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夢の果てで会いましょう

DREAM 2

「もしかして、瞳子さんも私と同じパターンで一郎さんと結婚したんですか」
 山田君が私から離れて、また傍らに立っている。ジュゼットは瞳子さんに紅茶のおかわりを入れてもらっていた。コポコポという音が響く。
 一郎さんに新たに質問すると、彼はなぜか苦笑した。瞳子さんはそんな一郎さんを睨んでいる。
「実はね、あやめちゃん。俺と次郎が兄弟なんだよ。だから瞳子と次郎は赤の他人。まぁ、管理局が何らかの遺伝子から人材を選んでいるって話をしたから分かると思うけど。俺達の父親がそういう人だったからね。俺が山田家に養子に来たってのも嘘。だから、ほら。名前だって俺が長男で一郎。次郎は次男って意味の名前だろ。姓が平凡すぎる山田なんだから、名前位もっとシャレてくれたら良かったのにな、うちの両親も」
「兄弟? 山田君と一郎さんが? でも、あまり似ていないけど」
 でもたしかに山田君は瞳子さんとも似ていないとよく思っていたし。ああ、でもそれでかな。瞳子さんがジュゼットに変な自己紹介をしていたのは。
「俺達が似ていないのは俺が父親似で、次郎が母親似だからだろうな。俺と次郎は幼い頃から管理局で教育を受けたからね。こっちの世界と管理局とを行き来していたんだよ」
「え? じゃあ、一郎さん達のご両親は?」
「もちろん健在だよ。俺達と同じようにまだ管理局と関わっている筈だし」
 ふうん。何だか、いろいろとややこしそう。
「で、じゃあ結局、瞳子さんと一郎さんって」
「結婚なんてしていないわよ。世間ではそう言う事になっているけど。でも、あたしは一郎とは結婚していないし、するつもりもないし、彼の子供を生むつもりもありませんから。それからついでに言っておくと、あやめちゃんに次郎君と姉弟って嘘をついたのは、その方があやめちゃんの叔父さんが下宿を許してくれそうだったから」
「あ、それはわかる気がする。確かに瞳子さんが山田君のお姉さんって方が、信用できそう。変なことにならないように注意してくれそうだもんね、瞳子さんがお姉さんなら」
「でも、あたしはどっちにしても、あやめちゃんの下宿には協力したわよ」
 彼女はいたずらっぽく笑う。それから一郎さんの顔を見て、再び彼を睨んでいた。瞳子さんってば、一郎さんに何か言いたいことでもありそうな感じ。
 それにしても、彼女は一郎さんと一緒になるつもりはないって言い切ったけど。
 変なの。私は瞳子さんは一郎さんの事を好きなんだとずっと思っていた。
 だから夫婦って言うのも疑わなかったのに。あれも演技だったのかな。
 でも、それじゃどうして私がここにお世話になる事を反対しなかったんだろう。
 よく考えたら、こんな事情を抱えてる人達が、どうして私が下宿する事を勧めたんだろう。
 何だか、腑に落ちない事がたくさんあるなぁ。
「あの、今一つ不思議に思ったんですけど、どうしてそんなに人に知られちゃいけない事情があるのに、私がここに下宿することを勧めたんですか」
 一郎さんは、にんまりと笑顔を作った。
 チラリと背後の山田君に目を向ける。
「あのね、あやめちゃん」
「わぁ、兄貴。何を言うつもりなんだよ」
 山田君が背後で焦ってるけど、何だろう。
「次郎は黙ってろ。俺達の家系はね、さっきも話したように夢に関する事をやっているだろ。そこからの制限や制約はあるけど、逆に特権と言うか、保証されている事もあって。それはまず生活面の保証だ。管理局側からすると、生活が出来なくなって俺達が死ぬと、新しい人材を探したり、いろいろと面倒臭くなる。だから俺達の家系はね、管理局に関わると同時に、必ずカウンセラーになれる保証があるんだ。それは幼少からの教育で、自然と必要な知識を叩きこまれる。後は精神科医を目指して勉強する。そういう系列の大学へ入る。それだけの財力は既に両親が持っているようになっているし。だいたい親がそうだから、育つ環境によっても、そっちの方面に詳しくなるように出来ている。そんなふうに手に職をつけて、生活が成り立つようになっているらしい」
「へぇ、そうなんですか」
 言われて見れば、一郎さんが患者を受け持っているという話を聞いた事があったな。
「だから、あやめちゃんが次郎と結婚しても、生活に困る事はないよ。遺伝的にも次郎は信頼できる筈だしね」
「じゃあ、管理局は遺伝子で人間性をはかっているんですか。――たしかに責任感とかある人じゃないと駄目だとは思うけど」
「それが人間性なのかどうか、本当のところは判らない。そもそも、この世界の信頼ってのが、上の階層にそのまま通じるとも思えないから。でも、それに近いことだとは思うんだ。まるで上の世界は下の世界や人間の事なんて何でもお見通しって感じだな。ちょっと怖い気もするけど。とりあえず、山田の家系は管理局に信頼されている。それが遺伝する確率は99、9%らしいしね」
「すごいですね。でも、それと私をここに受け入れたことに何の関係が」
「焦らない、焦らない。ちゃんと話は繋がっているから」
 今ふと思いついたけど、山田君の不思議なところは、こういう世界に関わっていた事情があったからかもしれない。
 確かに普通じゃない世界だもんなぁ。
「続けるけど、俺達の世界がこの階層にあるのに、人間が不可欠な要素であるらしいんだ。上の世界は、常に下の世界を見守っていて、この世界の場合はパラレルワールドである夢を管理することによって、人を守っているという面がある」
 一郎さん、また難しい話を始めているような気がする。まぁ、例によって例のごとく、私は質問の答えだけが分かればいいから、こういうややこしい話は聞き流そう。
「はじめに夢が深層心理に関係があるって言ったけど。管理局は人が夢を見て死んでしまったりしないように守っているんだ。これ以上の夢は見せない、これ以上のパラレルワールドは選ばせないって、そういう形で夢を管理している」
「はぁ」
「それで、管理局に属してる俺達には特権があって、夢を道具として、人の憂鬱を紛らわせる事が許されているんだ。これは、そのまま人を守っている管理局の補佐って事にもなるけど。でも、こっちの世界でカウンセラーをやってる俺達には一石二鳥だろ」
「――そう、ですね」
 一郎さんは、山田君の顔を見てからかうように笑う。
「でも、管理局の許容範囲なら人間はある程度ひどい夢も見てしまうから。俺達は心にわだかまりがあったり、落ち込んでいる人の夢は選んであげるわけだ。このパラレルワールドがいいだろうってね。それで、俺はもう医者として患者がついているから、治療の一環として夢の操作をしているけど。次郎はまだ資格がないから、患者もついていない」
 私はただコックリと頷いて見せた。
「それでも、俺達は管理局に携わっているから人の夢には入れる。要するにパラレルワールドを渡り歩ける特権を持っているんだ。とは言っても、ただの傍観者でしかないけどね」
 ややこしいなりに、何かがピンと来た。一郎さんの言いたい事が分かった気がする。
「それで、次郎は一年ほど前にあやめちゃんの夢を渡り歩いたんだよ」
 やっぱり。
「そこで次郎は気付くんだ。あやめちゃんが夢として選んでいるパラレルワールドを分析すると、心の中に何かわだかまりがあるかもしれないって。それで、しばらく次郎はあやめちゃんの夢を勝手に操作していた。次郎はね、初めて出会う前からあやめちゃんの事を知っていたし、あやめちゃんが住む所が決まらなくて焦っていた事も知っていたんだよ」
「ああっ、それでなんだ。それで山田君は出会い頭にいきなり下宿のことを言い出したんだ」
 山田君の乾いた笑いが背後で聞こえる。
「そう。それに、次郎はあやめちゃんに……」
「兄貴!」
 山田君が大声を上げる。一郎さんは構わず続けた。
「一目惚れしていたんだよ。あやめちゃんの夢の中でね」
「ええ?」
 私は思わず背後に立っていた山田君を振り返る。彼は顔を真っ赤にして口元を手で覆っていた。
 嘘、これはすごく嬉しい。嬉しいぞ。
 さっきから黙って話を聞いていた瞳子さんが肩を震わせて笑っている。ジュゼットも紅茶のカップを手にしたまま、私と山田君を交互に見つめていた。
「良かったな、次郎。お前は結婚相手が決まったあげく、それがずっと好きだった女で、抹殺もされずに済むわけだ」
 一郎さんが見下すように笑うと、山田君は反撃に出たようだった。
「じゃあ、兄貴は頑張れよな。瞳子さんを口説き落とさないと兄貴は抹殺されるんだから」
「え? じゃあ、瞳子さんってやっぱり私と同じパターンになっているの? でも、それなら瞳子さんだって抹殺されるんじゃない?」
 瞳子さんはきっぱり言った。
「でも嫌なものは嫌なのよ。一郎だって命かかっているなら、あたしの事を口説き落とすのなんて簡単でしょ。誠意が足りないのよ」
 はっきりと言い切って、瞳子さんは食卓のあるダイニングから出て行った。一郎さんは吐息をついているけど。
 でも、やっぱり何か引っ掛かる。だって、瞳子さんは絶対一郎さんの事を好きなんだと思う。これまでの彼女の仕草でも一目瞭然だよ。山田君や一郎さんには分からないのかな。
「トウコ。嘘をついてるわ」
 ジュゼットがポツリと言った。じっと一郎さんの目を見て、彼女はもう一度告げる。
「だって、恋をしている瞳(め)よ。トウコの瞳は」
 一郎さんは、少し驚いたようにそんなジュゼットを見ているけど、私も彼女の言うとおりだと思う。瞳子さんは一郎さんの事を想っているよ。
「だったら、いいんだけどね。とりあえず、また頑張って口説いてみるよ」
 苦笑まじりに、一郎さんが言った。
 
 
 一郎さんが「ジュゼット嬢の事は何とかしとくから、心配ないよ。お前ら今日はデートなんだろ? だったら行って来いよ」とありがたい言葉をくれたので、私と山田君はお昼過ぎに家を出た。
 でも、少しだけ気掛かりだ。本当にジュゼットは無事に帰れるんだろうか。
「あやめ、どこへ行く?」
「とりおえずお茶がしたい。どこかお店に入ろう」
「わかった」
 山田君と私は別にどこへ行くともなく、ブラブラしている。
 これがデートって言えるんだろうかって感じだけど、まぁいいや。好きな人と一緒に出掛けているなら、それはデートだよね。
 山田君の大きな手が私の手を握ってくれている。男の子というには不似合いな逞しい手。
 私は本当にこの人と結婚するんだろうか。
 山田君もそれでいいんだろうか。
「どうしたの? あやめ」
 手身近なカフェへ入って彼と向かい合わせに座ると、山田君が私の顔を覗き込む。
 どうやら私の表情が暗かったらしい。
「ううん。ただ、こんなに簡単に結婚相手決まっちゃっていいのかなと思って」
「いいんじゃない? だって、俺はあやめの事を気に入っているし、あやめだってそうだろ」
「それは、そうなんだけど」
 あああ、どうして山田君ってばこの微妙な乙女心が分からないの。そんなに満面の笑みでもろに肯定されてしまったら、何も言えなくなるじゃない。
「あ、僕はアイスコーヒー。あやめは何にする?」
 店員さんがお水とおしぼりを持って、オーダーを取りに来た。私は「ミルクティー」と答えた。店員さんがオーダーを繰り返してから、私達のテーブルを離れて行く。
「でもね、山田君」
「え?」
「私と山田君は、まだ付き合い出してたったの三カ月なんだよ。そりゃ同じ屋根の下で一年暮らしているけど」
「別にそういうカップルはザラにいると思うけど。あやめはやっぱり嫌なの?」
「う。そ、そういうわけじゃないけど。でも、なんて言うか、ちょっといきなりで混乱しているんだと思う」
 山田君は私の言葉に屈託のない笑顔を見せる。やっぱり、どう考えても彼の事が好きみたいだ。そんなささやかな笑顔を見ただけで幸せな気持ちになれるんだから。
 惚れたほうが負けだ。どうしようもない。
「別に今すぐ結婚するわけじゃないだろ。これから二人で青春を謳歌しないともったいないし。付き合っている間に、まだまだ一杯やりたい事もあるし」
「やりたい事って?」
 初耳だと思って彼を見ると、山田君は腰を浮かせて私の耳元で小さく囁いた。
 あまりに臆面のない台詞で、私は顔が真っ赤に染まる。
「そんな人とは結婚しません」
 山田君にベーと舌を出してから、私は氷水の入ったグラスを持ち上げた。
 涼やかに氷が動く音がしてから。
 ピチャン。
「――――っ……」
 あまりにも驚いて、声も出なかった。山田君も目を丸くしている。今、この小さなグラスから七色の魚が飛び上がったのだ。そのまま、カフェの高い天井に吸い込まれて消えた。
 一瞬の出来事で、私と山田君以外は誰も気付いていないみたい。
「さ、かな?」
 やっとそれだけの言葉が出た。呆然としている私と山田君の前にオーダーしたものが届く。目の前で紅茶の湯気が立ち昇るのを眺めながら、私はゆっくりと水の入ったグラスをテーブルの上へ戻した。
「今のは何?」
「あやめ。俺、すごく嫌な予感がするんだけど」
「私も」
 ジュゼットの事が頭をよぎった。
 この世界は今、何らかの形で狂い初めているんじゃないだろうか。
「錯覚じゃないよね」
「だって、俺も見たよ」
「そう、だよね」
 しばらく息を呑むようにして、私と山田君は沈黙する。私は取り敢えず届いた紅茶に口をつけた。山田君も同じようにアイスコーヒーを口にする。二人同時に手にしていた物をテーブルの上に戻してから。
「帰ろうか」
 私と山田君は同時に、そう言っていた。

 
 私が山田君がデートしていた時の一郎さんの状況は分からない筈なんだけど、展開上ちょっと覗いてみる。
「さぁて。次郎とあやめちゃんも出掛けたし、ジュゼット嬢もそろそろ戻ろうか」
 一郎さんは私と山田君を見送った後で、食卓の椅子に座っていたジュゼットに声をかけた。
「私、戻りたくありません」
 ジュゼットは瞳子さんに伝えた事を、同じように一郎さんにも話した。一郎さんは困惑した顔をしていたけれど、やがて彼女の頭をポンポンと叩く。
「あのね、ここに居たって何の解決にもならない。君の場合は帰って思いどおりになるかどうか分からないけど、でもここに居続ける事は出来ないんだよ。ここは君のいる世界ではないし、あってはいけなかった時間なんだから」
「でも」
 泣き出しそうな顔で呟いてから、ジュゼットは椅子から立ち上がった。
 一郎さんは彼女の頭に手をのせて、労わるようにほほ笑む。
「行こうか」
 そのまま二人は食卓のあるダイニングを出て、書斎へ足を向ける。心理学関係の本をはじめとして、様々な分野の本が視界に飛び込んでくる。背の高い本棚がぐるりと部屋を取り囲んでいた。
 一郎さんはふと何かを思い出したらしく、ジュゼットを振り返った。
「ごめん。ちょっと瞳子に出掛けるって言ってくるから」
 彼はそのまま書斎を出て行って、しばらくして瞳子さんを連れて戻って来た。
「あたしも行くわ。管理局でしょ」
「人が口説いても口説いても乗って来ないくせに、そういう事には顔を突っ込むんだな」
「だって、一を知れば十知ったのも同じよ。どっちにしても抹殺でしょ」
 一郎さんはやれやれという顔をして、書斎にあるパソコンの所へ行く。山田君の説明によると、あれはパソコンではなくて管理局の端末であるらしい。
 一郎さんがカチャカチャとやっていると、やがて書斎のど真ん中に穴が開いた。きっと私がいたら声を上げているに違いない。
「いつ見ても、どうなってるのか分からないわね。この空間って」
「まぁな。行こうか」
 ジュゼットはさすがに悲鳴を上げたかったに違いないけど、おそらく声も出ないほど驚いていたんだろう。一郎さんはそんな彼女の手を取ってほほ笑むと、彼女を促して穴の中へ入って行く。瞳子さんも後に続いた。
 けれど、五分も経たないうちに、一郎さんがジュゼットと瞳子さんを引っ張ってまた書斎まで戻って来る。彼はそのままパソコンもどきの所へ行ってカチャカチャとその穴を片付けた。
 三人は肩で息をして、書斎の床にへたり込んでしまう。ジュゼットは余程驚いたのか、そのまま気を失ってしまった。
「ジュゼット? やだ、気絶してる」
「そりゃ、お嬢様には刺激が強すぎたんだろ。一体どうなってるんだ、あれは」
 一郎さんが尋ねるけれど。一郎さんが分からない事を、瞳子さんが知っている筈もなく、彼は大きな溜息をついてその場に座り込んでいた。
「一郎、腕のところどうしたの?」
 彼の黒いシャツが、濡れたように鈍く光って見える。一郎さんは言われて気付いたらしく、腕を眺めたまま、袖を無造作に肘までまくり上げた。パックリと傷口が開いて、そこからダラダラと血が流れている。
「い、一郎、それ!」
 瞳子さんは悲鳴のような声を上げて、すごい勢いで一郎さんの前に身を乗り出した。
「ヒリヒリするとは思っていたけど。途中で何かにぶちあたったから、その時に切っていたんだろうな」
「とにかく、手当てをしないと」
 瞳子さんは書斎を出ると、救急箱を片手に再び戻って来た。一郎さんの腕を取って、手当てを始める。
「でも、あの空間はどうなっているの? ひょっとして違う空間へつながっていたんじゃないかしら」
「それはないと思うよ。世界を渡り歩くときは必ず管理局をとおらなきゃならないんだから」
「そうね」
「瞳子」
「え?」
「すごく、痛いんだけど」
「あ、ごめんなさい。でも、もう少し我慢して。滲みるわよ」
「うわっ、痛」
 一郎さんはそんな声を上げつつ手当てをしてもらって、処置が終わるとほっと息をついた。瞳子さんはてきぱきと使った用具を救急箱の中へしまう。一郎さんはそんな彼女を、おもむろに引き寄せて抱き締めた。もしかして、そのまま口説いちゃったりするんだろうか。
「ちょっと、一郎」
「感謝の印だよ」
「もうっ。分かったから、放して」
 瞳子さんは顔を真っ赤にして、彼の腕の中でジタバタともがく。
「いい加減にして。放しなさいよ」
 抗う瞳子さんを引き寄せる腕に、一郎さんはますます力を込める。瞳子さんには太刀打ち出来ない。一郎さんは強く彼女を抱き締めて、言った。
「何度でも言うけど。――結婚しよう、瞳子」
 この後はさすがに、一郎さんが可哀想なので伝えられない。


 私と山田君が家へ戻ると、なぜか一郎さんの右の頬が赤くなっていた。
「兄貴、どうしたの? ほっぺた」
 山田君も不思議に思ったらしい。一郎さんは答えず不敵な笑みを見せた。
「ジュゼット嬢の言うことは絶対にアテにならないって事かな」
 私と山田君はしばらく、意味が分からずきょとんとする。先に言葉の意味に気付いたのは私だった。
「じゃあ、それって、その。……瞳子さんを口説こうとして?」
「深く突っ込まないでほしいな」
 一郎さんはうんざりした顔をする。山田君が横で馬鹿笑いしていた。
「兄貴、兄貴。頑張れよな」
 山田君ってば、激励しているのか、面白がっているのか良く分からない。それにしても、一度瞳子さんに一郎さんの事を真剣に問いただす必要がありそうだ。
 さすがに一郎さんが気の毒だったので、私は話題を変えた。
「ところで、ジュゼットは戻れたんですか」
「いや。今瞳子の部屋で眠っているよ」
「じゃあ、やっぱり戻れなかったんだろ」
 山田君もやっと笑いをおさめて、一郎さんと私の会話に入って来た。
「やっぱりって?」
「だって、この世界おかしいよ。俺とあやめが入ったカフェでグラスから魚が飛んだんだ。それでそのまま天井に吸い込まれるように消えた」
「魚?」
「あれ? 一郎さん。腕どうしたんですか」
 上着の袖から白い包帯が覗いている。
「ああ、これは管理局へ行った時にちょっとね。次郎、向こうもかなりおかしい状況になっていたぞ。あそこで世界が交わっているらしいんだ」
「ええ、交差!? それって、もう無茶苦茶じゃないの? だからグラスから魚が飛んだりするんだよ。でも、どうするわけ」
 山田君は心底仰天した声を上げる。私にはどれだけ重大な事なのかよく分からない。
「どうするっても、原因が分からないし。管理局があれじゃあな。でも、このまま放っておくと世界が崩壊するかもしれないし。でも俺達に何が出来るかって事になると、何も出来ないってのが答えだ」
「兄貴が何も出来ないなら、俺だって何も出来ないよ。だいたい兄貴がマスターなんだから。マスターで分からないことなら、俺達の親父だって分からない」
「そういう事になるな。でも、まぁ、年の功ってのがあるからな」
 言い忘れていたけど、山田君の言うマスターとは、管理局について一番詳しい人のことだそうだ。
 私は山田邸の和室で座卓に頬杖をついて、よくわからない二人の会話を聞いていた。
「一郎」
 瞳子さんが居間の扉を引いて顔を出した。何だか彼女の背後に冷たい空気が流れていると思うのは私だけだろうか。一郎さんを呼ぶ声もどこか冷たい。
 一郎さんってば、一体どういう口説き方をしたんだろう。
「お父様からお電話よ」
 うわー。瞳子さん、怒ってる怒ってる。完全に怒ってる。
「親父から? そりゃまた、良いタイミングだな」
 一郎さんはケロリとした様子でそのまま居間を出て行った。
 山田君が肩を震わせて笑っている。
「どうしたの?」
「いや、兄貴。瞳子さんにかなり気を遣ってる。だって、電話はここでも取れるんだから」
「あ、そっか」
 そうだった。子機はここにもあるんだから、ボタン一つで解決するんだ。私が一郎さんの事を心の中で気の毒がっていると、瞳子さんが座卓へ歩み寄って来る。そのまま座布団の上に座った。
「俺も、親父と兄貴の電話が気になるし。行ってくるよ」
 瞳子さんと入れ違いに立ち上がって、山田君も居間から出て行った。
 私は向かい側に座っている瞳子さんに目を向ける。
「瞳子さん。一郎さんに口説かれたんでしょ」
「そうよ。でも、そんなの日常茶飯事よ。それに何度口説かれても同じ。今のままじゃね。油断も隙もないんだから」
「でも、どうして? 瞳子さんは一郎さんの事を好きなんでしょ?」
「あやめちゃん?」
 瞳子さんはひきつった笑顔で私を見るけど。
「だって、私は一郎さんと瞳子さんは夫婦だと思っていたもん。ずっと疑わなかった。その方が自然だった」
「あれは演技よ、演技」
「どっちにしても一郎さんなら、何も文句ないじゃないですか。彼は瞳子さんの事を好きなんだし」
 瞳子さんは小さく息をつく。何だろう。瞳子さんは一体何を考えているんだろう。
「あのね、あやめちゃん。あなたの場合は結婚が決まる前から次郎君とはっきり相思相愛だったわよ。でも、あたしは違うの」
「え?」
「一郎があたしと結婚したがるのは、一重に命がかかっているからよ」
「え?」
 私はぽかんとしてしまう。瞳子さんって――。
 実は瞳子さんってすごく可愛い人かも。なんて思ってしまう。
「何を笑っているのよ、あやめちゃん」
「だって、瞳子さんってば可愛い。それって、単なるこだわりでしょ」
「こだわりって言っても、本当の事だわ。それってあたしも可哀想だし、好きな女性と結婚出来ない彼も可哀想よ。たしかに抹殺されたらおしまいかもしれないけれど」
「でもでも、一郎さんが、そういう事情を抜きにしても瞳子さんに惚れているって言うのは一目瞭然じゃないですか」
「だからね、あやめちゃん。結婚しないと命がないのよ。だったら無理矢理にでも好きになるでしょ。そういうのって、嫌だわ。お情けみたいで嫌なの、あたしは」
 私は自分の顔から笑みが引いて行くのが分かった。
 だって、駄目なんだもの。
 どれほど一郎さんが本気で彼女を好きでも、瞳子さんは絶対に信じない。
 パラレルワールドや管理局。そんな世界と関係がある限り、抹殺と関係がある限り、絶対に一郎さんの思いを信じられない。
 そして、彼を受け入れられないのだ。
 瞳子さんが一郎さんを好きでも、駄目なんだ。
 彼女がそう思っている限りは、絶対に一郎さんの想いは真実にならない。
「でも、一郎さんは絶対に瞳子さんの事を好きだよ。見ていたら分かるもん」
 これしか言えない。それに、これは本当の事だ。本当なのに。
「命がかかっていればね、好きになるしかないわよ」
 瞳子さんはほほ笑むけど。何て哀しい言葉だろう。どうにかならないんだろうか、この二人。
「やっぱり親父も何も分からないじゃないか」
 山田君の声がして、再び居間の扉が開いた。二人が電話から戻って来た。
 瞳子さんはすぐに背中に冷たいものを背負って、一郎さんを軽く睨んでいるけど。
 本当にどうにかならないだろうか、この二人のすれちがい。
「あれ? あやめ、どうしたの。怖い顔して」
 山田君は私を見るなりそう言う。一郎さんが瞳子さんを見た。
「瞳子、あやめちゃんに何か言ったのか?」
「別に」
 一郎さんはやれやれと言う顔をしている。山田君が横で「どうしたの」を連発しているけれど、それを無視して私は座卓についた一郎さんに聞いた。
「一郎さん、瞳子さんのこと好きでしょう? 本当に好きですよね」
「どうしたの? あやめちゃん」
 彼は驚いた顔をして私を見るけど、繰り返した。
「瞳子さんのこと、本当に心から好きですよね」
「まぁ。口説き落とそうとしている位なんだから……」
 一郎さんは肯定してくれるけれど。
 でも、駄目なんだ。
 どんなに一郎さんが口で言っても瞳子さんには届かない。
「どうしたのってば、あやめ。兄貴が瞳子さんを好きだと、何?」
 瞳子さんは依然として冷たい空気を背負ってる。山田君は私の顔を覗き込んでいた。
「あたしは絶対に一郎のことを好きになりません」
 瞳子さんは不敵な笑顔で、はっきりと伝えた。
 一郎さんは溜め息をついて「はいはい」なんて言っているけど。
 悔しい。本当にどうにかならないんだろうか。このままじゃ、いずれ結婚しても、いつまでも瞳子さんはそれを仕方ないとしか思えないだろうし。きっと一郎さんに素直に接する事も出来ない。
 甘えることも出来ないんだ。
「一郎さん、瞳子さんの事どれ位好きですか」
 一郎さんがひたすら私の見幕に目を丸くしてるし、瞳子さんも横で「あやめちゃん」と声をあげて戸惑っているけれど、でも、悔しいんだもん。
 私は一年間ここで下宿して、一郎さんと瞳子さんがどういう人なのか知っている。この二人の事がすごく好きだ。
 好きだから、絶対に幸せになってほしいのに。このままじゃ駄目なんて、そんなの絶対嫌だ。
「あやめちゃん。本当に、どうかしたの?」
「そうだよ、あやめ。どうしたんだよ」
「山田君なら一郎さんがどれだけ瞳子さんの事を好きか知っているよね」
「え? ああ、うん」
 どうにかして瞳子さんに分かる方法はないだろうか、本当に。
「だって兄貴は本当に命懸けだから」
 違う。私が聞きたいのは、そういう事じゃなくて。
「だいたい兄貴は彼女のために」
「じ・ろ・う」
 冗談めかしているけれど有無を言わせぬ声音だった。一郎さんが山田君の言葉を遮る。
 一郎さんは浅く笑っていたけれど、まるで何かをごまかすような笑顔に見えた。
「おまえは今、何を言いかけたのかなぁ」
「あ、ごめん」
 山田君もハッとしたように咄嗟に口を閉ざして謝った。
 何だか、変だ。
 張り詰めた空気が流れていると思うのは気のせいだろうか。
「あんまりお兄さんをからかっていると、そのうち痛い目を見るよ、次郎くん。そりゃ、おまえはあやめちゃんとうまく行ったから、幸せさんかもしれないけどねぇ」
 一郎さんはあくまでも冗談めかして言っているけれど。
 何だろう、違和感がある。
 瞳子さんは大きな溜め息をつくと、またスパッと言い放つ。
「どっちにしても、一郎と私に幸せな時は来ないわよ。それで? 一郎達のお父さんは何て言っていたの?」
 あああ、瞳子さんってばきつい。一郎さんってば、本当に気の毒。でも、本当は瞳子さんだって辛い立場だし。結局は二人の問題なんだけど。でも、ね。
「ああ、親父もかなり驚いたみたいだよ。まぁ、今の管理局の状態を見れば誰でもそう思うだろうな。ジャングルのようなものなんだから」
「ジャングル?」
「そう。うちの親父もさすがに、どうすればいいか分からないから電話をかけて来たようだけど。マスターの俺でも、管理局から指示をもらえないとどうにもならない。だいたいジュゼット嬢がこの世界に長く居過ぎるのも、良くないだろう。今は、それどころじゃないけど。」
「ジュゼットがここに長居して、この世界の人間と接触するとやばいもんな。接触することによって、他の世界の人間に干渉されたことになってしまう。そのまま、あり得ない未来が作られるわけだし」
「え? でも、じゃあ山田君や私は?ジュゼットと接触してるよ。世界が違うのに」
「俺達は管理局に属しているから例外だよ」
「あ。そうなんだ」
「兄貴。取り敢えず、もう一度管理局に顔を出してみよう。もしかすると、もう元に戻っている可能性だってあるし」
 山田君が言うと、一郎さんはそうだな、と言って立ち上がりかける。
「待って、一郎。危険よ。また怪我をしたらどうするの?」
「おや、心配してくれるんだ。少しは脈有りかな?」
 途端に瞳子さんは顔を真っ赤にした。こう言うと悪いけど、どうして一郎さんは瞳子さんの気持ちが分からないんだろう。こんなに態度に出ているのに。
 このさい、何も考えずに瞳子さんを押し倒しちゃえって吹き込もうかな。
「勝手にいってらっしゃい」
 瞳子さんはますます冷たいモノを背負って、一郎さんの方を見ようともしない。
「あの、今から管理局へ行くなら私も一緒に行っていいですか」
「構わないけど。少し危ないかもよ」
「平気です。行ってみたい」
「いいのか、次郎」
「いいよ。あやめは僕が守ってみせよう、なんてね」
「はいはい」
 一郎さんは弟を軽くあしらって居間を出る。私と山田君も瞳子さんを残して居間を出た。

 
 一郎さんの書斎で、私は今、管理局に続く空間の穴を見ている。
「な、ななな、……」
「あやめ、あやめ。しっかりして」
「何、これっ」
「簡単に言うと空間を超える通路かな。でも、あやめちゃん。それで一緒に来て大丈夫? ジュゼット嬢みたいに気絶するかもよ」
「え? そんなに恐ろしい世界なんですか」
「恐ろしいって言うより、あやめちゃんの持ってる常識が通用しない世界かな」
「は、はぁ」
 緊張している私の肩を、山田君がなだめるように叩く。
「大丈夫、大丈夫」
「うん」
 私は一郎さんと山田君の後に続くように、穴の中へ足を踏み入れた。
「ううううう、浮いてる」
「あやめ。落ち着いてって」
「だって、だ、だって」
 確かに歩いてはいるけれど、見たところ足は床にも地面にも触れていない。
 何よ、これは。どういう重力が働いているわけ。
 さんざんわめいて、山田君の背中にしがみついた状態で進んで行くと、やがて視界がぱっと開けた。
「うわっ。何だよ、これ」
 さすがに山田君もびっくりしたようだけど、おそらく私の驚きと彼の驚きは次元が違うんだろう。ジャングルというか草原と言うか、ひたすら視界の許す限り草が生えていた。
「だから言ったろ。管理局もおかしな状態になっているって。俺はさっきライオンに追いかけられたぞ」
「ラ、ライオン?」
「あやめちゃん。気絶したいんじゃない?」
「い、いえ。大丈夫です」
 これはもう何も言えない。サンサンと太陽が輝いていたりして。所々草木が絡まって大きな塔のようなものを形作っている。絡み合う蔓や蔦は、たしかに熱帯雨林に似合いそうな光景だった。
「兄貴、ここ。この植物の中に管理局のメインが埋まってる」
「どれどれ」
 二人は草を引きち切ったり、かきわけたり、なぎたおしたりして一つの大きな機械を露出させた。
「よし、メインだな。ちょっと待ってろよ」
 一郎さんは何かを操作しはじめたようだ。山田君と私はそれを見てる事しか出来ない。
 彼はかなり長い間一人で機械もどきと戦っていたので、やがてそれを見ているのに飽きた山田君が周辺を所在無く歩き回る。
 私もその場に座り込んだ。
「何だ、あれ?」
「どうしたの?」
 山田君がじっと目を凝らして一点を見つめているので、私もそっちの方を見る。草原とジャングルの入り交じった果てしない空間の彼方に、気球のように何かが飛んでいた。
「カバ、か」
 山田君は呆然とした面持ちで呟いた。
 それはフヨフヨと飛んでいた。
 山田君の言葉もうなずける。可愛らしいぬいぐるみのカバが飛んでいたのだ。結構大きいように気がする。人間位の大きさはありそうだ。
「うん、カバだね」
 そのカバはふいに私達の存在に気付いたのか、フヨフヨと飛びながら方向転換をしてこっちを向いた。
 そして、ニヤリと笑う。
 ぬいぐるみのカバが笑う。
 不気味な笑顔だった。そのままこっちへフヨフヨと飛んで来る。
「き」
 不思議だけど、人間って究極に恐ろしい時は、何も考えていない。
「よしっ。ひとまず空間は修正できただろ。一時しのぎだけど」
「きゃあああぁぁぁぁ」
 一郎さんの声と私の絶叫が重なった。
「あやめちゃん!」
 一郎さんが素早くこっちを振り返った気配がした。私はもう飛んで来るカバから目が離せない。山田君も固まったままカバを見ている。
「えっ」
 一郎さんもそのカバを見て、小さく声を上げた。途端にパッと世界が変換される。白い部屋の中に一郎さんと山田君と私が立ち尽くしている。空も草原もカバも消えた。
「え」
 呆然自失のまま、私はかすかに声を漏らした。
「あ、管理局が」
 山田君が、がくっとその場に脱力して座り込む。私も少しずつ思考が戻って来た。ゆっくりと一郎さん振り返ると、彼はどこか険しい顔をしていた。
 山田君は溜め息をついてから立ち上がると、彼の側へやってくる。
「兄貴。世界は戻せたの」
「あ、ああ。一時的にな。メインで計算して割り切ったよ。でもその場しのぎだ。原因を究明しないとな」
「さすがマスターだね。空間の修正を計算出来るなんて。やっぱり兄貴はすごいよ」
 山田君の称賛に、一郎さんはかすかに笑ったようだった。自嘲しているような笑顔。どうしたんだろう、一郎さん。
 計算がそんなに疲れたんだろうか。
 とりあえず、一時的にでもズレを直せたなら大したものだと思うけど。
「ねぇ、山田君。この管理局って上の階層の生命体なの?」
「さぁ、わからない。俺達が勝手にそう思ってるだけ。でも、まぁ、一番適切にはここってやっぱり管理局だろ」
「うん、確かに管理局って感じ」
 機械がずらりと並んでいるわけではない。本当にどこまでも白い部屋だった。
 白い空間。
「それに、あやめ。空間の計算なんて、本当は俺達では扱えない範囲なんだ。でも、兄貴だけは特別。上の階層が最終的に辻褄が合うと認められる計算なら、大丈夫なんだって。で、そういう計算が出来るのはマスターである兄貴だけ。でも、俺の親父がマスターだった頃はそんな事出来なかったらしいけどね」
「へぇ、じゃあ一郎さんってすごいんだ」
 一郎さんは苦笑した。
「すごくないよ。昔はどんなに計算をしても、全て管理局に処理されてしまっていたし。要するに、根気と慣れじゃないかな。だいたい本当は上の世界は下の事を何でも掌握しているんだ。でも、全てを規制せずに、ある一定の管理しかしていない。俺達の階層について、上の階層は世界同士の干渉にすごく厳しいんだ。世界に干渉することによって一つ歪むと、そこから未来が歪む。それに伴うパラレルワールドも歪む。しかも、その歪みは無限に増えて大きくなる。だから、俺達がこの世界で補佐をしていても、他の世界に干渉する事は禁じられているし、本来は不可能なんだよ。それでも、もし干渉をするとすれば、それこそ、何でも全てを掌握している上の階層が、大丈夫って認める位の計算をしないとね。それが出来れば干渉も認められて、出来ない筈なんたけど、やってもいいって事になる。そのためには、企てた干渉が、後で元どおりの世界に戻って来るような、そういう歪み方でなければならない。後の時間の流れで自然消滅するような歪みって事かな。それを計算しないといけないんだ」
 一体全体、それってどういう計算なんだろう。
 一郎さんってある意味で、上の階層の頭を持った人なんだろうな。1+1=2とか、そういう計算とは違う概念の計算なんだろうな。
 でも一郎さんは前に、補佐をしていると言っても大それた事はしていないって言っていたのに、どうしてそんな計算が出来ないといけないんだろう。
 だいたい世界の管理は上の階層が仕切っているはずだから、一郎さんはそこまで関わらなくてもいい筈なのに。
 別世界への干渉だって、上の階層が許さないからやりたくても出来ないって事みたいだし。実際、しなくてもやっていける筈だ。カウンセラーとして夢を渡り歩いてる時も、傍観者だから干渉は出来ないと言っていた。
 今はこの世界が歪んで、ジュゼットが迷い込んだり。七色の魚が飛び上がったり。
 状況が状況だから、そういう難しい計算が出来るのは有り難いけれど。
 本来ならば、一郎さんが世界に干渉する必要なんて、どこにもなかったはずじゃないのかな。
 変なの、少し矛盾している。それとも私が一郎さんの言っていたことを全部理解していなかっただけかな。きっと、そうなんだろうけど。
「あ、ごめん。またややこしい話をしていたね。別にあやめちゃんは分からなくてもいいんだよ」
「はい。適当に聞き流していますから。頭がパンクしちゃうし」
「兄貴の言っていることは、俺でも全部分かっていないよ」
 一郎さんは少し笑って、それから独り言のように呟いた。
「でも、やっぱり俺は取り返しのつかない事をしたのかもしれないな」
「え?」
 一郎さんは、自嘲的にほほ笑んでいた。そのまま冗談っぽく私と山田君の頭をはたいて、今度はくっきりとした笑顔になる。
「とにかく、今はそういう根本的な法則が崩れていて、危険だって事だよ。世界が交差するなんて互いの世界が干渉している以外の何物でもないんだから。とりあえず、一度戻ろうか」
 そういうわけで、夢の管理局を後にした。


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