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夢の果てで会いましょう

DREAM 4

 お父さんが来ていることを知らないまま、一郎さんと山田君は管理局へ到着していた。管理局には変化が見られないようで、白い世界に機械のようなものがある。
「ここはどことも交錯していないようだな。もうライオンに追い回されるのはごめんだぞ」
 一郎さんがメインと呼んでいる機械、管理局の一部に近づいて行く。
「あ、兄貴」
 山田君が咄嗟に声を上げた。一郎さんが振り返る。
 二人の間に、白い影がユラユラと立ち昇っていた。
 影はゆっくりと人の形になる。まるで一郎さんと山田君の新しい兄弟であるかのように、現れた人影は二人に似ていた。
「もしかして、世界が交錯したのかな」
 新たな人影に戸惑っている山田君を見て、現れた彼はぎこちなくほほ笑む。
「はじめまして」
 一郎さんは無言のまま様子を見ている。
「我々が意思の交流をするためには器が必要なものですから。二人の器を分析しました。意思の交流は出来ていますか。私の意思は伝わっていますか」
「今話している事は分かるけど」
 山田君が困惑しながら答えると、彼はまたぎこちなくほほ笑む。人として在ることに慣れていないような仕草だ。
「私はこの世界を管理し、世界の安定をはかっている者です」
「じゃあ、上の階層から?」
 山田君の問いに彼はゆっくりとうなずく。
「現在、この世界ではあり得る筈のなかった事態が起きています。我々の階層から、この世界へ干渉した者がいるようなのです」
 一郎さんの表情が厳しくなった。二人に似ている彼は一郎さんへ視線を向ける。
「こんな事はあり得ない筈でした。我々は修正しなければならない。けれど、欠けた世界が戻らなければ出来ない。このまま放っておくと、この階層から世界が崩壊します。やがて全てが崩れ去ってしまう。何としても、欠けた世界を取り戻さなくてはなりません。我々は干渉を企てた者を追跡しています。貴方達は喪失している世界を探索して下さい」
「じゃあ、管理の範囲外で今回の歪みが起こったんですか」
「はい。我々が掌握しているのは、この階層だけです。同じ階層の者が行った事はわかりません。世界がどれほど影響を受け、矛盾をきたし、歪んでしまうかは、我々にもわからない。本来あり得ない筈のない事態です。とにかく現在は、喪失した世界が必要になる。我々も追跡に全力をかけています。このままでは全てが崩壊してしまう」
 じわりと彼の輪郭が滲みはじめた。それは白い影となり、そのまま消えてしまった。山田君が大きな息をつく。
「上の世界もわからないなんて、どうするんだろうね」
 何気なく問いかけた山田君は、一郎さんの顔を見て息を呑んだ。
「兄貴、まさか」
 山田君は、思い描いていた憶測が形になりつつあることを悟ってしまったのだろう。食い入るように、一郎さんの血の気の引いた顔を見つめていた。
「帰るぞ、次郎。お前の話は後で聞くから」
 二人は管理局を後にする。山田君は何とも言えない表情で彼の背中を見ていた。
 
 
 書斎へ様子を見に行っていた瞳子さんが、小走りに居間の方へ戻って来た。
「あの、一郎が戻って来たみたいです」
 瞳子さんの報告を聞いて、一郎さんのお父さんは静かに頷いた。瞳子さんに少しだけ遅れる形で、一郎さんと山田君も居間へ入って来た。
「親父。どうしたんだよ」
 山田君は父親を見て目を丸くしている。すとんと私の隣に座った。
「一郎、おまえ」
 二人のお父さんは一郎さんを見上げたまま、哀しそうな顔をする。一郎さんは視線を伏せたまま頷いた。
「お父さん。次郎、俺の書斎へ行こう」
 一郎さんの提案に、山田君とお父さんが立ち上がった。瞳子さんは成り行きが掴めないらしく、呆然と三人を見守っている。私も彼女と同じ反応しかできない。
 重苦しい空気を纏ったまま、三人が部屋から出て行った。
 瞳子さんはただ事ではない様子に戸惑いを隠せないようだ。
「どうしたのかしら? 管理局はどうなっているの?」
「さぁ」
 残念ながら、私に聞かれても分からない。ジュゼットだけが、呑気に欠伸をしながらテレビを見ていた。
 
 
 そういうわけで、書斎にいる親子の様子へ場面転換してみる。
「一郎、私が何を言いたいのか、もうわかっているな」
「わかりません」
 一郎さんはお父さんに背を向けたまま、窓際に立っている。山田君とお父さんは部屋の中央に据えられたソファに掛けていた。一郎さんのお父さんは、ますます苦しげな表情で息子を問いただす。弟である山田君は、口を挟むことなくひたすら聞き手に回っていた。
「管理局で、上が何を求めているのか聞いた筈だ。一郎、おまえなんだろう」
「だから、何が」
 一郎さんは振り返って、苛立たしげに父親を見た。
「おまえは上が探している世界を知っている筈だ。私もあの時に気が付けばよかった。どう考えても、人の死を矛盾もなく処理が出来るわけがない事に」
「俺は知らない。瞳子の事とそれは無関係だ。上の世界でも言っていただろう。上の階層から下の世界へ干渉したんだって。だったら、俺のした事とは関係ないはずだ」
 今まで黙って話を聞いていた山田君が、迷いながらも口を開いた。
「でも、兄貴が上の階層の者に手を借りたんだろう? あのバクだって言っていた。兄貴が自分をここに呼んだって。兄貴は瞳子さんの命を繋ぐために、彼女の死を含んだ世界を食べてもらったんだ。兄貴が許可を得たのは、それからの計算だったんだろう? 上の世界は自分達と同じ階層の行動は把握できないんだ。だから、瞳子さんの死をバクが食べた事を知らないんだよ。知っているのは、兄貴がそこを埋めるために計算した世界の事だけだ。違う?」
「違う」
「じゃあ、どういうふうに、今の状況を説明できるんだよ」
「だから俺は知らないって言っているだろ」
「兄貴は知っている筈だよ。それに、知っていたんだろう、いつかこの世界の歪みが大きくなることを。あのバクが再びこの世界を荒らさなくても、いつかこの世界が崩壊する事を知っていた筈だ」
「憶測だけで物を言うなよ、次郎」
 山田君は口を閉ざした。でも、それは憶測じゃなくて事実だ。一郎さんは瞳子さんの命がかかっている限り絶対に認めないけれど、ごまかしようのない事実だ。
 一郎さんも唇を噛み締めて黙り込んでしまう。
「一郎」
 お父さんの声に、厳しさはなかった。
「私達は信じてみるしかない」
 一郎さんは何かを吐き捨てるように声を荒くする。
「だから俺はこの件に関与していない。何度言ったら分かるんだ」
「おまえは、瞳子さんの命がかかっている限り、絶対に認めないだろう。でも、よく考えて見ろ。どちらにしても瞳子さんは一度は死んだ人間だ。おまえはそれを受け入れないといけない」
「俺は関係ない」
「おまえの気持ちは、私にだってわかる。でも、瞳子さんは本来生きている筈のない人間だ。おまえは夢を見ているんだよ」
「いい加減にして下さい」
 一郎さんのお父さんは、ソファから立ち上がって息子に背を向ける。
「私だって、瞳子さんを死なせたいわけじゃない。でも、どう考えてもそれを選ぶしかないんだ」
 お父さんの声は震えていた。言葉を詰まらせるようにして、苦しげに掌で顔を覆う。彼も残酷なことを言っていると自覚しているに違いない。
 答えない一郎さんと山田君を残して、お父さんは書斎から出て行った。
 山田君がそっと一郎さんに目を向ける。
「兄貴、俺だって瞳子さんを死なせたいわけじゃないんだ。だけど、どうにもならないよ。親父が言うように、これは兄貴の夢だ。今ならまだ間に合う。それに、いずれバクが捕まったら全てが修正されてしまう。どっちにしても瞳子さんはいなくなってしまうんだよ」
 一郎さんは、何かに耐えるように拳に握った掌に力をこめた。
 固く目を閉じて、堪えている。
 彼は五年前から知っていたのだ。いつか瞳子さんの死と向かい合わなければならない事を。彼の望んだ夢は儚い。再びバクが現れた事によって、こんなにも早く崩れ去る。
 たったの五年の夢。
 五年の幸せな夢だ。一郎さんが望んだ、夢なのだ。
「兄貴。まだ世界が崩れ去るまでに時間がある。瞳子さんに全てを話すべきだよ。わずかな時間でも、本当に幸せな時間を過ごした方いい。それからでも、欠けた世界を戻すのは遅くないと思う。今なら、昔のように瞳子さんと過ごせる時間があるよ」
 山田君の声も震えていた。彼は知っているのだ。自分が一郎さんに伝えた言葉が、どれほど残酷な言葉であるのか。
 一郎さんは何も答えない。
「兄貴が話せないなら、俺が瞳子さんに話すよ」
「次郎」
 一郎さんの、何とも言えない視線が山田君に突き刺さる。
「俺だってこんな事が言いたいんじゃないんだ。でも、仕方ないだろう。だって、どう考えても、それしかないんだよ。放っておいたら、瞳子さんも兄貴も、みんな無くなってしまう。世界が崩壊するって言うのはそういう事なんだよ。この世界と瞳子さんの命。比べることが間違いだってわかってる。それでも、選ぶしかないんだよ」
 止め処なく零れ落ちる涙。山田君は声を殺して泣いていた。俯いたまま堪えるように唇をかんでいる。
「少しだけ、待ってくれないか。まだ、無理だ。俺には無理なんだよ、次郎。――まだ、無理だ」
 一郎さんの声も、震えていた。
 
 
 山田君が書斎から居間へ戻って来た。私と瞳子さんは彼の顔を見て戸惑ってしまう。赤く潤んだ目は、どう見ても泣き腫らしたあとだった。
「瞳子さん、親父は?」
「え?あの、書斎から出てくるとそのまま帰られたけれど……」
 誰もが深刻な顔をしている。瞳子さんは山田君に理由を聞くべきかどうか迷っているみたい。
 山田君は落胆したまま私を見る。私はそれで彼の憶測が形になってしまったことを悟った。山田君は再び瞳子さんを見た。
「瞳子さん」
「何、次郎君」
「兄貴の所に行ってやってくれないかな」
「一郎の所に?」
 瞳子さんは戸惑いながらも、「わかったわ」と言って居間を出て行った。私と山田君と居間で二人きりになった。彼は私の隣に腰を下ろした。そのまま座卓に額を打ち付けるようにして顔を伏せてしまう。
「あやめ」
 くぐもった低い山田君の声がした。私は彼の頭にそっと手を乗せる。
「何かあったの?」
 どれ位か沈黙があった後で、山田君は顔を伏せたまま独り言のように呟く。
「駄目なんだ。兄貴、幸せになれない。――何でだよ」
 その言葉だけで、私にもわかってしまう。私は労わるように山田君の頭を撫でる。
 山田君は自分の気持ちを整理しているのかもしれない。噛み締めるように、これまでの事情を話してくれた。こみ上げて来るものを堪えて、私は山田君の頭を撫で続ける。
 信じられなかった。
 瞳子さんが、本来は生きている筈のない人だということが。
 私がこれまで彼女と過ごしてきた時間。傍にいてくれたこと。それを不思議に思う事なんてなかったのに。彼女が生きていた事が間違いだったなんて。
 過ちになってしまうなんて。
 そんな事をどうやって受け止めればいいんだろう。
「他に方法はないの?」
 わかっていても、聞かずにはいられない。山田君は横に首を振った。
「俺だって、瞳子さんに生きていて欲しいよ。姉さんだって思ってた。それに兄貴だって。……どうして、こんなことになってしまうんだろう。兄貴はいつも親父や上の世界から、いろいろと頼りにされて、期待もされていて。そういう兄貴を妬んだ事だってあったけど。でも、俺には逆立ちしたって、そんな重い役目を務められる筈がない。兄貴は今まで、色んなことを、そのために切り捨てて来た筈なんだ。いつでも笑っていたけど、俺は知ってる。いつか、兄貴は俺にやりたい事をやれって言ってくれた。後悔しないように。おまえが自由なら、自分が救われるって、そんなことを言っていたんだ。俺はそれまで知らなかった。兄貴がどれだけ世界のために束縛されて来たかなんて。でも、瞳子さんがいたから、兄貴はやってこれたんだと思う。兄貴はたくさんの物を諦めて、切り捨てて来て、それで瞳子さんだけを望んだんだよ。兄貴の我がままなんて、それだけだったんだ。俺、こんなになるまで気が付かなかった」
「――山田君」
「瞳子さんがいて、兄貴が幸せそうだったから。……兄貴が、当たり前みたいにしていたから」
「山田君」
「幸せに、なってもらいたかった」
 彼の声が、小さな嗚咽に変わる。私の視界も、溢れ出た涙で歪んでしまう。
 何も見えない。
 涙が止まらなかった。
 
 
 場面は再び書斎の方へ転換する。
 一郎さんが、ソファに沈み込むように身を預けていた。彼は扉を叩く音に反応して身を起こす。返事をすると、瞳子さんがおそるおそる顔を出した。
「一郎、お茶を入れて来たの。入ってもいいかしら」
「瞳子か。――どうぞ。親父は?」
 一郎さんは見事にいつも通りを演じている。瞳子さんに笑うと差し出された紅茶を受け取った。
「おじさまは、もう帰ったけれど」
 瞳子さんは少しほっとしたのか、一郎さんの向かい側のソファに腰掛けた。
「次郎君がすごく落ち込んでいたから、驚いたわ。彼が一郎の所へ行ってなんて言うから、一郎も落ち込んでいるのかなと思ってたのに」
「落ち込んでいるよ、俺も」
 言葉とは裏腹に、一郎さんは笑顔で答える。翳りは感じられない。
 瞳子さんは軽く彼を睨む。
「嘘ばっかり。だいたい次郎君を泣かせたのも一郎なんでしょう」
「うーん、まぁ、そういう事になるのかなぁ」
「なぁに。兄弟ゲンカ? 何があったの?」
 一郎さんがあまりにもいつも通りだったので、瞳子さんは何のためらいも見せず彼に聞いてしまう。一郎さんは紅茶の入ったカップを傍らの卓上に置いて、じっと瞳子さんを見る。
「どうしても、俺と結婚するのは嫌?」
 瞳子さんは何を言い出すのかと、目を丸くした。
「またその話なの? 一郎も懲りないわね」
 いつものように受け流そうとする彼女に、一郎さんは畳み掛けるように続けた。
「少し、真剣に考えてほしいんだ」
「抹殺の期限がせまって来たの?」
「瞳子」
 さすがの彼女も、一郎さんの様子に戸惑いを隠せないようだ。話を逸らすこともできず、口ごもっている。
「どうしても、俺じゃ駄目か?」
「――結婚は、強制されてするものじゃないわ。一郎はそう思わないの?」
「俺は強制されているつもりはない」
「そう思っているだけよ」
 一郎さんの表情が、隠しようもなく寂しげに歪んだ。彼はそれを隠すように顔を伏せた。
「このままじゃ、いつまで経っても――……」
 一郎さんが呟く。瞳子さんにはよく聞き取れなかったようだ。彼女は膝の上で組んだ手を見つめている。一郎さんが手を伸ばして、瞳子さんの手を握った。彼女が驚いたように顔をあげる。
「俺達はいつまで経っても、一緒にはなれないな。多分、永遠に無理だろうな」
「だって、それは」
 彼は戸惑っている瞳子さんを引き寄せるように、腕に力をこめる。
「それでも、側にいてくれるなら」
 瞳子さんは突然彼に抱きすくめられて、声を上げる。
「もう、また一郎は。離して」
 彼女を抱く一郎さんの腕が震えていた。瞳子さんは肩ごしに微かな嗚咽を聞いて、それ以上何も言えなくなる。
「一郎?」
 身を寄せ合ったまま、二人はしばらく動けなかった。
 
 
 
 山田君はその夜、一郎さんの夢へ入って来ると言った。
「どうして?」
 私が聞くと、彼は苦笑する。
「兄貴の夢を操作しようと思ってさ。すごく苦しんでいる筈だから。せめて夢の中では幸せでいてもらいたいよ」
 山田君は本当に一郎さんの事を思っているんだな。彼の弟としての思いが、少しでも一郎さんを救ってくれるといい。
「そうだね。それ、私も一緒に行って良い?」
「うん。来てもらおうと思ってた」
 私達が真っ白な管理局にたどり着くと、山田君はすぐにメインと呼ばれている機械の前に歩み寄る。一郎さんの夢を操作するのに、四苦八苦しているようだ。
「どう? 一郎さんの夢を操作できそう?」
「うん、なんとか。でもこんなのは見たことがないな。やっぱり世界の歪みはかなり深刻だよ」
 白い空間の中に一つの通路が開いた。ここへ来るまでの通路と良く似ている。上下も左右もわからなくなりそうな、不思議な通り道だ。
「開いた、行こう。兄貴どんな夢を見ているだろう」
 山田君は勢いよく通路へ足を踏み入れる。
「あ、待って」
 私は慌てて山田君の腕にしがみついた。二人で通路を進んで行くと、いきなり体が浮き上がる。
「きゃ?」
 思わず声を上げてしまう。前にいた山田君が私を振り返って笑った。
「夢の中だよ、あやめ」
 あれ? でも山田君の体が透けて、向こう側が見えるんだけど。
「や、山田君。体が透けているよ」
「あやめだって透けてるよ。前に兄貴が言っていたろ。夢を渡り歩けても干渉は出来ないって。俺達は今幽霊みたいな状態になっているわけ」
「あ、なるほど」
「見てみな。兄貴があそこにいる」
 一郎さんが今の精神状態で選んだ世界(ゆめ)は、どんよりと空が曇っていた。一郎さんは独りでたたずんでいる。彼の前に広がるのは、暗黒の海。闇のように真っ黒な海だった。気持ちの良い世界じゃない事だけは確かだ。
「思っていたよりは、マシかな」
 山田君は私を振り返って苦笑した。
「じゃあ、兄貴を誘導しようかな」
 彼はじっと立ち尽くす一郎さんの前へ歩いて行く。その時、ふいに曇っている空に、ぱっかりと小さな穴が開いた。不自然な穴はみるみる大きくなる。
 私はその穴から顔を覗かせたものを見て、思わず悲鳴をあげそうになった。
 それは 巨大なカバのぬいぐるみだった。見慣れた形。バクだ。
 バクは自分が食い荒らした穴の割れ目から中へ入って来て、一郎さんの前へ飛んで来る。
「あいつ」
 山田君が舌打ちをした。私も身動きできずに、ただ立ち尽くしてしまう。カバはふと一郎さんの背後にいる私達に気がついたのか、ニタリと不気味に笑った。
「何や、マスターをここから連れ出す所やったんか」
 バクの声に気がついたのか、一郎さんもこっちを振り返る。彼はバクを見つけて一瞬表情を厳しくした。それでも私達が見えないようで、虚空と見つめ合っているバクを眺めて怪訝な顔をする。
「ちょっとだけわしに時間を頂戴や。マスターに言いたい事があるんや」
「貴方は今追跡されている身だろう」
「そうやなぁ。でもなぁ、わしが捕まっても世界は戻れへんでぇ」
「そんな筈がない」
「わしは食い荒らした世界を、器を模したこの腹の中にも持ってるけどなぁ、でも死を含んだ世界はマスターが持ってるんや。わしはマスターからもろた器はマスターに返したからなぁ。その器の中に入ったまんまや」
「でも、どっちにしても、貴方が全てを話せば上は兄貴を放っておかない。そしたら……」
 山田君はそこで言葉を切った。どちらにしても、一郎さんを苦しめる結末が待っている。
「わしはな、わしの誇りにかけてマスターの事は言わへん。マスターはそんなふうに強制されて選択するんやのうて、自分で受け入れなあかんのや。だから言わへんで。だいたい、わしはこの腹にも世界を抱えてるねんで。どっちにしてもかっさばかれて消滅や。あんたらに合わせて言うたら、抹殺やな」
「貴方は、どうしてそんな罪を」
「わしはなぁ。前から人間に興味を持っとった。それで前にもこの世界にちょっかいを出したんや。でも残念ながら、その時は同じ階層の奴らに見つかってしまったんや。それからずっと、そうやなぁ、あんたらに合わせて言うたら監獄暮らし、いうんかな。でも、それでもわしは諦められへんかった。ほんでまた企てたんや。マスターはわしの誘いにすぐ乗って来たで。恋人を生き返らせる方法があるで、言うてん」
 山田君の肩が心なしか、震えていた。拳に握り締めた手も震えている。
「お前、お前のせいで兄貴がどれだけ苦しい思いをするか、分かってそんな事をっ。いくら上の階層でも、そんな事をする権利がどこにあるんだよ。お前が兄貴に見せた夢は、一番最低の夢だ。上の者だからって下の者を傷つけてもいいなんて、そんな事は絶対にないんだよ」
 カバはわずかに笑う。山田君は怒りで顔が真っ赤に染めていた。こんなに怒った彼を、私は今まで見た事がない。でも、無理もない。私も山田君と同じ気持ちだ。とてつもなく腹が立った。
 そんな余興を楽しむような感覚で、一郎さんを苦しめる事が許されていいわけがない。
「でも、ほんだら言うけど。あんたらはわしと同じ事やってへんて言えるんか。あんたらの世界でも、そんな奴いっぱいおるやろう。どうや?自分のために他人を都合よく使う。利用する。人間にはそんな面が一杯あるやろう」
 バクの言葉に山田君は唇を咬む。本当に腹が立った。あまりにも腹が立って、言わずにはいられなかった。
「確かにそうよ。だからって、貴方がやった事が許されるわけじゃない。私達の世界では必要なのよ。全部が食物連鎖のようなものなのよ。だから仕方がないの。そんなふうに立場の違いがないと、世界が成り立たない。生きて行けないのよ。でも、貴方のやっている事は違う。貴方のは遊んでいるだけよ。それを見て楽しんいただけでしょう? そんな事許されないっ」
 バクはじっと私を見据えた。また不気味に笑う。
「ふーん、なるほどってとこやな。ちゃんと分かってる人間もおるんか。ちょっと勉強になったわ。感謝するで、お嬢ちゃん」
「貴方はっ」
 私の言葉を遮って、バクは語る。
「わしは人間がすきやねん。あんたらは信じへんやろうけど。人間が苦しんでもがいて、その先に手に入れる世界は素晴らしいねんで。わしにとっては恍惚やがな。それを見てみたかったんや。だからマスターに仕掛けてん。――なぁ、マスター」
 バクはこちらを見つめている一郎さんに向き合う。
「わしは信じてるねん。人には、あんたには乗り越える力があるやろうて。だから、わしを裏切らんといてな。わしは命懸けでマスターに託しているんやから。恍惚の世界のために、命をかけてんで」
 熱く語ってから、バクは再び私と山田君を見た。
「なぁ、お嬢ちゃん。さっきあんたは、わしは遊んでただけやって言うたけど。わしはな、その遊びに命をかけたんや。それ位は認めてほしいわ」
 彼は一郎さんに繰り返した。
「マスター、ええか。わしは上にあんたの事は言わへん。だから自分で決めるんや。わしは一人のために世界を崩壊させる事が間違えてるとは思わん。そういう世界も好きやねん。でも、わしが言うてんのは、そこと違うんや。マスターが絶望を受け入れる事が必要やって言うてるねんで。乗り越える強さの先に、見たことのない世界が続いて行くねん。彼女が死んだって、マスターは生きてるんやろ」
 バクの望みが、全て間違えているとは思えない。
 人には、立ち止まっていてはいけない時がある。
 どんなに哀しくても、苦しくても、その先には必ず世界(みらい)がある。
 バクは欠けた雲の合間をゆっくりと飛んで行った。
 山田君が大きく息を吐いた。
「あいつのやった事が許せるわけじゃないけど。でも言っていた事は、何となくわかる」
「うん」
「あやめ。俺はここから兄貴を連れ出すから、先に戻っていてよ」
「わかった」
 山田君は立ち尽くす一郎さんから、輝く光をスルリとつかみ出した。
 私はそんな二人に背を向けて、口を開いている通路に足を踏み入れた。
 
 
 慣れない通路を通り抜けて、管理局と言われている白い空間まで、私は無事に戻ることが出来た。
 けれど、ほっと安堵するのも束の間で、見つけた人影にぎくりと立ち止まってしまう。
「瞳子さん」
 彼女が真っ白な空間で力なく座り込んでいたのだ。私が駆け寄ると、瞳子さんはゆっくりと私を振り返った。
「どうしたの? 瞳子さん」
 声をかけながら、嫌な予感が急激に競りあがってくる。
 もしかして、彼女は見ていたのではないだろうか。
 一郎さんの夢の中での出来事を。
 だとしたら、彼女は――。
「あの、瞳子さん?」
「一郎の様子がおかしかったから。私も少しだけ彼の夢を覗かせてもらおうかしら、なんて思ってここへ来たんだけど」
「えっと、あの」
 私は苦しいくらいに狼狽してしまう。鼓動が高なるのが分かった。
 瞳子さんが自分の立場を知ってしまったのなら、それは最悪だ。
 彼女にとっても、一郎さんにとっても。
「私、聞いてしまったわ。あやめちゃん」
 問いかけようとした声が、うまく言葉にならない。瞳子さんは頷いた。
「本当なのね」
「あっ、ちょっと待って、瞳子さん。あの、どこから聞いてたんです? ひょっとしたら、何か勘違いしていませんか」
 私は必死に取り繕って見る。彼女はまるで動揺する私を気遣うようにほほ笑んだ。
「いいのよ。死んでる筈の私が生きてるから、今、この世界はおかしいのよね」
「だからね、瞳子さん」
「あやめ、ただいまっと。――瞳子さん?」
 背後で山田君の声がした。私は戸惑ったまま彼を振り返る。山田君はそれで状況を察したのか重い吐息をついた。
「瞳子さん。もしかして聞いたの?」
 彼女はうなずく。山田君は表情を隠すようにうつむいた。
「とりあえず、戻ろうか」
 低い声で、それだけを言った。
 
 
 私はどうしようと言う表情で山田君の顔を見る。
 彼は緊張を隠せない面持ちで、居間の座卓についた。
「いずれ話さなきゃいけなかったんだ。どっちにしても、兄貴はいずれ瞳子さんの死を認めないといけないんだから。それなら、世界が元に戻る前に、兄貴はできるだけ良い夢を見ていた方がいい。そう考えれば、瞳子さんに全てを話した方がいいだろ。彼女はこれで兄貴の想いを信じられるんだから」
「それは、そうだけど」
 最良の方法だとわかっていても、心から受け入れることは難しい。どちらにしても、一郎さんは一度瞳子さんの死を受け止めなければならない。その哀しみから逃げる事はできない。
 逃げてはいけない。
 一郎さんは、逃げてはいけないんだ。
 それなら瞳子さんは――。
「瞳子さんはどう思っているんだろう。だって、自分が死んでいたなんて、普通は信じられないし、受け入れられないよ。彼女はどう考えても、この世界のために犠牲にならなきゃいけなくなるんだよ。私なら、取り乱して泣き叫んでいると思う。その前に、信じていないだろうけど」
「うん。それは、これから瞳子さんに聞いてみないと」
「そうだね」
 私と山田君が話していると、お茶の用意を整えていた瞳子さんが居間に現れた。
 瞳子さんは座卓について、いつものように紅茶を淹れてくれる。
 ふわりと部屋の中に紅茶の香りが広がった。
「はい。お砂糖は自分で入れてね。ミルクとレモンも好みに合わせてどうぞ」
 瞳子さんは、本当にいつも通りだった。私と山田君は黙って差し出された紅茶をすする。瞳子さんも静かにカップに口をつけた。
 深刻な事態が嘘のように、それはいつもの日常風景だった。
「ねぇ。あたしは死んでいた人間なのよね。でも、どうして? どうしてあたしは今ここにいられるの?次郎君。はじめからきちんと話してもらえない?」
 山田君は持っていた白いカップを座卓の上に置いた。
「うん。いずれ瞳子さんには話すつもりだった。本当は兄貴から聞くのが一番だろうけど。それは無理だろうし」
 山田君はこれまでの経緯を、少しずつ瞳子さんに語った。瞳子さんは取り乱すこともなく、彼の話に耳を傾けている。
「一郎が上の世界の手を借りて、世界を歪めてしまったことは分かったけれど」
 山田君は全ての発端を伏せたまま、状況だけを話している。
 私は彼の意図に気付いていた。きっと彼は一郎さんの気持ちをきちんと伝えたいんだ。
「どうして一郎はそんなことを企てたの?」
 彼女のもっともな問いに、山田君は頷いた。
「瞳子さんの記憶は、兄貴が作り替えたものだから、わからないのも無理はないね。瞳子さんは覚えていないだろうけど、瞳子さんと兄貴は高校の頃に出会って、それからずっと付き合っていたんだ。二十歳の頃に瞳子さんが事故にあうまで、本当に仲が良かったよ。あの時の事故で亡くなったのは、瞳子さんの両親だけじゃない。瞳子さんも息をひきとった。兄貴はそこから全てを狂わせたんだ。瞳子さんの死をなかったことにするために。兄貴は瞳子さんの事を好きなんだよ。それは、本当に信じられない位。だから、死なせたくなかったんだ。いつか世界が崩れる事が分かっていたのに、それでも兄貴ははじめてしまった。結果はこんなことになってしまったけど」
「そんな、でも、あたしには」」
 瞳子さんにしてみれば、過去の記憶も綺麗にそろっているのだ。それが作りものであるなんて、俄かには信じられないだろう。本当は死んでいたなんて、受け入れられるはずがない。
 瞳子さんは黙りこんでしまった。懸命に気持ちを整理しているのかもしれない。
「……じゃあ、今のあたしは幻のようなものね」
 とてつもなく長く感じた沈黙のあとで、瞳子さんが呟いた。
 穏やかな声だった。私と山田君は彼女を見つめた。
「あたしね、ずっと思っていたの。一郎と結婚しないといけなくなった時から。この人があたしの事を本当に好きになってくれたらどれだけ幸せだろうって。だってね、次郎君。人間って追い込まれたら好きになる感情だって、操られてしまうわよ。そんな気になれるの。だから、あたしはいつでも。――そう、一郎に好きだと言われるたびに辛かったのよ。あたしは彼の心を束縛していると思っていたから。一郎に申し訳なかったし。あたしがいくらあの人を好きになっても、永遠に届かないと思っていた。何の掛け値もなく、あたしを好きになってはもらえないだろうって。ずっと、辛かった。このまま、いつかなし崩しに結婚していると思ったら、いつでも哀しくなって」
 瞳子さんは私と山田君に、とびきりの笑顔を向ける。
「だけど、次郎君の話によれば、そんなの物思いは全て消えちゃう事になるわ」
「瞳子さん」
「あたしはいつでも、一郎の言葉を信じたかった。でも、それは永遠に出来ない事だと思っていたの。一郎に本当に愛してもらえたら、どれだけ幸せだろうって。いつでも考えていたわ。手を伸ばしたくて、甘えたくて。でも、出来なくて。ずっと辛かった。だから、もし一郎が本当にあたしのことを愛していてくれたら、死んでもいい位幸せな事だろうって思っていたの。分かる? ――だからね、あたしは今、死んでもいい位幸せなのよ」
 微笑む瞳子さんは、誰よりも幸せそうで。
 素敵で、可愛くて、優しくて。
 そして、哀しかった。
 一郎さんの気持ちが痛いほどよく分かる。
 彼女を失いたくないと思う一郎さんの気持ち。
 それから、一郎さんを想う瞳子さんの気持ち。
 真実はあまりにも残酷で。
 だって、死んでもいいくらい幸せになれたからと言って、その命を投げ出す人がいるだろうか。
 瞳子さんは一番ほしかった想いと引き換えに、本当にその命を失わなければならないのだ。
 自分が幻にならなければならない。
 なのに、それでも瞳子さんはほほ笑む。
 死んでもいい位幸せなのよって。そんな哀しい恋が、他にあるだろうか。
 叶った時から、終わりが始まる恋なんて。
「やぁね、どうしてあやめちゃんが泣くの?」
 瞳子さんはほほ笑んだまま、私の頭をポンポンと叩いた。
「だって」
「幸せよ、あたし。本当にとても幸せ。だから泣かないで、ね」
 優しい声が胸に染みる。私は瞳子さんにしがみついて思いきり泣いていた。彼女の体は柔らかくて、暖かくて、確かに鼓動も聞こえる。
 これが幻だなんて、私は信じたくない。
「あやめちゃんたら、相手が違うわよ。次郎君に嫉妬されちゃうわ、あたし」
 瞳子さんの声は、限りなく優しかった。


 私が号泣している頃、ジュゼットは一郎さんの書斎を家捜ししていた。
「あの抜け殻はどこかしら。イチロウはずるい」
 ジュゼットはそんな不満を口にしながら、本棚の後ろや隙間を見て回っていた。彼女は電灯も付けずに、ひたすら暗闇の中でゴソゴソと抜け殻を探し回る。
「イチロウはずるい。どこにやったの? 何も取り上げて隠す事ないのに」
 書斎を手探りで捜し回っている彼女は、不毛な捜索に疲れてしまったのか、壁に凭れるようにして、その座り込んでしまう。
「ないわ。ここじゃないのかしら」
 ジュゼットは諦めたように肩を落として、再び立ち上がった。途端ごつっと鈍い音がして、ジュゼットは頭は抱え込む。どうやら何かに頭を打ち付けたらしい。
 うらめしそうに頭をさすりながら、ジュゼットは暗闇の中を見上げる。
「なぁに、これ」
 ジュゼットは壁に飾ってあった絵画を手に取った。どうやら額縁に頭をぶつけたらしい。
「絵?」
 ジュゼットは暗闇の中で絵のかかっていた壁を見上げた。
「あれ?」
 壁に不自然な穴が開いていた。どうにも暗くて良く分からない彼女は、穴に手を突っ込んでみる。。指先に触れたものを、そのままこちらに引っ張り出した。
 ポトリと音もなく、彼女の足元に何かが落ちる。ジュゼットは不思議に思いながらそれを手に取った。
「あ、抜け殻!」
 ジュゼットはついに探し物を見つけてしまった。
 胸に抱きしめると、意気揚々と書斎を出ていった。
 
 
「瞳子さんは混乱していないの? 自分が幻って、そんな事すぐに納得できる?」
 私が瞳子さんから離れると、山田君はためらいがちに瞳子さんに尋ねた。瞳子さんは変わらず笑ってくれる。
「もちろん混乱しているわ。半信半疑だもの。でもね、一郎の気持ちは信じていたい。今は信じられるの。これまでを思い返して見ても、そう考えた方が自然な事がたくさんあるわ。一郎の想いが信じられるなら、私はやっぱり死んでいたのよ。その二つが、私の中で繋がっているのよね」
「瞳子さん、一つ聞いてもいい?」
「何?」
「兄貴は瞳子さんに何もしていないの?」
「何もって?」
「だから、その――、手をださなかったの?」
 山田君は気まずそうにそんな事を聞く。瞳子さんは可笑しそうに笑った。
「あのね、次郎君。相手にその気もないのに、そういう事すると犯罪よ」
「それは、そうだけさ」
 山田君は「すごい」と息をついた。
「兄貴、よく我慢出来たな」
「何の話をしているの?」
 瞳子さんは小さく声をたてて笑う。私も「すけべなんだから」と瞳子さんと一緒になって山田君をからかった。山田君はしばらく「なんだよう」と言いながら、顔を赤くしていた。
「でも、瞳子さん。もう気兼ねなく兄貴に甘えられるよ」
「そんな余裕あるのかしらね。世界が崩れちゃうわよ。それに、いつか醒める夢なら、一郎はこのままの方がいいんじゃないかしら」
「待ってよ、瞳子さん。いつか醒める夢なら、兄貴に幸せな夢を見せてあげてよ」
 山田君の言葉に、瞳子さんは頷いた。
 彼女が一郎さんの不幸を望むはずがない。
 自分が失われてしまうのだとしても、瞳子さんは一郎さんの未来を否定するはずがない。
 きっと、誰よりも幸せになってほしい人だから。
「そうね。これからは、あたしが彼にお返しをする番よね」
 微笑む彼女は、幻のように儚げで綺麗だった。


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