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夢の果てで会いましょう

DREAM 3

 私達が一郎さんの書斎へ戻って来ると、そこには瞳子さんがいた。どうやら私達の事を心配していたみたいだ。
「どうだった?」
 彼女の質問に対する解答者として一郎さんを残して、私は山田君を引っ張って書斎から出る。
「何? あやめ。そんなに兄貴達を二人きりにしたかったの?」
 二人で山田君の部屋へ入って落ち着くと、彼は面白そうに笑う。
 かたわらに転がっていたクッションを抱き締めながら、私はうなずいた。
「だって、あの二人相思相愛なんだよ。瞳子さんだって結局一郎さんの事をすごく想っているんだもん」
 私は山田君に、瞳子さんの迷路のような想いを話して聞かせた。
「成程ね。それって最悪のパターンだよ。瞳子さんがそう思ってる限り、兄貴がどれほど誠意を持って口説いても、嘘になるようなもんだもんな」
「でしょ」
「でも、兄貴は命懸けで瞳子さんの事を思ってるよ」
「そりゃ、抹殺だもんね」
「違う違う。あやめ、これは絶対秘密だよ。聞かなかったフリをしてくれよ」
「え? 何」
「命懸けって、文字どおりそうだったんだよ、兄貴は。あやめもさっき兄貴が言ってたややこしい話を聞いてちょっと変だと思わなかった」
「え?」
「いくら俺達が管理局の補佐をやっていたって、本来は他の世界に干渉する必要がないだろう。だいたい本当は出来ない事だし。そりゃ世界を渡り歩けるけど」
「ああ、うん」
 じゃあ、私が矛盾を感じていたのは間違いじゃなかったんだ。
「でも、兄貴は思いきり計算して、上の世界が納得する干渉を企てた。それが、今から約五年前」
「何でわざわざそんな事をするの? それこそ一郎さんは大変だったんじゃないの?」
「そりゃ、大変だったよ。計算って言っても、この世界の計算とは概念的なものが既に違うわけだから」
 私ってば結構頭いいじゃない。ちゃんと一郎さんの話を理解していたんだ、一応は。
「でも一郎さん。そんな事をして何か得になる事でもあるの?」
「あるよ。瞳子さんの存在だ。瞳子さんの過去の記憶は兄貴が全部作り替えた」
「え……、ええーっ?」
「わっ。あやめ、声が大きい」
「ごめん。でも、それってどういう事?」
「瞳子さんを生かすためだよ。そのために兄貴は世界を歪める必要があった。夢であるパラレルワールドを使いまくって、瞳子さんの記憶を作り替えたんだよ。それは瞳子さん自身の過去に干渉したも同然だから、本当は管理局が許すことじゃない。でも、兄貴は管理局に許可をもらうために計算したんだ。最終的に歪みが元に戻るような歪め方を」
「でも、一人の人間の死を変えたら――。それに一郎さんと瞳子さんの子供が出来たら、もう未来はずれまくるじゃない。そんなの、絶対に後で元に戻れるような歪みじゃないよ」
「そこの所は俺もよく分からないけど。多分、かなり長い時間をかけて歪みが修正できるような干渉なんだと思う。それに、きっと完全に割り切れた計算じゃないような気がする。兄貴は瞳子さんが相手じゃないと子どもを残さないって条件を出したらしいし。だから、管理局側はある程度歪みの具合を見て、兄貴の無茶な干渉を認めたんだと思うけど」
「でも、一郎さん以外にもその遺伝子を持っている人はいるでしょ。山田君だってそうじゃない」
「だから、兄貴を切り捨てた場合に伴うリスクと、世界への干渉を許した場合に伴うリスクを考えて、軽い方を取ったんだと思う。兄貴にしてみれば、賭けだったんだろうけど」
「あ、成程」
 山田君はちょっと視線を伏せる。やり切れないというように爪を噛んだ。
「兄貴は今二十五歳だろ。瞳子さんの記憶では兄貴が二十歳の時、五年前に知り合った事になっているけど、本当は違うんだ。二人が出会ったのは高校時代で、付き合ってたんだから」
「じゃあ、瞳子さんは全部忘れているの?」
「そう。でも、兄貴は全部覚えてる」
「そんな……。でも、どうして命をくい止めるのに、記憶を塗り替えないといけないの?」
「兄貴はその事をあんまり話してくれないから、よく分からないけど。多分、彼女の死に際の記憶を消す必要があって、それを消して記憶の辻褄を合わせるには、当然その前の記憶も塗り替える必要性が出てくるだろ。だからだと思うけど」
 一郎さんは、そこまでして瞳子さんを守って――。
 でも、結果として彼女は自分の事も忘れ去ってしまった。
 そんなの、あんまりだ。
 結局、一郎さんは元通りの幸せを手に入れることは出来なかった。でも、それでも彼女を失うよりは良かったんだろうか。傍で生きていてくれるなら、それだけで、一郎さんは幸せなんだろうか。
「俺はあの時、兄貴って本当にすごいと思ったよ、大学を放って、ずっと管理局に閉じこもっていたことがある。ひたむきで、でも怖いくらい壮絶だった。兄貴は独りで世界の掟と戦っていたのかもしれない。そのまま気が狂ってしまうじゃないかって思ったよ。生半可な思いじゃ、あんな事は出来ないと思う。だから俺、瞳子さんには早く兄貴を認めてほしかったんだけど。――でも、瞳子さんがそれじゃ無理なのかな」
「瞳子さんにその事を話せばいいのに」
「駄目だよ。あやめも約束して。絶対に誰にも言わないって。ばれたら、兄貴のやってきた事が全て無駄になるような気がするんだ。いくらあやめでも、俺はそれだけは許さない」
「わかった、約束する」
「うん、ありがと。それに兄貴はきっと知ってるよ、瞳子さんの気持ち。心の底では必ず自分を想っているって。結婚が今の状態じゃ強制になってる事も知ってると思う」
 私は何だかとても切なくなってしまった。
 一郎さんは、一番辛い想い方を選んだ。
 選ばざるを得なかったんだ。
 瞳子さんをこの世に繋ぎ止めるために。
 彼は自分と彼女が一番幸せでいられた頃の思い出まで封印した。
 たとえ彼女が生きていても、元のような幸せは手に入らない。想いに行き違いが出来るのに。それが分かっていても、彼は選ぶしかなかった。
 瞳子さんを生かすために。
 ああ、駄目だ。これから瞳子さんと一郎さんに今までどおり笑うことができるかな。
「あやめ?」
 うつむいて気持ちの整理をしていた私に、山田君は座ったままの態勢でずりずりと近寄って来る。彼は間近で心配そうに私の顔を見た。まるで慰めるように、よしよしと頭を撫でてくれる。
「山田君、慰める相手を間違えているよ」
「うん。でも、あやめが兄貴の代わりに泣いてくれるから」
「そんなの――っ」
 堪えていたものが涙になってどっと溢れ出した。
 ひとしきり泣いてから、私は山田君と約束をする。
 今までどおり、二人の前で笑っていることを。
 
 
 さて、場面はここから書斎で二人きりの瞳子さんと一郎さんの所へ切り替わる。ジュゼットは瞳子さんの部屋で依然として眠り続けているみたいだ。
「一郎、どうだったの?」
「ああ。とりあえず管理局のメインが見つかったから、計算で割り切って空間を安定させて来たけど。でも、一時凌ぎだと思う。ここまで顕著に歪んでいると、おそらく上の世界の管理外で起こっているって事だろうな。一体、どうなっているんだ」
 説明をしている一郎さんの顔は、どこか暗い。
「何かあったの?」
「え? 何かって?」
「だって一郎、なんだか変よ。暗い顔をしているわ」
 彼女に言い当てられて、一郎さんは浅く笑った。
「それは瞳子さんが、いつまで経ってもいい返事をくれないからだろ」
「また、そっちへ話を持って行くでしょ」
 露骨に嫌そうな顔をする彼女の顔を見ながら、一郎さんは吐息をついた。うるさそうに髪をかき上げる。山田君と似ている栗色の髪。でも弟と違って一郎さんはわずかに癖毛だ。とても柔らかそうに見える。
「でも、本当だしな」
「はいはい。あたしはもう下に降りますから」
 書斎を出ようと立ち上がった瞳子さんの上着の裾を、一郎さんは座ったまま引っ張る。
「何? もう、また変な事をしたら今度は平手じゃすま、ない――……」
 振り返って一郎さんの顔を見た瞳子さんは、そこで言葉を詰まらせた。さすがに何も言えなくなってしまったみたいだ。
 一郎さんは寂しげな瞳をして、立ち尽くす彼女を見上げている。
 独りで秘められた真実と戦っているのかもしれない。頑なに何かを堪えているように見えた。
 自分の過去も、瞳子さんの過去と同時に塗り替えられたと、そう思い込もうとしてるみたいに。
「一郎、何かあったの?」
 瞳子さんは彼に歩み寄って、目の高さを合わせるように膝をついた。心配してくれる彼女を見ているだけで、一郎さんの想いは満たされたのだろうか。
 彼はわざとらしく「はぁ」と大袈裟に溜め息をついた。
「んー、もったいないなぁと思って。こんなに良い男が口説いているのに。もしかして、今ちょっとぐらっと来たりした?」
 全てを冗談にして、彼はいたずらっぽく笑ってみせた。瞳子さんは完全に頭に来たらしく、ズカズカと書斎を出て行く。
 取り残された一郎さんは、また溜め息をついた。
 深くて暗く、そして重い。心の底から込み上げる闇を吐き出すような溜め息。
「――世界と瞳子一人と、どっちをとりますか、一郎君」
 彼はまるで他愛ないことを問うように自問する。でも、いつまで経ってもその答えは返らなかった。
 
 
 夢を食べると言われている架空の動物、バク。私は見た事がないから、それがどんな姿をした動物なのかは知らないけれど。
 夢喰いのバク。今、世界が歪みはじめた原因は全てがそれに関係していた。夢を喰うと言う行為を、管理局や世界の階層の話として考えてみると、パラレルワールドとして在る無限の世界を食べていると言う事になる。
 バク、夢喰いの動物。あるいはパラレルワールドを喰う動物。
 でも、バクのいるパラレルワールドも無限にある。あらかじめ餌として用意された夢を貪るだけなら、その場合は何の問題もない。だから上の階層である管理局も、バクが棲む世界を何の危険性もなく認めている。
 けれど。
 もしも、山田君や一郎さんが関わっている夢。人が夢の舞台として選ぶ無限のパラレルワールド。無限にある世界の一つである夢を食べるバクが存在したのなら。
 世界は喰べられて歪み、あるいはバクが食べた穴から他の世界が流れ込み、交錯して、歪み、やがて世界は崩れ去ってしまう。
 でも幸いなことにそんなバクは存在しない。たとえ同じ階層にあるパラレルワールドであっても、自分のいる世界から、違う世界へ出入りは出来ないのだから。それこそ、一郎さんや山田君のように、上の世界が認めない限りは、絶対にあり得ないのだ。
 だから、世界を渡り歩いて、あらゆる世界を食べてしまうバクは存在しない。
 万が一存在すると言うのなら、それは、上の世界から派遣でもされた場合だけだ。この私達のいる世界で自然にそんなバクが生まれる事はない。
 上の階層で作り上げられない限り、そんなものは存在出来ない。
 けれど、世界の歪みは、そのバクによってもたらされた。
 この世界では存在するわけがなかった、そのバクによって。

 
「でも、あの巨大なカバのぬいぐるみがニタッと笑った時、私は気絶しそうになったよ」
「あ、俺も。すごく不気味だった」
 まだ目元が熱いけれど、涙は止まってくれたようだ。山田君は左手をあごに添えて、何かを考えているような仕草をする。
「でもさ、俺はあのカバのぬいぐるみ、どこかで見た事があるような気がする」
「どこかって?」
「それが思い出せない。どこだったかな」
 山田君がうーんと頭をひねっている。しばらく考え込んでみたものの記憶にたどり着けず、彼は諦めたようだ。
「もういいや。似たようなぬいぐるみなんて一杯あるだろうし」
「うん。でもね、これからどうするの? 一郎さんはその場しのぎって言っていたでしょ」
「ああ、うん。応急処置みたいだから。原因をつかまないとまたすぐに変な事になるよ。もう、なっているかもしれないけど。すでに俺達以外にも、あの魚みたいな不思議な現象を見た人がいるだろうし。どっちにしても、兄貴が管理局から指示をもらわないと」
「そっか」
「うん。……ジュゼットはまだ眠ってるのかな」
「多分ね」
 山田君の部屋でそうして話していると、噂をすれば影ってことわざの通りに扉が叩かれた。ゆっくりとジュゼットが顔を出す。
「あのぅ」
「――き」
 彼女は信じられない物を従えて現れた。
「きゃああっ」
 またしても私の絶叫が響く事になる。
 
 
 ここでジュゼットが山田君の部屋を訪れるまでの事を、少しだけ時間を戻して追ってみる。ジュゼットは瞳子さんの部屋のベッドで、例の派手なドレスを着たまま眠っていた。
 立て続けのショックの上に、管理局へ行った時にはライオンに追いかけられたのだ。お嬢様育ちであるジュゼットが気を失ってしまうのも無理はない。彼女は気絶してから、そのまま眠り続けていたようだ。
 ジュゼットは眠っている間に夢を見た。カバのぬいぐるみが何かを食べている夢。
 彼女は少し離れたところから、じっとそのカバを見ていたみたい。
 やがて黙々と何かを食べていたカバも、彼女に気付いたらしい。こっちを振り返って、そして、何とも不気味に笑って見せる。
 ニヤニヤ、ニタァって具合に。
「きゃあーぁぁぁ」
 ジュゼットは大絶叫して、そこで目が醒めた。
「ひどいやんか、そんな大声ださんでもいいのに」
 目覚めたジュゼットが一番に見たもの。それは巨大なカバのぬいぐるみだった。
 間違いなく、さっきまで夢の中で眺めていたカバ。
 彼女は今度は絶叫しなかった。さっきの今で慣れる筈もなく、あまりにも驚いて声も出なかったのだ。
 ふたたびふうっと気を失いかけた彼女に、カバは構わず語りかける。
「せっかく人が笑いかけてんのに、悲鳴あげるなんてあんまりやんか」
 そのカバは少しいじけたように前足をもじもじさせて、ジュゼットを責める。恨めしそうな声はどこかいじらしい。気を失いかけていたジュゼットは我に返ったらしく、思わずカバに頭を下げた。
「ご、ごめんなさい」
 カバはジュゼットの素直さが気に入ったのか、またニタニタと笑った。どうやらカバは不気味に笑う事しかできないらしい。ジュゼットもそれに気付いたらしく、おそるおそる手を伸ばしてカバの頭を撫でた。ふかふかの手触りが心地よかったのか、彼女はカバにしがみつく。
「気持ちいいね」
「わし、あんたの事気に入ったでぇ」
 カバは頭を撫でられたのが嬉しかったのだろうか。ジュゼットに体をすり寄せて来た。
「気持ち良い」
 ジュゼットはカバと心を通わせてしまったようだ。ぎゅうっとふかふかの胴体にしがみつく。
「あんた、ほんまに可愛らしいなぁ。わし、気に入ったわ」
 カバは完全にジュゼットになついてしまった。ジュゼットは目覚めてからの状況が判らず、とりあえずカバを連れて瞳子さんの部屋を出る。
「ちょっと、ここ狭いでぇ。食べてしまお」
「あ、駄目」
 カバが扉に食らいつこうと大きく口を開けた時、ジュゼットが彼をいさめる。
「ここは食べちゃ駄目。お腹を壊すし、それにここが潰れちゃうわ」
「わかったから、怒らんといてぇな」
 カバはうな垂れつつ、大きな体をじたばたと動かして部屋を出た。
「ほんまに狭い所やなぁ」
 小柄なジュゼットの背中を追いかけるように、カバはふよふよと飛んでいる。ジュゼットは山田君の部屋から漏れる話し声に気がついて歩みを止めた。少しためらった後で扉を叩く。
 そろりと扉を開いて、彼女は私と山田君の前に顔を出したのだった。
 
 
「ジ、ジュゼット。それ、そのカバ、カバのぬいぐるみ」
「え? ああ、ここには変わった生き物がいるのね」
 どうやら彼女はこの世界にこういう生き物がいると思い込んでいるらしい。そのままドレスの裾を引きずって部屋に入って来る。
 山田君も私も、ありえないカバの登場に固まってしまう。
 カバが、あのカバが同じように部屋に入って来ようとしているのだ。
「ちょっと、ここも狭いでぇ」
「食べちゃ駄目よ」
 カバは「んしょんしょ」と言いながら、ぐりぐりと体を動かして中に入って来る。
 カバのぬいぐるみがしゃべる。しゃべっている。
 自失している私達の前に、一郎さんもやって来た。
「あやめちゃん? 声がしたけど。わっ、何だこれ」
 一郎さんもカバを見て仰天する。カバは一郎さんを見つけると、また不気味な笑顔を浮かべた。
「マスター!マスターやないですか。なんや、えらい久しぶりやなぁ。あんたひどいわぁ。わしにあんなえげつない夢を食べさしといて、閉じ込めるねんから」
 立ち尽くす一郎さんの表情は、傍で見ていても分かるほどスウッと凍った。
「――バク」
「ほんまに、今でも吐き出したくなるでぇ」
 今まで自失していた山田君が、ふいに声を上げる。
「思い出した。このぬいぐるみ。これ、プレゼントだ。それにこれ、カバじゃなくてバクだよ」
「何の騒ぎ?」
 そこへ瞳子さんも顔を出す。彼女は「きゃっ」と小さな声を上げた。得たいの知れない物体を眺めたまま、一郎さんの隣までやってくる。
「一郎、これは?」
「瞳子は出ていろ」
 いつにない激しい口調で、一郎さんは告げる。
「え? 出ていろってどうして? それにジュゼットが」
「いいから出てろ! おまえは」
「一郎」
 バクだかカバだか分からない巨大なぬいぐるみは、瞳子さんを見て不気味に笑った。
「思い出したでぇ。彼女や」
「瞳子! 出ていろ」
「お久しぶり言うても覚えてないやろなぁ。わし、昔にあんたの過去食べてんでぇ。死の交じったまずい世界やったわぁ」
「聞かなくていい。瞳子」
「あたしの過去を?」
 訳がわからずに戸惑っている瞳子さんの腕を、咄嗟に山田君が引っ張った。
「瞳子さん。このぬいぐるみ今ちょっと混乱しているんだ。これもジュゼットと同じで、違う世界から転がり込んだみたいでさ」
「あ、そうだったのね」
 瞳子さんは納得したらしい。ほっと胸を撫で下ろしている。一郎さんは動揺する気持ちを立て直そうとしているのか、無言で立ち尽くしている。
「一郎、本当にどうなっているの?世界がここまで狂っている原因は何かしらね」
「さぁ、わからない。――バク、私と来て下さい。話があります」
「いややわ。マスターはまたわしの事閉じ込める気ぃやろ。あんたがわしをこっちに呼び込んだくせにぃ」
 何だろう。一体このカバと一郎さんってどういう関係なんだろう。
「じゃあ、悪いけど。瞳子も次郎もあやめちゃんも、それからジュゼットも、とりあえずこの部屋から出てくれないかな」
「わかった」
 すぐに山田君が反応した。みんなを促して部屋を出ようとする。
「いややぁ、行ったらあかんー」
 カバのぬいぐるみは、部屋を出ようとしていたジュゼットのドレスの裾にへばりつく。
「わし、あんたの事気にいってんねんでぇ。行ったらあかんー」
 ジュゼットは一郎さんの顔を見てから、カバの頭をよしよしと撫でる。カバがあまりにも騒ぐので、一郎さんはジュゼットだけ部屋に残すことを許したようだ。
 とりあえず、私と山田君と瞳子さんはその部屋から出ることにした。
 
 
「何だか、また変なのが迷いこんじゃったわね」
 瞳子さんは部屋を出てから、一階のダイニングで食卓に座っている私と山田君に、紅茶を入れてくれた。
「すごくびっくりした。まさかあんなカバが現れるなんて」
「そうね」
 山田君は何か考え込んでるみたいだ。紅茶をすすりながら黙り込んでいる。私はこれまでの経緯を確かめてみたくなり、瞳子さんに聞いてみた。
「瞳子さんって、ご両親は?」
「あら? そう言えばあやめちゃんには話していなかったかしら。亡くなったの、あたしが二十歳の時に交通事故で」
「そうだったんですか。ごめんなさい」
「やだ、どうして謝るの?」
「えっと、じゃあ一郎さんと出会ったのは?」
「それは両親を亡くした頃ね。一郎はあたしの担当医だったの。夢を渡り歩いて両親を亡くしたショックを和らげてくれていたんでしょうね。だけど、彼はミスをして自分が関わっている世界のことをあたしに知らてしまったのよ。それで、なし崩しに結婚の話が持ち上がってしまったわ。両親を失くしてからの生活を考えても、私が一郎のところにお世話になるのは都合が良かった。それから、ずっとその状態が続いているのよ。二年前までは、一郎達の両親も一緒に住んでいたし」
「へぇ、そうだったんですか」
「ええ。ロマンチックな馴れ初めなんてないのよ」
 瞳子さんが語るのは、作り替えられた記憶。
 二十歳の頃から始まる一郎さんとの思い出。
 幸せな思い出は、本当に全て失われているんだ。
 何のわだかまりもなく、一郎さんのことを想っていた記憶は。
 見事に失われている。
「そうだ、あたし洗濯物の取り入れに行って来るわね」
 瞳子さんが食卓から離れてダイニングから姿を消した。私の向かいに座っている山田君は、食卓で頬杖をついたまま、視線だけを動かしてこっちを見る。
「な、兄貴とは二十歳の頃に出会った事になってるだろ」
「うん」
 紅茶に口をつけると既にぬるくなっていた。私が手元のカップを眺めていると、山田君が口を開いた。
「あのカバみたいなぬいぐるみだけど。昔、瞳子さんが兄貴にプレゼントした奴だよ。もちろん彼女の今の記憶にはないけど。思い出した、俺。そう言えば兄貴の部屋にあったよ、あれ」
「あんなに巨大なぬいぐるみ?」
「あっ、違う。サイズはかなり大きくなってるけど。でも間違いないよ。あれは瞳子さんが兄貴にプレゼントしたバクのぬいぐるみなんだ」
「バク? だけどぬいぐるみだったのに、どうしてあんな変な生き物になっているの?」
「俺もそれをずっと考えていたんだけど。兄貴はひょっとしたら、取り返しのつかない事をやっているかもしれない」
「え? 瞳子さんのこと以外にも?」
「瞳子さんのために、だよ。記憶をぬり替えるためには、元の記憶を消す必要がある。彼女の死んだ世界も消す必要があるんだ。そんな事は計算したって出来ないよ。あのバクは、そのために兄貴が作り上げたか、呼び込んだんかしたんだと思う」
「そんな事は可能なの?」
「わからないけど。そうだとしたら、今世界が崩れているのはあれのせいだと思う。きっと、あのぬいぐるみは無限にある世界としての夢を食べてしまうバクなんだ。本来はこの世界にいる筈のない、絶対にいてはいけないものだよ」
 山田君はそのまま食卓に顔を伏せてしまった。くぐもった彼の声が聞こえる。
「もし俺の考えが当たっていたら、兄貴はどうするつもりなんだろう」
 
 
 私が山田君と食卓にいた頃の、一郎さん達の様子を追いかけてみる。
「どないしはったんやぁ、マスター。えらい深刻な顔してはるでぇ」
 バクはジュゼットの隣で大きな体を横にして、気軽な調子で一郎さんに声をかけた。一郎さんは吐息をついてバクを見下ろす。
「どうして、こんなことを? 貴方は上の階層の者だ。この世界で自由に世界を食い荒らすとどうなるかなんて、分かり切っているでしょう」
「だって、マスターが五年前にわしを呼んで、こっちの世界に合うこの入れ物をくれたんやでぇ」
「五年前と今は状況が違う。それに私は貴方に元の階層へ戻るように言ったんだ。閉じ込めたつもりもない。だいたい無差別に世界を食い荒らして干渉すれば、この階層から崩壊して行くのは目に見えている」
「わしは世界の管理とは関係ないからな、そんなん言われても困るわ。だいたいマスターがわしをこの世界に呼び出した事自体がルール違反やんか。上にばれたら、絶対に世界は元から修正入れられるわ。そしたらわしもこの腹の中の世界吐き出さんとならんやろなぁ。わしは別にかまへん。その方がこの世界は正しい姿してるんやし」
「そういう問題じゃない。貴方がこんなに世界を食い荒らさなければ、大きな問題にはならなかった筈だ」
「それは嘘やなぁ。なぁ、マスター、ほんまにそう思うてんの?それはそれで、マスターえらい思い違いしてるわ。わし、考えてみてん。どう考えても些細な穴も大きな穴も同じやで。欠けた所から、世界は崩れて行くんや。ほんまは誰にもこの世界を変えてしまう事はできひんねんから。それをやったマスターは、もう問題やねん」
「私は世界が崩れることを望んだわけじゃない」
「わかってるがな。たしかにわしは世界の崩壊を早めたけどなぁ。でも、違うがな。わしが言うてんのは、この世界の人間の事やがな。マスターかて人間やろ、ほんなら、本来死人を生き返らせる事なんかできひんねん。いくら哀しくても、不可能やねん。だから、一回ものすごく哀しんで、そっから立ちなおらんとあかんわ。それが自然な成り行きや。マスターのんは、違うやろ。あんたは曲げてるねんで。あんたのやってる事はだだの逃避や。わしの言うことは間違えてるかぁ」
「だから? それで今、貴方がこの世界を食いあらして歪めているのと、どう関係があるんですか」
 一郎さんは立ち上がって、山田君の部屋にある端末に向かう。カチャカチャとキーを叩く音だけが室内に響いていた。バクはじっと一郎さんの背中を見つめている。
 ジュゼットは何も言わず、バクの頭を優しく撫でていた。
「また、わしを閉じ込めるんか」
「貴方がこのまま世界を食べ荒らすと、崩壊するのは目に見えている。元の世界へ戻ってください」
「わしは別にかまへんけどな。でも、もうかなり食い荒らしてるし、それに同じやで。わしの腹の中に死がある限りは、この世界は歪んでるねん。マスター、真実を受け入れんとあかんわ。そうやないと、マスターは先に進まへん。わしの言う事、少しは考えてみてや。最後には現実を選ばなあかんねんで」
 一郎さんは無言で空間の穴を開いた。
「貴方の存在は管理局も知らない。同じ階層にあるものは、掌握できないんでしょうね。貴方がこの世界へ来ている事が知られれば、貴方は消滅して終わりです。ここから特別に道を開きます。とにかく戻ってください」
「マスター、あんた今のままやったらあかんで。ルール違反や」
 カバのぬいぐるみがどんどん縮んで行く、ジュゼットが「あっ」とわずかに声を上げた。カバは小さくなりながらジュゼットを見て、またニタリとほほ笑む。
「あんたも何か抱えてるやろ」
「え?」
 ジュゼットの大きな瞳が戸惑っていた。
 バクは続けて彼女にも告げた。
「帰りたくないってとこやなぁ。でも、あんたもよぅ考えてみぃや。それでほんまに解決するんかどうか」
「――あ」
 ジュゼットの声と共に、ポテンとその場にぬいぐるみが落ちた。お腹の所だけが、何かが詰まったように膨らんでいる。
 <それの腹には世界がつまっとるでぇ。あの死をふくんだ奴や>
「あ、待って」
 ジュゼットの呟きに、声だけが帰る。
 <わしな、あんたのこと好きやでぇ。また、会えたらええなぁ>
 一郎さんはそれを見届けて、空間の穴を閉じる。深い溜め息をついてから、彼は固く目を閉じた。
 ジュゼットが寂しそうな顔をして一郎さんを見上げる。彼は彼女の視線に気付くと、わずかにほほ笑んで見せた。
「私、よく分かっていないけど。でもさっき彼が言っていた事は、間違っていないような気がするの」
「ジュゼット。……人はね、分かっていてもどうにも出来ない事がある」
「イチロウ?」
「分かっているんだよ、俺も。ただ、どうしても感情がついていかない。それがルール違反でも。……仕方がないよな」
「ルール違反? 私が元の世界へ帰りたくないって言ったのもルール違反?」
「そうだよ」
 ジュゼットはぬいぐるみを腕に抱いて、その場に座ったままじっと一郎さんの顔を見上げている。
「そのぬいぐるみ、貸してくれないかな」
「あ、はい」
 一郎さんはジュゼットからぬいぐるみを受け取ると、暗い眼差しでそれを眺めていた。
 
 
 山田君の部屋からジュゼットが出て来た。居間に移動していた私と山田君の所へ顔を出す。瞳子さんも洗濯物を畳みながら、ジュゼットを振り返った。
「ジュゼット、兄貴は?」
 山田君が即座に彼女に聞くと、彼女は二階を指差す。
「出掛けるって、伝えてって」
「管理局か。ところで、その、さっきのカバみたいなバクは?」
「小さくなって、中身が帰って行ったの」
「中身だけ帰った?」
「ええ。抜け殻はイチロウが持ってる」
 ジュゼットが長いドレスの裾を引きずって、居間の座卓の前までやって来た。行儀良くそこに座り込む。彼女は少し寂しげな顔をしていた。
「私も好きだったのに。また、会えるかしら」
 彼女は小さな肩を落として、瞳を潤ませている。幼い仕草がいじらしい。
「俺も管理局に行って来る。兄貴にいろいろと聞きたい事があるし」
「あ、うん」
「いってらっしゃい、次郎君」
 山田君が居間から出て行った。瞳子さんは洗濯物を畳み終えると、ジュゼットに近寄って肩を叩く。
「ね、あなたが帰るのはまだ少し先になりそうだから、着替えたほうがいいんじゃないかしら。その格好だと窮屈でしょ」
「え?」
 不思議そうに瞳子さんの顔を見ているジュゼットに、瞳子さんは普通の洋服をもって来た。
「これに着替えて。きっと楽よ」
 女三人しか居間にいなかったので、ジュゼットは瞳子さんに手伝ってもらいながら、居間で着替えを始めた。
 華奢な体と白い肌。褐色の巻き毛。
 本当にアンティック・ドールのように綺麗だな。
 彼女は着替え終わると、興味深く自分の格好を見ている。
「おかしくないですか。何だか変な感じ。でも動きやすい」
 ジュゼットはパタパタと座卓の周りを駆け回る。
 こういう格好をしていると、普通の海外留学生みたいだ。私が初めて彼女を見た時にも、こういう普通の洋服を着ていたら、何も思わなかったんだろうな。お客様としか思わなかったんだと思う。
「テレビでもつけましょうか」
 瞳子さんがテレビの電源を入れる。ジュゼットは走り回るのをやめて、きょとんとそれを見ている。画面に映像が流れると、彼女は「うわぁ」と声を上げた。
「箱に人が入ってる。動くわ。これは何?誰の細工なの?」
 細工か。なるほどね。
「これはね、テレビ。いろいろな情報をくれる物、かな」
 私のいい加減な説明を聞いて、瞳子さんがくすくすと笑っている。でも、他にどう言えば良いのかわからない。
「テレビ、テレビ」
 繰り返しながら、ジュゼットは食い入るように画面を見つめている。私も同じように目を向けた。
「何か面白い番組をやっていないかしら」
 瞳子さんがリモコンに伸ばした手をぴたりと止めた。私も「あ」と声を上げてしまう。
 番組は不思議な現象についてを報じている。海外とも中継が繋がっているようだ。どうやら同じような事があらゆる国で起こっているみたい。
 私と瞳子さんは顔を見合わせた。ジュゼットは番組の内容を理解しているのか怪しいけれど、ひたすら画面に見入っている。
「やっぱり、早い事なんとかしないとね」
「そうですよね。一郎さんどうする気なんだろう。こんな騒ぎになるほど世界が歪んでいるのに、今更どうにかする事は可能なのかな。それこそ、こんなあり得ない現象を知った人達の記憶を全てぬり替えないといけないんじゃないかな」
「そうね、どうするのかしら」
 瞳子さんも座卓に頬杖をついて、小さく息を吐き出す。
 山田君の推測が事実だったなら、もうどうにもならないような気がする。この世界が崩れてしまうのを、見ているしかないような気がする。
 バクが世界を食い荒らしたとしたら、もう元に戻す術があるとは思えない。
 一郎さんは、一体どうするつもりなんだろう。
 
 
 ここで場面は、居間を出て行った山田君の状況に移る。
「兄貴!」
 一郎さんに追い付いた山田君は、呼びかけてから空間の通路を走った。一郎さんは山田君を振り返って、立ち止まる。
「次郎、お前も来たのか」
「うん。俺、兄貴に聞きたい事があるんだけど」
「俺に聞きたい事? この世界をどうやって元に戻すかだろ。それは今から管理局で」
「違うよ、さっきのバクの事だよ。あれは、いつか兄貴が瞳子さんからもらったぬいぐるみだよな」
 一郎さんの表情が、かすかに険しくなる。山田君は構わず自分の考えを彼の前に並べたてた。一郎さんは、それを聞きながら無言で通路に立ち尽くしている。
「兄貴、あれが世界を食べるバクだとしたら。そんなもの、例え一瞬でもこの世界にいていいわけがない。いくら瞳子さんのためでも、それはルール違反だろ。だいたい管理局はそんな事を許したのか」
「次郎」
「あのバクが世界を食い荒らして、それで今この世界が崩れているなら、もう元になんか戻せない。俺の言ってる事は間違ってる? 兄貴、どういう事だよ。あんなバクをどこから連れて来たんだよ」
「管理局へ行くぞ」
「兄さんっ!」
 一郎さんは、踵を返して通路を進んでいく。立ち尽くしてた山田君もやり切れない表情のままで、彼の後を歩き出した。一郎さんは、決して振り返ることがなかった。
 
 
 玄関のインターホンが鳴ったので、瞳子さんが玄関へ向かった。ジュゼットは変わらずテレビを見ているけれど、さっきよりも興味が薄れて来たみたいだ。
「おじさま。本当にお久しぶりです」
「ああ、瞳子さん。一郎は?」
「今はちょっと管理局の方へ行ってますけど」
「管理局に」
 居間に一人の男性が入って来た。ちらほらと白髪が目に付く頭髪は、きっちりと整えられている。穏やかな物腰の紳士である。山田君と一郎さんのお父さんだ。
 でも、今日は表情が険しい。緊張感が漲っていた。
 私が「こんにちは」と会釈をすると、彼は丁寧に頭を下げた。ジュゼットもペコリと頭を下げている。
「あの、おじさま。今日はおばさまは?」
「違うんだよ、瞳子さん。今日はここに顔を見せに来たわけじゃないんだ。ちょっと、一郎にね」
 瞳子さんにどうぞと促されて、彼はすすめられた座布団の上に落ち着く。
「それは、世界の異常現象の事ですか。それなら一郎が今、調べていると思いますよ」
 彼は大きく深い溜め息をついた。
 表情には、苦悩が刻まれているかのようだった。私も瞳子さんも、ただ事ではない様子に戸惑ってしまう。
「あの、一郎はもうすぐ戻って来ると思うんですけど」
 山田君のお父さんは、瞳子さんを見て苦笑を浮かべた。
「一郎が管理局へ行っても、どうにもならんよ」
「どうしてですか」
 彼は視線を伏せて、小さく呟く。
「私も、気がつかなければいけなかったんだ。――どうして、こんなことに」
 呟きがゆっくりと胸底に沈んでいく。私は息苦しさを感じて、大きく息をついた。
 山田君の憶測は正しかったのだろう。
 一郎さんは瞳子さんのために、取り返しのつかない事をしてしまったのだ。
 どうなるんだろう。このまま世界が崩壊して行くのを見ているしかないんだろうか。
 世界の崩壊。
 私達はいったいどうなるんだろう。


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