箱の落下音を聞いた頃には、千春は女の腕に捉えられていた。強い力で抱きしめられて、身動きがとれない。
「マスターの名を」
 感情のこもらない声は囁きのようだが、よく通る。ゴトリと額に堅いものが当たった。突然の成り行きに、千春はどうすればいいのかわからない。頭に押し当てられたのが、銃口だとわかると膝が震えた。恐怖が競りあがってきて、歯がカチカチと鳴る。
 自分の追手なのか、それとも貴秋と関係があるのか。
 考えはまとまらず、逃れようともがいたが女の細い腕は微塵も揺るがない。
「十を数える間に答えなさい。答えられなければ、足を撃ち抜きます。いち、に……」
「知らない、私。……はなして、いやっ!誰か!」
「ご、ろく」
 額に当てられた銃口が、するりと下される。ゆっくりと自分の腿に押し当てられるのがわかった。
「はなしてっ!誰か、先生っ!助けて」
 金きり声をあげる間にも、女は十までの数を口ずさんでいる。
「はち、く」 
 カチリと充填する音が聞こえた。千春は悲鳴をあげた。
「じゅう」
「いやっ」
 腿に当てられた銃口に、更に圧力がかかった。千春はこの後の展開を思って、堅く目を閉じる。
「捕獲します」
 ドンッと重い衝撃が、腿から千春の全身を駆け巡る。撃ち抜かれた足は、灼熱の炎に包まれたように熱い。それが痛みなのかもわからず、足から全身が焼けつくような気がした。
「ちはる……」
 待ち焦がれた貴秋の声が、遠い。あまりの衝撃に、千春は意識を失った。


(君に、生きていてほしい)
 それは、誰の言葉だったのだろう。思い出せない。記憶を辿っても、真っ白な霧が立ち込めたように何も見えてこなかった。
 生きていてはいけなかった。
 許されない過ち。目覚めれば、罰が下される。
 逃げているだけの自分。
(死なないで、生きていて)
 刻み込まれた、願い。
 それは不安をかきたてるが、同時に、自分ではない誰かがそう願ってくれることは救いでもあった。少なくとも、大切に思ってくれる人がいたという証なのだから。
「撃ち抜いたのが、左足で良かった」
「申し訳ありません」
 近くで声がした。人の気配を感じて、千春は目覚めた。自分の置かれた状況が把握できず、辺りを見回す。見慣れた木造家屋の一室に、二人の人影。
 貴秋と、もう一人。
 新たな人影を見た瞬間、一気にここまでの成り行きが蘇った。
「いやっ」
 怯えて身を起こすと、貴秋が慌てて傍へやって来た。千春の狼狽を静めるように肩に手をおくと、「大丈夫だから」と繰り返す。
「彼女は僕達を守ってくれる。僕の不注意で、千春には怖い思いをさせてしまったけれど」
 女は足音もなく傍に寄ると、千春が身を起こしているベッドの前で膝をついた。顔の作りは端整で美しいが、人形のように無表情だった。
「私の誤作動で、あなたに危害を加えました。申し訳ありません」
 深く頭を下げて、女が詫びる。癖のある長い黒髪が、動作にあわせてはらりと肩から流れた。
 千春は事情が飲み込めず、ベッドに腰かけている貴秋を見た。目があうと、彼は申し訳なさそうに苦笑する。
「本当にごめんね、千春。僕の不注意で痛い思いをさせて」
 負傷している筈の足を確かめると、包帯が巻かれていた。少し力を入れてみたが、痛みは全くない。撃ち抜かれた時の、燃えるような痛みが嘘のようだった。
 麻酔がかかっている様子もなく不思議に思っていると、貴秋が千春の疑問を察したのか教えてくれた。
「あのね、千春の足は撃ち抜かれたわけじゃないんだ。かなりの衝撃があったとは思うけど、怪我の程度としては、ただの打撲だよ」
 千春は思い切って、足を動かしてみた。説明の通り、銃弾が貫通したような大怪我ではないようだ。思わず、大きく息を吐き出す。
 女は寝台の前に跪いたまま、頭を下げて動かない。外見から推し量れば、自分よりも少し年上に見えた。気の毒になってきて、千春は思わず声をかけた。
「あの、顔を上げてください。私、もう気にしていませんから」
 女がゆっくりと顔をあげた。やはり表情がない。床に跪いた低い姿勢から、寝台の上にいる千春を見上げた。名を聞こうとして、千春は咄嗟に思いとどまる。自分が彼女のことを詮索していいのかわからない。貴秋が秘めている事情に踏み込むことになるかもしれないからだ。
 千春は何を話しかけていいのか迷った。当り障りのない言葉を考えるが、何を聞いても詮索になってしまう。自分に危害を加えたことを差し引いても、やはり彼女との出会いは普通ではない。
「千春、彼女はシズカ。僕のボディガードだと思ってくれればいい」
 思い悩む千春の胸中を知ってか知らずか、貴秋があっさりと打ち明けた。
「ボディガード?」
 千春はもう一度、跪いたままの女に目を向けた。意外な配役のような気がしたが、女の硬い表情を見る限り、冗談ではなさそうだ。自分を見つめている漆黒の瞳に、光線の加減によっては深い緑が現れた。
 貴秋はためらうことなく彼女の素性を打ち明けたが、何のために彼女が必要なのか、千春はそれを聞いていいのか迷ってしまう。
 警護が必要な彼の立場は、一般的だとは言えない。
 彼の素性を知りたくないと言えば嘘になるが、過ぎた詮索をして、貴秋の秘め事を暴き、迷惑をかけるのは怖かった。
 自分が過剰な振る舞いをしていないかと、千春は気をつかってしまう。
 彼に嫌われるのが怖いのか、彼の素性を知ってしまうのを恐れているのか、自分の居場所を失うのが怖いのか、千春にもはっきりしない。
 聞きたいことは山のようにあったが、どれも言葉にはできなかった。
「シズカって、どんな字を書くの?」
 当り障りのないことを聞くと、女は無表情のまま貴秋を仰いだ。千春はこの質問すらも、出すぎた問いかけだったのかと焦る。
 貴秋は二人を見比べて、ふっと笑みを零した。
「そうだな、シズカは静でいいんじゃないかな。千春は、彼女の素性や僕を守っている経緯よりも、そんなことが気になるんだね」
 屈託のない調子で言われて、千春は「違うの」と答えた。
「私は、その、聞いてはいけないんじゃないかと思って。先生には知られたくないことがあるみたいだし。だから、わざと話を逸らしたの」
 貴秋は驚いたように、少しだけ目を見開いた。それから思い出したように、ぽんと手を打つ。
「あ、僕がここにいる理由を詮索するなって言ったこと?」
 千春は頷いた。
「なるほど。そっか。それはちょっと大袈裟に言い過ぎたのかもしれないな。別に大したことじゃないんだ。千春はそんなに気をつかわなくてもいいよ。って、僕の言い方が悪かったんだよね、ごめん」
 真っ直ぐに伸びた前髪をかきあげながら、貴秋が苦く笑った。彼の気づかいが染みて、千春の胸の奥に温かいものが灯る。
 彼の方が、ずっと気をつかってくれている。千春が過ごしやすいように、恐れることがないように、貴秋の態度は常に柔らかい。
 素性の知れない自分を、通りすがりの貴秋がなぜそれほど大切に扱ってくれるのか。不自然にも思えたが、不思議と恐れは抱かなかった。
 彼の仕草や眼差しが、時折切なくなるほど優しいからだろうか。
 目覚めてから、千春が不揃いな髪を気にしていると、貴秋が切り揃えてくれた。退屈ではないかと、埃にまみれた部屋から本を持ち出して、与えてくれた。
 彼と過ごしたささやかな時間が、今の千春には心地よかったのだ。
「僕は、ここで趣味の研究を続けているだけ。仕事部屋に入るなと言うのは、足の踏み場もない位に散らかっているし、勝手に触られると困る物もあるからだよ。シズカは警護というよりは、ここに必要な物資を届けてくれる役割の方が大きいね。街まで出るのも大変だから」
 立ち上がる気配のないシズカは、無表情なままである。まるで人形のように、身じろぎもせずそこにいる。千春が怪訝な顔をして眺めていると、貴秋が教えてくれた。
「千春は、人型を見るのは初めて?」
「人型?」
「そう。精巧に人を真似たアンドロイドのことだけど。陸国では、わりと普及している。この島国では、都市部にちらほら姿を見かけるかな」
「まさか、この人……静がアンドロイド?だけど、人型の規定では、雪色の髪と紫の瞳であるのが決まりじゃなかったかしら」 
「うん。だけど、シズカは特別。最新型の試作品みたいなもの」
「そんなものを身近に持っているなんて。先生って、きっとすごい人なのね」
 思わず千春が呟くと、貴秋は悪戯っぽく笑った。
「その辺りは、想像に任せようかな」
「うーん。じゃあ、機密の研究をしている天才科学者。そういうシナリオにしておくわ」
 千春が勝手に納得すると、貴秋は「そんなにいいものじゃないけどね」と笑っていた。
 そっと寝台の前で跪いているシズカを見つめる。
 島国人を真似た瞳と髪色。けれど、光に触れて時折現れる深緑の虹彩は、人にはない不思議な色合いだった。
「シズカって、島国系の美人だろう」
「うん」
 精緻な容貌は、人と比べて何の遜色もない。知識として蘇る人型の印象とは、全く異なっている。
 貴秋のどこか得意げな言葉を聞きながら、千春は抜け落ちた記憶の空白の中を、何かが横切ったような気がした。
 何とか繋ぎとめようとするが、それはするりと姿を消した。作り物という印象に、何かが引っ掛かりそうになったのだ。
 しばらく考えてみたが、自身を思い出す手掛かりには至らない。
「どうかしたの?千春」
「あ、ううん。何でもないの」
 何かを思い出しそうになったと、素直に言えなかった。自分の記憶が戻るということは、彼との別れを意味する。千春ははじめてそんなことを考えて、自分の思いに驚いた。
 記憶が戻らなければいい。それは目覚めてから、どこかで微かに思っていた。
 過去を思い出すことに不安があったからだ。けれど、今は違う。貴秋と過ごす、この平穏な日々を失うことを恐れているのだ。見せかけの幸福だとわかっているのに、いつの間にか浸っていたのだろう。
「足が痛むの?」
 自分を覗き込む、貴秋の瞳。それだけで千春は胸をつかまれたように切なくなった。彼に惹かれてゆく、その想いを止める術を知らない。
 貴秋の素性が明らかにされなくても、目覚めてから見てきた彼の人柄は真実だ。
「そうじゃなくて、この人はいつまで跪いているの?」
「きっと、千春に悪いと思っているんだよ」
 言いながら、貴秋は千春の右手を取った。それだけのことで、千春はカッと頬が朱に染まるのを感じる。 
「シズカ、右手を。今後、今日のような間違いがないように、千春をマスターだと認識しておいて。コード110143、マスター001、千春」
 千春の狼狽には気付かず、貴秋は千春とシズカの手を合わせた。
「コード110143。確認しました。優先順位001、千春をマスターに登録します」
 抑揚のない声でシズカが告げる。不思議な色合いの瞳が、真っ直ぐに千春をとらえていた。
「これで、シズカは千春も守ってくれる。安心していていいよ」
「あなたをお守りいたします、千春」
「え、あの。こちらこそ、よろしくお願いします」
 思わず挨拶をすると、傍らの貴秋が笑った。
 どこか気恥ずかしくて、千春は視線を泳がせる。ふと部屋の隅にある時計を見て、目を疑った。日が暮れていることには気付いていたが、時計の針は十二時をさしている。既に深夜だ。
「もう、こんな時間。先生、ずっとついていてくれたの?ごめんなさい。ご飯は?」
「まだだけど」
「私、すぐに用意するわ」
 ベッドから出ようとすると、貴秋が慌てて止めた。
「いいよ、いいよ。千春。今日は、もう休むといい」
「ごめんなさい」
「どうして謝るの?それより、家を綺麗にしてくれてありがとう」
「あ、私、畳を干したままだわ」
「シズカと僕で、きちんと片付けたから」
 貴秋が微笑んだまま、そっと千春の頭に手を置いた。「おやすみ」という言葉が、優しく響いた。


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サイトup 2004.6.6