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夢の果てで会いましょう

DREAM 5

 月曜日。私と山田君は揃って大学を休む事にした。学校に行っている場合ではない。
 私と山田君が顔を合わせたのは、昼前の食卓。
 昨夜は眠るのが遅すぎて、なかなか布団から出られなかった。
 瞳子さんはいつも通りに起きたらしく、私と彼にコーヒーを入れてくれる。
「朝ごはんはもうお昼と兼用ね。とりあえずコーヒーでも飲んでいて」
「ありがとう」
 私と山田君はぼんやりとコーヒーをすする。昨日はいろんな事があったと思うんだけど、夢だったのかな。大学を休んだものの、あまりにもいつもの日常なので、私はそんな事を思い始める。
 でもすぐにそんな呑気な空気は払われてしまう。
 一郎さんが血相を変えて、食卓へ顔を出したのだ。
「次郎、おまえっ」
 一郎さんには、緊張感が漲っていた。山田君は一郎さんに反応して、すぐに椅子から立ち上がった。
「どうしたの? 兄貴」
「おまえ、欠けた世界をどこへやった? まさか管理局に渡したんじゃないだろうな」
「欠けた世界って、何の事だよ。その在処を知っているのは兄貴だろう。俺は知らないよ」
 一郎さんはしばらく山田君の顔を見ていて、嘘ではないと判断したようだ。
「その世界の欠片(かけら)がなくなっているんだ。穴を作ってその中に隠しておいたのに、ないんだよ。無くなっている」
「じゃあ、あのバクが持って行ったとか」
「わからない」
 一郎さんは深刻な顔をしたまま、食卓の椅子に腰掛けた。瞳子さんがそっと彼の隣に立った。
「それを失くしてしまったら、あたしがいつ消えてしまうか分からないのね」
 ごく自然に瞳子さんが言った。あまりにも他愛ない口調だったので、一郎さんも少しだけ反応が遅れた。彼はすぐに事実に気が付いて彼女を振り返る。
「あたしはいつ消えてしまってもおかしくない。そうでしょう?」
「瞳子?」
 一郎さんは彼女を見てから、すぐに山田君を振り返った。
「おまえか、次郎」
「うん」
 一郎さんが椅子から立ち上がる。山田君に掴みかかりそうな勢いだった。
「おまえはっ。待てって俺は言っただろう」
「でも、いずればれる。それなら早い方がいいだろ?」
「次郎っ」
「待って一郎。違うのよ、あたしが偶然聞いてしまっただけよ。それで次郎君を問い詰めたの。教えてくれた彼には感謝しているわ」
 一郎さんは糸が切れた操り人形のように、力なく椅子に座った。
「何とか、するよ。絶対に、方法がある筈だ」
「ないわ、一郎。もう認めて。それにあたし、今すごく幸せなのよ」
 一郎さんは腑に落ちないという顔をして彼女を見る。瞳子さんはほほ笑んだ。
 私は山田君にとんと肩を叩かれた。振り返ると、彼は小声で「出よう」と言う。私はうなずいて立ち上がるとダイニングを後にした。
 
 
 山田君は自分の部屋へ戻って、管理局への通路を開こうとしている。
「世界の破片が管理局に戻っているなら、多分こっちにも連絡がある筈だから。ちょっと様子を見てみようかと思って」
「うん」
 その時、ふいにガタガタと地震がした。深刻な事故にはならないくらいの、緩やかな震動。
 私と山田君は揺れが収まると、思わず顔を見合わせてしまう。
「ひょっとしたら、世界はかなり崩れているのかもしれない」
 彼は開いた通路に足を踏み入れた。
「今度はあやめは、こっちで待っていてよ」
「わかった」
 山田君が姿を消した。しばらくすると扉を叩く音がして、ジュゼットが入って来る。
「アヤメ。いま世界が揺れたわ。今のは何? 怖い」
 ジュゼットは泣きそうな顔をしながら、私にしがみついて来る。どうやら地震を初めて体験したみたいだ。
「さっきのはね、地震って言うの。大丈夫だよ」
「ジシン?」
 彼女をなだめながらも、私は恐ろしくなってしまう。さっきの地震がこれまでの地殻変動によるものではなくて、世界崩壊の前兆として起きたものだとしたら。
 この世界は、崩れ去るまで、もうあまり時間が残されていないのかもしれない。
 再び、ガタガタと地震が起きた。ジュゼットは悲鳴をあげて、私に思い切りしがみつく。
 本当に大丈夫なんだろうか。
 本当に世界が崩壊する前に、一郎さんは決断する事が出来るだろうか。でも、それ以前に欠けた世界が行方不明になっているし。
 ああ、もう。本当にどうなっているんだろう。
「いや、私ジシン大嫌い」
 ジュゼットは瞳に涙をためている。私は彼女の背中を慰めるように叩きながら、ふと彼女が手に持っている物に気がついた。
「ジュゼット、それ」
 私は思わず声を上げてしまう。
 カバのような、小さなぬいぐるみだった。バクが宿っていた器。
サイズは小さくなっているけれど、間違いない。
 そして、その器の中にこそ、欠けた世界が在るはずなのだ。
 瞳子さんの死が。
 よく眺めると、ぬいぐるみのお腹が妙に膨らんでいる、何かが詰まっている。でも、どうしてジュゼットの手にそんなものが握られているんだろう。
 万が一、欠けた世界がうっかり外へ飛び出したらどうなるんだろう。
「どうしてジュゼットがそれを持っているの?」
 彼女ははっと我に返ったらしく、ぬいぐるみを体の後ろに隠す。
「あの、これは」
 地震の恐ろしさを忘れる勢いで、ジュゼットはうろたえた。
「あの、あのね、イチロウには内緒にしてね」
「そんな、内緒にしてねって。ジュゼット」
「だって、私これを持っていたいの、お願い」
「えっと」
 どうしよう、困ったな。これはまさに子供がオモチャが欲しがって駄々をこねてるのと同じだ。ジュゼットはお嬢様だから、今まで欲しい物は何でも与えられてきたんだろうな。
 とにかく何とか、取り戻すしかないよね。早く山田君帰って来ないかな。
 私はジュゼットを前にして、ぬいぐるみを取り返す方法を考えていた。
 
 
 食卓では一郎さんの傍らで、瞳子さんが寄り添うように立ち尽くしている。
 俯いたままかける言葉が見つからない一郎さんに、瞳子さんが声をかけた。
「ね、一郎」
 呼びかけられて、一郎さんは顔を上げた。二人が見つめあうと、瞳子さんが笑った。
 幸せに満たされた、眩しいほほ笑み。一郎さんは、思わず目を細めてしまう。
「お願いがあるの」
 今度は彼女、いたずらっぽい笑顔になる。一郎さんは何かを言いかけて、でも唇を閉じた。
「一郎、もう一度あたしに結婚しようって言って」
 瞳子さんは言う。
 手に入れた幸せを満たすために。一郎さんの表情が哀しげに歪んだ。
「あたし、一郎と付き合っていたんでしょう?」
「瞳子」
「こんな事になっているのも、全部あたしのため」
 瞳子さんの掌が、一郎さんの頬に触れた。
「瞳子?」
「ね、もう一度、愛しているって言って。そうしたら、あたしはそれを信じられるわ。お願い」
 一郎さんは頬に触れた瞳子さんの手を取って、首を横に振った。
 何度も。
「――言えない、今は」
「一郎、言って。お願い」
 瞳子さんの目から涙が零れ落ちた。止め処なく溢れ出て彼女の頬を濡らす。一郎さんは、何も言わずに彼女を引き寄せて、腕の中に強く抱き締めた。
「お願いよ、言って」
 瞳子さんの小さな声が聞こえる。一郎さんの、震えた声が響いた。
「……どこにも行くな」
 瞳子さんが腕を回して一郎さんを抱き締める。彼女は彼の胸に頬を押し当てたまま、濡れた瞳で幸せそうにほほ笑んだ。
「一郎は信じないかもしれないけれど。あたしはずっと嘘をついていたの。知っていた?」
「ずっと、嘘をついていればいい。忘れてしまえよ。その方がいい」
「どうして?」
「俺達は、通じ合う事は出来ないんだ。想いが通じたら、終わりが始まる、すぐに。だから、瞳子……」
 一郎さんは全てを知っている。恋の成就は終わりの始まり。
 その辛い真実を。
 瞳子さんが、力をこめて彼に縋りつく。肩が小刻みに震えていた。
「あたしね、次郎君に言ったのよ。一郎が関わる世界とは関係なく、ただあたしを愛してくれるのなら、死んでもいい位幸せだわって。あたしは、ずっとそう思っていたの。でも、ずっと叶う事はないと思っていた。でも、叶ったわ」
「違う」
「人間って欲張りね。こんなふうに満たされても、未来が欲しくなるなんて。今でも、自分が死んでいたなんて信じられない。でも、一郎の気持ちが本物になった。だから引き換えなの、仕方がないわ」
「瞳子」
「このまま、ずっと一郎といられたらいいって思う。本当は願っているけれど。でも、あたしにとっては、一郎の世界が大切なの。あなたの未来が」
 瞳子さんがゆっくりと一郎さんの胸から顔を上げる。一郎さんの頬も、涙で濡れていた。
「誰よりも、あなたが大切。だから、言って。愛しているって」
 一郎さんは口にしない。
 想いを言葉にしても、通じ合うことが出来ても、これから続いて行く世界に彼女はいないのだ。
「言って、お願いよ」
 ずっと望んでいた、二人の夢。
 一郎さんはかすれた声で、口にする。
「愛しているよ、――誰よりも」
 何よりも。この世界よりも、未来よりも。
 けれど、一郎さんはもう投げ出すことは許されない。
 彼女が自分のこれからを、大切だと言ったから。
 瞳子さんは一郎さんの言葉を噛み締めるように、頷いた。
 彼の胸に顔をうずめて、まるで囁くように伝える。。
「ありがとう。あたしも愛しているわ。一郎が大好きよ、誰よりも」
 一郎さんが、彼女を抱く腕に力をこめた。まるで何かを繋ぎとめようとしているように。
「俺達にだって、世界(みらい)はある」
「それは違うわ」
「認めない」
「駄目よ。だって一郎、あたしは手に入れてしまった。――今は、とても幸せよ、あたし。本当に、もう死んでもいいくらい、幸せだわ」
 
 
 管理局へ行っている山田君は、上の世界からその後の成り行きを聞いていた。
「干渉した者は捕まりました。そこから食い荒らされた世界を回収しましたが、まだ足りません。何らかの形で、まだどこかに欠けた世界がある筈です。このままでは崩壊を黙って見ている事しか出来ない。世界の崩れは秒単位で進んで行きます。我々が思っていたよりも、遥かに世界の崩壊が早い。何とかしなければなりません」
 現れた白い影は、今回は山田君の姿をそのまま器にしたようた。双子のように山田君にそっくりだった。
 不慣れな口調で事実だけを告げると、人影は再び白い影となって消え去ってしまう。山田君は失われたままの世界が管理局に戻っていない事をたしかめて、そのまま部屋へ戻って来た。
 彼はすぐにジュゼットが手に抱えているぬいぐるみを見つけると、私と同じように声を上げる。
「それ、そのぬいぐるみ」
「あ、山田君」
 私は帰って来た彼を見て安堵する。山田君は管理局へ通じる空間の穴を消してから、私とジュゼットの前に座り込んだ。
「どうしてジュゼットがそれを持っているんだよ」
「あ、うん。彼女、昨日一郎さんの書斎を家捜ししたみたい」
「ええ? ジュゼット、それはすごく大切なものなんだよ。俺達の命がかかっているんだ」
 あ、うまい。山田君のその言葉はかなり説得力がある。ジュゼットはきょとんと山田君の顔を見ている。
「命が?」
「そうだよ、ジュゼット自身の命だってかかっているよ」
 たしかに世界が滅びるということは、そういうことだ。
「そんなに大切なもの?」
 山田君がうなずく。ジュゼットはじっとそのぬいぐるみを見つめてから、そっと彼に差し出した。
「また、この中にいた彼とも、どこかで会えるかしら」
 ジュゼットが独り言のように呟いた。山田君はなぜか戸惑いながら、大きくうなずく。
「多分、いつかは会えるよ」
「そうね。私、いつになったら元の世界へ帰れるかしら。何だかお父様や、ジェロームに会いたくなって来たわ」
「ジェロームって」
 私が聞き返すと、彼女は耳の先まで真っ赤になる。
「え、あの」
「あっ、ジュゼットの想い人ね」
「ええ、まぁ」
 山田君は彼女の頭を優しく叩く。
「あんなに帰るの嫌だって言っていたのに」
「だって、ずっとここにいられる訳でもないし。それに私、考えたの。昨夜その抜け殻を抱き締めて、よぉく考えて見たのね。それで、いつかトウコが言っていたように、少しは努力してみようと思って。お父様にだって一度は話してみようと思うの。だって、自分の立場を受け止めてからでないと、本当の幸せは手にいれられないわ。ここにいるのは夢のようなものだし。私、よく分かっていないけれど、イチロウもこの事が分かればいいなと思うの。だって、イチロウも私とよく似た立場なんでしょう」
 ああ、そうか。ジュゼットも薄々は分かっていたんだ。一郎さんの抱えている事情が。
「私、ここに来て、イチロウやトウコや、それからその抜け殻の中にいた彼にも、いろいろ教えてもらった気がするわ。私、このままじゃ駄目なのね」
「そうだね。ジュゼットは、偉いよ」
 山田君はもう一度、ぽんと彼女の頭を叩いた。ジュゼットは栗色の巻き毛をゆらして、にっこりと曇りのない笑顔を見せた。
 
 
 お昼ご飯の後で、私は山田君が管理局で手に入れた情報を聞いた。
「え? じゃあ、本当にあのバクは抹殺されちゃったの?」
「多分ね」
「ジュゼットが知ったら、哀しむね」
「うん、でも、俺達が言わなきゃ彼女は知らずにいられるよ。彼女は元の世界へ戻れば、ここであった事は全て忘れてるし」
「そっか。じゃあ、彼女がせっかくたどり着いた努力しようって思いも忘れるんだ」
「そういう事になるけど。でも、ジュゼットなら、またいつか向こうの世界でも気付くと思うよ。このままじゃ駄目だって」
「うん。それもそうだね」
 二人で山田君の部屋で話をしていると、コンと扉を叩く音がした。
「次郎」
 一郎さんが顔を出す。
「親父が来ている。話があるって」
「分かった」
 山田君は一郎さんに促されて部屋を出て行く。山田君も私も、まだ見つけたぬいぐるみの事は一郎さんには話していない。何となく話せずにいたのだ。
 欠けた世界を手にして、一郎さんはどうするんだろう。
 決断を下すんだろうか。瞳子さんとの別れを、受け入れるのだろうか。
 わからない。
 

「あと三日もつかどうかだ」
 山田君と一郎さんのお父さんは、息子達が居間に現れるとそう告げた。
「世界の崩壊は時間の経過と共に、どんどん倍増して崩壊して行く。あと七十時間が限度だと、管理局が言っていた。それまでに欠けた世界が戻らないことには、修正が完了せずに崩壊する。一郎、それまでに答えを出すんだ」
 一郎さんは何も答えずに、顔を伏せていた。山田君もそんな一郎さんを見て辛そうな顔をする。
「これ以上何を言っても仕方がないだろう。私はもう帰るが。これからの三日間は覚悟したほうがいい。筆舌に尽くしがたい異常現象が続くだろう。それでも、上が修正したのなら、今の事態は全てなかった事になるだろうが」
 一郎さん達のお父さんは、激昂することもなく居間を出て行った。一郎さんを責めることもない。息子を信じているのか、あるいは労わっているのかもしれない。彼は瞳子さんに挨拶をして、帰っていった。
 居間では、二人の兄弟が取り残されている。山田君も一郎さんも、言葉を交わすことなく、ぼんやりとソファに掛けている。居間にある時計の秒針だけが響いていた。
「このまま、時が止まればいいのにな」
 一郎さんがそんなことを呟いた。山田君はゆっくりと顔を上げて彼を見る。
「兄貴?」
「このまま時が止まれば」
「でも、それは。死んでいる事と同じだよ」
 一郎さんは顔を上げて弟を見る。ただ苦笑して見せた。。
「そうだな。時が止まれば何も感じなくなる。それは死んでいる事と同じだな。――あと三日。それでも、欠けた世界は失くしたままだし、もうどうにもならない」
「兄貴は世界の欠片(かけら)が無くなって、少しほっとしているの?決断が自分で出来なくなって、安堵してる?」
 一郎さんは答えず、じっと弟の顔を見ていた。
「欠けた世界は、俺が持っているよ」
 随分迷った挙句、山田君が打ち明けた。一郎さんは深い溜め息をついた。
「やっぱり、お前か」
「ジュゼットが兄さんの書斎を捜して見付けたらしいんだ」
「そうだったのか、ジュゼットが」
「後三日。俺が管理局に届けても良いけど、これは兄貴に任せるよ。だから欠片は兄貴に返す。あと三日で決断すればいい」
「あと三日で。――おまえは後三日、俺に時間をくれるわけだ、次郎」
 山田君はうなずいた。
「でも、それでも俺が欠けた世界を戻さなければ、おまえはどうするつもりなんだ」
「どうもしないよ。俺は全てを兄貴に委ねたからね」
 あと三日。七十時間。
 確実に、時間は流れて行く。
「瞳子を――」
「え?」
「瞳子をやっと口説き落としたよ。おまえのおかげだな。感謝している」
 一郎さんは顔を上げると、山田君に笑って見せた。
 
 
 あと約三日。七十時間で世界が崩壊してしまう。
 一郎さんに欠けた世界が詰まったぬいぐるみを渡した。彼はそれを受け取ると、私に問いかける。
「あやめちゃん。俺にこれを渡して後悔しない? このぬいぐるみの腹の中から欠けた世界を戻せば、それで世界は元に戻るんだよ」
「でも、それを決めるのは一郎さんです。瞳子さんの死を受け入れるのかどうか、一郎さんが決めなくちゃ意味がない。そうでないと、一郎さんの世界は続いていかないもの。あ、私、とても残酷な事を言っていますね、ごめんなさい、一郎さん」
「いや、いいんだよ。あやめちゃんの言っている事は正しいよ」
 彼は自分の書斎へ戻った。私は居間で山田君に尋ねる。
「瞳子さんは?」
「ジュゼットとダイングでお茶を飲んでる。俺さっきからテレビを見てるんだけど、すごい事になってるよな、局によっては番組の放映が出来ない所もあるみたいだし」
「そうなんだ」
 私が居間の座布団に座ると、ジュゼットと瞳子さんもやって来た。
「お茶にしましょう。お菓子もあるし」
 瞳子さんとジュゼットが居間の座卓でお茶を淹れてくれる。
「あれ? 何だかすごい甘い香り」
「ええ。桃の紅茶よ」
「私、トウコの入れる紅茶大好き」
 ジュゼットも嬉しそうに笑って座布団に座る。ジュゼットはかなりこの世界に慣れたみたいだ。普通の洋服も板について来た。
「一郎は?」
「書斎の方へ入って行ったけど」
「そう。あたしちょっと引っ張って来るわ。せっかくだから、団欒しなきゃ」
 瞳子さんは居間を出て、書斎へ向かったようだ。
「何か変な感じだね。後三日って言っても、こんなふうにのんびりしているんだもん」
「俺達にはすることがないしね」
 やがて瞳子さんが一郎さんを連れて居間へ戻って来た。ごく自然ないつもの日常と同じだ。
「この家も、いつ崩壊するかわからないわね」
「まぁ、そうだな」
 呑気に座卓を囲んでいると、瞳子さんが何か閃いたのかポンと手を打った。
「ね、せっかくだから少し外に出てみましょうよ。ジュゼットだって、今みたいな状態なら外に出てもいいでしょう?」
「それもそうだな」
「海がいいわ、あたし。一郎と腕を組んで海岸線を歩くの。ロマンティックだわ」
 瞳子さんは、うっとりと顔を輝かせている。明るく振る舞っているけれど、彼女はきっと思い出がほしいんだ。
 自分が消え去ってしまうと分かっていても。
 そして一郎さんがこの五年間を忘れ去ってしまうとしても、思い出を作りたいんだ。
 決して記憶に残ることのない、幻の思い出。
「でも、海までたどり着けるのかしら。この世界、無茶苦茶だから」
「それならさ、パラレルワールドから海を探して行った方が早いよ」
「あ、そうだね。とびきり綺麗な海を探して行くの。そうしよう、山田君。私も海に行きたい」
 黙っていると暗い気持ちに引き摺られてしまいそうになるから。私も瞳子さんのように明るく振る舞うよう努めた。
 
 
 瞳子さんが後片付けのために居間を出て行くと、山田君も海を探して来ると言って、管理局へ行ったみたいだった。
 私とジュゼットと一郎さんが、居間に残っている。ジュゼットがためらいがちに一郎さんに聞く。
「イチロウは、まだ迷ってるの」
 一郎さんは素直に頷いた。
「俺が一番、今の状況を信じていないのかもしれない。後三日すればこの世界が崩壊する、あるいは瞳子がいなくなる。どっちも信じ難い」
「私、まだ事情が良く分かっていないわ。ただでさえこんな変な所へやって来て、夢を見ているような気がするもの。でも、イチロウは私が帰りたくないって言った時に、私に言ったわ。私がここにいるのはおかしいって。たしかにね、ここは私のいた世界と全然違うもの。見たことないモノもたくさんある。そして、ずっと自由だと思った。私は国に戻っても何も出来ないし、楽しくない。毎日毎日繰り返し。決められた日々を送って、勝手に結婚させられるの。それがとても嫌だったから、私はいつでもこんな所は嫌だって思っていた。そんな時に、ここへやってきたの。だから帰りたくないと強く感じた。でもね、よく考えてみたの。トウコには自分で楽しくなるように努力してみるのよって言われた。イチロウを見ていて、自分の弱さに気がついた。きっと、みんな同じよ。同じようなモノを抱えて生きているんだわ」
「ジュゼット?」
「私、よくわかってない。わかっていないけど、イチロウがずるい事をしたっていうのは分かっているつもりよ。そして、ずっとイチロウはずるいままなの。私が帰りたくないって言ったのと同じ事を、ずっと続けているんだと思うわ。そうでしょう?」
「でも、ジュゼットも戻りたくないんだろう?」
「私は帰ってもいいと思ってる。これはひとときの夢だと思っているの。だから、いつか醒めるわ。イチロウだってそうよ。夢を見ているのよ、いつか醒めるわ」
 一郎さんは眼差しを伏せた。小さく頷いてみせる。
「あの抜け殻の中にいたモノが、イチロウに言っていた。どんなことも受け止めて乗り越えないといけないって。私も、そう思ったの。ここにいても結局私は変わらない。いずれ帰ればまた同じよ。だから、大切なのは周りを変えようとするんじゃなくて、自分の心を変える事なの。ああ、うまく言えないけど。イチロウ、私の言っている事はわかるかしら」
「……わかるよ」
「あのね。イチロウは、いつか人間は分かっていても出来ない事があるって言っていたけど。でもね、それは違うと思うの。分かっていたら、それは可能性につながるの。あー、何言ってるのかしら、私」
 ジュゼットは言いたいことがうまくまとめられなくて、戸惑っている。それでも彼女は懸命に伝えようとする。
「私は、だから帰る事を自分で認められたの。だから、イチロウもそれを認めないと駄目なの。哀しい事とか、嫌な事とか、たくさんあっても、そこから逃げるだけじゃ、本当に幸せにはなれないの。自分が弱いままだから。たくさん、たくさんね、乗り越えてから手に入れられるものがあると思うの。幸せに近づいて行くと思うの。それは自分で見付けるしかないのよ。逃げていたら、辛くはないのかもしれないけど、本当に幸せにはなれないと思うの。分かるかしら、イチロウ」
「わかるよ、よくわかるよ」
 一郎さんは頷いたけれど、哀しそうだった。。
「トウコはね。そういう事が分かっていて、受け止められる人ね。私、ここに来て最初に彼女に教えてもらったもの」
 瞳子さんは帰りたくないと泣いたジュゼットに、たしかにそんな事を話していた。どうにもできない事をどうにかしようと試みる。それが駄目なら、受け入れて幸せになれるように努めると。
 瞳子さんは、今もそれを貫いているんだ。
 自分が幻になる事を受け入れて、残された時間をどれだけ幸せに過ごす事が出来るか。
 瞳子さんは、全てを受け入れているんだ。
「わかっているよ、俺も。これが夢だって言う事は。自分がずるい事も。自分が弱いために、今こんなふうに瞳子を苦しめているのも、わかっている。このままでは駄目だということも、わかっているんだ。でも、それでもね、ジュゼット。俺は今が、幸せだと思っている。夢を見ている今が、とても幸せだと思っているんだよ。いつか目覚める事が分かっていても、終わりが見えていても」
 一郎さんは、瞳子さんの命を繋ぎとめた時に、その世界の終わりも見据えていただろう。
 いつか世界が崩壊をはじめ、過ちの全てが露見した時、彼は再び瞳子さんの死を突きつけられる。
 全てを、そこから始めなければならない。
 一郎さんには、わかっていた筈だ。
「ごめんなさい、イチロウ。私、余計な事を言ったわ」
「そんな事ないよ。――大事な事だよ。あやめちゃんもそう思うだろう?」
「はい」
 一郎さんは優しくほほ笑んだ。涙に濡れた彼の瞳は、綺麗で、切なくて。
 そして、とても哀しかった。
 
 
 瞳子さんが望んだとおり、私達は海のあるパラレルワールドへやって来た。潮風が冷たい。これは秋の海だと思う。黄昏の輝きが、海面に反射してきらきらと弾けた。
「すごいね、山田君。よくこんなに綺麗な海を見つけたね」
「もっと褒めて褒めて。無茶苦茶大変だったんだから。でも、実はここもかなり崩壊しているけど。別の世界なのに、体が透けていないだろ?」
「あ、言われてみれば」
「世界はもう無茶苦茶だよ。本当に崩壊寸前」
「でも、好都合だな」
 海に見入ってた一郎さんが、こっちを振り返って笑う。
「それは言えてる。だから、俺もわざとここを選んだんだ」
 山田君もうなずいて笑った。
 ジュゼットは黒いワンピースを来て、海の波と戯れている。ほんとに愛らしい子だ。
「次郎君。最高よ、ありがとね」
 瞳子さんは満面の笑みで山田君に手を振っている。白いスカートを潮風になびかせて、裸足の足先が波の飛沫を受けていた。今まで気付かなかったけれど、瞳子さんて何て華奢な人だろう。
 彼女は歩み寄ってきた一郎さんに白い手を伸ばした。腕を組んで、二人はゆっくりと海岸線を歩き出す。
 私と山田君は二人の背中を見送ってから、顔を見合わせた。
「たくさん話しをすればいいんだよ、あの二人は」
「うん。もう、なるようにしかならないもんね」
 その場に座り込んで、私は貝殻を手に取る。桜色の綺麗な貝。
 もう私には、出来ることは何もない。一郎さんがどんな決断をしても、受け入れるしかないだろう。
「あやめ」
「何?」
「世界が修正されたら、きっと五年前の瞳子さんの死から始まると思うんだ。だから、次に出会った時も、俺の事を好きになってよね」
「山田君も私の事を好きになってね」
「なるなる。絶対になるよ」
 山田君は即答だった。笑顔で答えてくれる。
 私達も一郎さんと同じだ。自分の世界が、もう一度始まるだけ。
 必ず山田君や一郎さんと出会えるのかはわからない。もしかすると、違う新たな世界を歩いているのかもしれない。
 けれど、もう一度出会えること。今はそれを信じていればいい。
 どんな世界が続いていても、幸せになれるように努力をするから。
 だから、どうか私達を幸せにして下さい。
 
 
「随分、歩いたな」
「そう?」
 一郎さんと瞳子さんは、立ち止まって歩いて来た砂浜を振り返る。
「本当ね、砂浜に足跡が続いているわ。――それにしても、綺麗な海ね、次郎君に感謝しなきゃ」
 瞳子さんは楽しそうに笑うと、組んでいた一郎さんの腕に体を寄せた。
「一郎、ありがとう。素敵な夢を見せてくれて」
「夢じゃないよ。これも現実だろ」
「そうね、現実ね。何が夢かなんてわからないわね。だから、きっと人は何度も目が覚めるのよ。生きている間に、たくさんの夢を見て、そして目が醒める度に、少しずつ何かを手に入れて行くの。そうやって、自分の世界が築かれていくんだわ」
「瞳子?」
「だから、一郎も今のこの世界、この夢から醒めたら、また一つ大切なことを手に入れることができる。絶対に。そうやって、一つずつ乗り越えて行くの」
「でも、おまえはいない」
「あたしの夢は、これで終わりよ。でも一郎には、まだ続いて行く夢があるわ」
 瞳子さんは一郎さんと向かい合って、彼を仰いだ。潮風が彼女の長い髪を巻き上げる。
「一郎。もう決めたんでしょう。あなたが自分で、この夢を終わらせるって、そう決めたんでしょう?」
「瞳子」
「覚えていてね。忘れるだろうけど、でも今だけでも覚えていて。あなたのこの夢は決して無駄じゃなかったの。少し遠回りをしたかもしれないけれど、一郎には必要な夢だったのよ。そして、あたしには幸せだった」
 緩やかな潮風が二人をかすめて行く。たゆたう波は穏やかだった。夕日の輝きが、空を見事な茜に染め上げている。
「違うだろう。この夢はお前を苦しめただけだ」
「ううん。私は幸せだったわ。こうしてあなたの隣に立って、想いを伝えることができる。あなたが夢を見なければ、こんなに素敵な時間は訪れなかった。――一郎。夢から醒めたら、あなたは誰よりも幸せになれるわ」
「お前がいないのに、どうやって……?」
「大丈夫。あなたの世界はこれからも輝いている。私にはわかるもの。幸せになれるわ」
 一郎さんには、彼女に答える言葉がない。ただ瞳子さんを引き寄せて抱きすくめた。
「分かっているでしょう、一郎」
「行くな」
「もう、認めているでしょう」
「でも、瞳子――、おまえが……」
 いないと呟いた声は、風にかき消されてしまう。
「あたしは、全て受け入れられるわ。もう充分よ。一郎が、あたしを引き留めてくれた。それだけで、もう充分なの。だから、一郎が幸せになれるのなら、それで満たされる。もう何も望まないわ。あたしは、あなたに想われて、こんなに幸せだったの。だから、今度はあたしがお返しする番。一郎が幸せになれるように」
 瞳子さんは、慰めるように腕を伸ばして、一郎さんの体を抱きしめる。彼女は仰ぐようにして、彼の顔を見た。涙に濡れた瞳に、一郎さんの泣き顔が揺らめいている。
 彼女の白い手が、一郎さんの頬に触れた。彼は瞳子さんの体を引き寄せた。
 ごく自然に、二人が唇を重ねる。
 二人の想いを刻むように。
 暮れかけた陽射しが、砂浜に寄り添う一つの影を描いていた。


「イチロウ、大丈夫かしら」
 海から戻って来ると、一郎さんは書斎へ姿を消した。瞳子さんは、何事もなかったかのように、夕食の用意を始めていた。
 これが、最後の晩餐になってしまうのかもしれない。
 すごく切なくて、私は居たたまれない思いに捕らわれる。ジュゼットと山田君も、言葉数が少ない。三人でけだるい時間を弄んでいると、ジュゼット呟いた。
 私はくるくると自分の巻き毛を指先に巻きつけているジュゼットを見た。
 山田君も私も、一番口にしたくて出来なかった不安。
「兄貴は、どっちにしても覚悟を決めていると思うけどな」
 私はただうなずいた。世界が跡形もなく失われるまで、もう時間は残されていない。
「でも、どんなふうに決断したのかしら」
 ジュゼットの問いに、山田君はうな垂れたように顔を伏せた。座卓に額を当てるようにして上体を伏せてしまう。
「さぁね、そればっかりは、兄貴の問題だし」
 どこか投げやりな口調だった。それは私達が考えても仕方がないことなのだ。ジュゼットは上体を伏せたままの山田君を見つめている。
「私、一郎は頑張らなきゃ駄目だとは思うけど。トウコと別れる事になるのは、とても寂しいわ。本当に、それしか方法がないのかしらって思うの。どれだけ努力しても、変える事はできないのかしらって」
「ジュゼット。だって、もう起きてしまった事なんだもの。これからの事なら変えることができるかもしれないけど。瞳子さんの事故は既に起きてしまったことだから。起きた事は、変えられないんだよ。過ぎ去った時間が戻らないのと同じ」
「そうね。それはわかっているけど」
「俺は、たとえ兄貴が瞳子さんと一緒に滅びることを選んでも何も言えないな。だって、俺が兄貴の立場なら、わからない。あやめを賭けられたら、世界を選べるのかなんてわからないよ。自分に置き換えると、簡単じゃない。兄貴の迷いがすごくわかる」
「うん。でも、そっか。それなら瞳子さんの気持ちもわかる。自分のために世界が崩壊してしまうなんて耐えられない。それに、一郎さんのこれからを考えたら――」
「そうね。トウコはイチロウの未来を守ろうとするわ」
 山田君が顔を伏せたまま、かすかに頷いた。もしかすると、泣いているのかも知れない。
 居間が沈黙に包まれてしまうと、瞳子さんが顔を出した。
「みんな、ご飯にしましょう。あら? ついにこの家も駄目ね」
 瞳子さんに示されて天井を見ると、そこには池があった。鯉が私達の頭上で泳いでいる。
「うわっ、ほんとだ。いつの間に」
 私は思わずその光景に見入ってしまう。
 ありえない光景が、すぐそこに迫っているのだ。
 刻々と、世界の終わりが近づいて来る。
 瞳子さんに呼ばれて一郎さんが書斎から出て来た。
 彼は欠けた世界であるぬいぐるみを手にしていた。
「もうすぐ限界だな。とりあえず飯にしようか」
 一郎さんが、座卓の上にそっとぬいぐるみを置いた。
 
 
 一郎さんの夢が醒める時が来る。瞳子さんの死が形になり、二人の恋は終わりを告げる。
 覚悟を決めて、受け入れなければならない現実。
 夢が終わる。
 今、一郎さんの手の中に、欠けた世界がある。お腹が不自然に膨らんだ、バクのぬいぐるみ。
 このぬいぐるみに宿っていたバクも、満足するのだろうか。
 一郎さんが絶望の先に見出した決意。
 命懸けで望んだ人の在り方を、続いて行く世界を見られただろうか。
「兄貴」
 山田君が彼に声をかけると、一郎さんは頷いた。彼は寄り添う瞳子さんを見て優しく笑う。ジュゼットは泣き出しそうな顔をしながら、私の腕にしがみついていた。
 ここは管理局だ。私達は一郎さんと共に、全てを見届けるためにやって来た。
「一郎」
 瞳子さんが彼の手に自分の手を重ねる。一郎さんの手が震えていた。
「一郎さん、本当に?」
 迷いは禁物だとわかっているのに、それでも私は聞かずにはいられない。彼の覚悟はついているらしく、一郎さんは頷く。
「いつまでも夢を見ているわけにはいかない。ずっと分かっていたよ。ただ、認めるのに時間がかかってしまっただけで。答えは初めから、一つだった。――ただ、俺がごまかしていたんだ」
「兄貴、瞳子さん」
 寄り添うように立つ二人を見て、山田君は唇を噛んだ。
「俺の歪めた世界を戻すよ。瞳子に、記憶を返すから――」
「ええ」
 一郎さんも、瞳子さんもお互いのことを信じている。揺ぎ無い想いに結ばれているのだろう。繋がれた絆は、もう何があっても揺るがない。
 二度と会えなくても、想いは在り続ける。
 二人には、もう痛いほど分かっているんだ。避けて通れない別れがある事に。
 そして、それが一郎さんの幸せに繋がることも。止まっていた世界は、ようやく未来に続いて行くことができる。
 しっかりと手を取り合っている二人。別れがすぐそこまで迫っていても、全てを忘れても、心の深い所に、きっと想いは刻まれているのだ。失われることはない。
「――――……」
 一郎さんが、手にしていた物の刃先をぬいぐるみに向ける。彼はためらわずに、膨らんでいるお腹を開いた。
 
 
 眩しい光りが溢れ出て辺りに弾ける。私は眩しさに目を焼かれて手を翳した。目の前に現れた光景が、過去をなぞり始めた。
 瞳子さんの記憶であり、真実の過去である情景。
 どこかの校庭で、桜のはなびらが舞っている。穏やかな春の校庭の向こう側に、校舎が聳え立つ。吐き出されるように出てくる生徒の中に、瞳子さんを見つけることが出来た。
 あどけない笑顔で笑っている。間違いなく瞳子さんだった。
 校庭に並んだのは新入生だろうか。生徒の一人が校庭に据えられてた壇上へ上がった。
 ああ、間違いない。あれは一郎さんだ。
 過去の光景は、ひらりひらりと断片的に真実を見せてくれた。
「思い出したわ、あたし」
 瞳子さんは胸の前で手を組み合わせて、信じられないものを眺めように記憶を見つめている。一郎さんは、懐かしそうに眼差しを細めた。
「懐かしいな。もうあれからどの位経ったんだろう」
「なんだか恥ずかしいわね」
「一郎さん、若い」
「それは当たり前だよ、あやめちゃん」
 彼は踵を返して、管理局のメインと言われる機械の前まで歩いて行った。
「こんな過去を、いつまでも見ていたって仕方がない」
「どうしてだよ、兄貴。俺達は構わないよ。その方が」
 その方が、二人が一緒にいられる時間を稼げる。きっと山田君はそう言いたかったに違いない。
 一郎さんは、そんな山田君の思いを察しながらも、首を横に振って見せた。
「俺と瞳子が恥ずかしいんだよ。おまえ達に見られると困ることだってあるからな」
 山田君は薄笑いを浮かべている一郎さんを見て、何かを理解したらしい。なぜか顔を赤くして「そっか」と呟いた。
 過去の情景は素早く送られて、その終焉を目指す。
 一郎さんの横顔が苦しげに歪んだ。彼は目の前の光景から目を逸らして、強く掌を握り締める。瞳子さんが労わるように、一郎さんに寄り添った。
 残酷な現実。瞳子さんの命が失われた瞬間。
 間違いなく、それは瞳子さんが亡くなる場面に向かって進んでいる。
「一郎さん」
「兄貴」
 声を上げる私達に、彼は自嘲的に笑った。
「俺は、ここから始めないといけない。瞳子の死を認めるところから」
 彼が決意したのならば、私達には何も言えない。ジュゼットは血の気の引いた顔で、強く私の腕にしがみついてる。
 やがて、その最悪の瞬間が訪れた。
 
 
「いやぁ」
 ジュゼットが絶叫する。私は声も出なかった。これが現実なのだ。今まで、私は理解していなかったかもしれない。
 瞳子さんの命が費えていること。
 本当は全然、理解していなかったのかもしれない。だって、彼女はずっと私達と生きていたのだから。なのに、今目の前では彼女が倒れている。鮮やかな血の赤。残された血痕にぞっとする。
 これが現実。これが瞳子さんの真実。
 信じられない。
 一郎さんは、こんな事実を受け止めなければならなかったんだ。
 瞳子さんを失って、独りきりで。
 全てを失った瞬間を、瞳子さんは表情を堅くして見ていた。一郎さんはそんな瞳子さんを引き寄せて、視界を遮るように抱きすくめる。
 遠くでは、救急車のサイレンが響いていた。過去の情景は私達を病院の中へと誘う。
 長い廊下を、向こうから誰かが駆けて来る。一郎さんだった。やがて彼はある部屋へ向かって歩き出す。
 この先は、もう見なくてもわかった。一郎さんが最も辛かった場面だ。
 私はしがみついてるジュゼットを抱き締めて顔を伏せた。
 何度も「瞳子」と絶叫する声が聞こえた。私は耳を塞いで堅く目をつぶる。ずっとジュゼットを抱き締めて過ぎ去るのを待った。とても、見ていられなかった。
 ふいにトンと肩を叩かれた。
「あやめ。もういいよ」
 山田君の声で顔をあげると、溢れ出た情景は跡形もなく失われていた。白い空間で、私達は立ち尽くしている。
 一郎さんが静かに、ただ涙をこぼしていた。傍らにはまだ瞳子さんがいる。彼女は一郎さんの涙を拭うように指先で彼の頬に触れた。
「一郎」
 一郎さんは目を閉じて、込み上げる哀しみに耐えている。
「あたし、きっともうすぐ消えるわね。一郎の夢、醒めるわ」
 一郎さんは彼女の腕をつかんで引き寄せる。
「行くな。――ずっと、傍に」
 瞳子さんはほほ笑んだ。けれど、瞳からは涙が零れ落ちる。関を切ったように込み上げて、とめどなく涙が溢れ出た。私は信じられずに座り込んでしまう。
 瞳子さんがいなくなる。厳しすぎる現実。
 何も考えられない。
「あやめちゃん、泣かないで。夢から醒めたら、全部忘れているわ」
「そんな」
 言葉にならない。
 忘れたくない。忘れたくないけれど、どんなに願っても、瞳子さんを好きでも、忘れてしまうんだ。
 朝に目醒めて、見ていた夢を忘れているように。
「一郎。生きている限り夢を見ているのよ、きっと。醒めたら、また次の夢を見るの。だから、あたしは夢の果てで待っているわ」
「瞳子」
「あたしは待っている。だから、手を放して。夢から醒めるの、あなたの夢から。そして、幸せになって。あたし達は、もう一緒にいられないの」
 一郎さんは、強く彼女を抱き締めた。彼女を手放せないんだ。手を放せば、もう二度と会うことは叶わない。声を聞くこともできない。彼女が消え去ってしまう事がわかっているから。
 だから、一郎さんは彼女から手を放せない。
「一郎」
「約束、するよ。必ず、幸せになるから」
「ええ。分かっているわ。幸せになって、誰よりも」
 一郎さんがそっと腕を解いた。瞳子さんはほほ笑んだ。
 幸せそうな笑顔を残して。
「瞳子」
 もう一度彼が手を差し伸べる。彼の手はもう触れることが出来なかった。瞳子さんは淡い光となって弾け、跡形もなく失われてしまった。彼女の声だけが、最後まで残る。

 幸せになって、誰よりも。
 
 
 一郎さんは声を上げることもできず、立ち尽くしたまま泣いていた。山田君は哀しみを堪えると、ゆっくりと一郎さんに近づく。
「兄さん」
「――見なければ良かった、こんな夢は」
「違うだろ、兄貴。夢を見ていた間、幸せだった筈だろ。瞳子さんだってそうだよ。それに、兄貴には必要な夢だったんだよ」
「そう、よ。イチロウ、偉いわ。絶対、幸せになれるわ」
 泣き腫らした瞳を向けて、ジュゼットも声をかける。
 一郎さんは泣きながら、それでも彼女に笑顔を向けた。
 私が大きく鼻をすすった時、ガクリと衝撃があった。ジュゼットが小さく悲鳴を上げる。
「世界が元に戻るよ。あやめちゃん。また、いつか」
「はい。一郎さん、大丈夫ですよね」
 彼は深くうなずいてくれた。
「約束したよ、瞳子と。幸せになるってね」
「はい」
 私は笑って見せた。
「あやめ、少しだけさよならだね」
 山田君が腕を伸ばして、私を抱き締める。それは一瞬で、彼はすぐに私を離した。
「あやめ、また、必ず会おうな」
「うん」
「ジュゼット、元の世界に戻れるよ」
 山田君が教えると、彼女は涙の止まらない一郎さんにしがみついた。
「イチロウ。私も頑張るわ。頑張って何とか幸せになろうとするわ。イチロウやトウコに負けないように。忘れていたって思い出すわ」
「ああ、頑張れ」
 世界がもう一度激しく揺れる。私は強い衝撃と眩暈に襲われて、そこで気を失った。
 忘れていても、きっと思い出す。この心の裏に刻まれた思いを、きっと私は思い出すのだ。
 夢の果てにいる彼女。必ず、いつか二人は出会えるだろう。だから、その時まで何度も夢を見て、目覚めて、そして夢を見るたびに、私達は何かを手に入れるのだ。
 幸せになるために。

 彼女がほほ笑んでいる、その、夢の果てで。

――幸せになって、誰よりも。

 無駄な思いなど、どこにもない。
 長い夢が終わりを告げる。再び目覚めて、新しい夢を見るために。
 続いて行く世界(みらい)へと、歩き出すために。


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