目次 * あとがき

夢幻旅行

――もう一度、声を聞きたい。会いたい。

 その夜も泣き明かした。
 食卓に伏せて一夜を明かした私は、涙と鼻水で汚れた顔をあげた。放り出してあった携帯電話に手を伸ばす。
 (受信メール1)を見つけて、慌ててメールを確かめる。
(あなたの思い出を買います)
 期待を裏切られて、すぐに小さな画面が涙で滲む。涙が溢れてきて止まらなくなった。どこからやってくるのか判らない迷惑メール。勧誘文句が無性に腹立たしくなる。
 涙のせいでますます視界がゆらめいた。碌に続きに目を通さないまま、ヤケクソになって(売ります)をクリックした。売れるものなら、全て売り払ってしまいたい。
「思い出なんて、いらないよ」
 投げ捨てるように携帯を放り出す。辺りを涙で濡らしながら、私は再び眠りに落ちた。


 目が覚めたのはインターホンの音だった。食卓を照らす陽射しが、不自然なくらいに眩い。私は時計を見て仰天する。長針と短針がぴったりと重なっているではないか。
「うわっ、遅刻」
 悲鳴をあげて椅子から飛び上がると、もう一度インターホンが鳴った。
 どうやらはじめに聞いた音は夢の続きでも空耳でもなかったようだ。どうせ何かのセールスに決まっている。相手をしているような暇はない。洗面所に駆け込むと、再びインターホンの音がする。訪問者の存在に思い切り気をとられつつも、私は出勤の仕度を着々と進める。大遅刻なのだから当たり前だ。ともかく一度会社に連絡をいれなければ。
 食卓の上に転がっている携帯電話に手を伸ばしたとき、まるで見計らったように着信音が鳴り響いた。私はぎょっとしつつ、遅刻の言い訳をあたふたと捏造する。
 絶対に上司からの怒りの電話に決まっている。と、同時に。
 ピンポンピンポンピンポン。
 諦めの悪いインターホンの音がけたたましく鳴り響いた。あまりの激しさに不安になったが、今は電話に出ることが先決である。ポピッと通話に応じると、怒声が響き渡った。
「こらあっ。約束をすっぽかすつもりか。どういう了見だ」
「は?」
「時間がもったいないから、迎えに来た。ほら」
 と同時に、ピンポンとインターホンが鳴る。
「俺だよ、俺。ここまで来ているわけ」
 と電話からの声。
「……は?」
「は?じゃないだろうが。寝ぼけてるのか?まさか今まで寝ていたんじゃないだろうな」
 申し訳ないが、どう考えても状況が呑みこめない。そもそも、あなたは誰なのだ。
「あの、どちら様でしょうか」
「はぁっ?」
 受話器の向こう側で、素っ頓狂な声があがった。


 結論から説明してみると、私は本当に思い出を売り飛ばしてしまったらしい。押しかけてきた男は、私の彼氏だと言う。警戒する私に男はアルバムでも見てみろよと提案した。仕方なくアルバムを持ち出すと、たしかに男と私の仲睦まじい写真が大量にあった。これは誰が見てもバカっプルの写真だ。恥ずかしいくらい仲良しだ。
 どうやら職場の人間関係で煮詰まっていた私は、有給を取って彼と旅行へ出掛けることになっていたようだ。職場に電話をかけてみると休暇中であることは間違いがないらしく、上司からも調子はどうだと労わられてしまった。
 彼氏だったという男に真相を明らかにされて、私はようやくおずおずと彼を部屋に招きいれた。彼は慣れた仕草でソファに座ると、腕を組んで唸っている。
「えーと、何だって?昨夜、泣きながら携帯で思い出を売ったって?」
「――うん、多分。なんとなく覚えているんだけど」
 目の前の彼氏だった男は、怪訝な顔をしてこちらを見る。私だって自分の言っていることがどれくらい非現実的かわかっているのだ。けれど、他に思い当たることがない。
 彼氏であったはずの、彼の顔。どこからどう見ても見知らぬ男にしか見えない。
「本当に、俺のことを覚えていないと」
 警戒心の解けない私とは違い、彼の様子は打ち解けていた。そう思って眺めていると、この部屋にいることには違和感がないような気がする。その自然な感じだけが救いだった。
「本当に?冗談じゃなくて?」
「冗談だったら、嬉しいよ」
 とにかく自分の携帯電話を突き出す。彼は折りたたまれた機種を開いて、不可解なメールを確かめた。それからゆっくりと顔を上げる。真面目な顔をしていた。
「泣きながら寝たって、その理由は覚えているのか」
「わからない」
「思い切り泣いて、自暴自棄になってメールをクリックしたら全て忘れていたと。そういうことだよな」
 私はただ頷いた。思い出を売り払ってしまったとは思わないけれど、記憶障害であることは間違いがないだろう。
「思い出を売るとか、そんなファンタジーはともかく、何か途轍もなく嫌なことがあったのかも。二度と思い出したくないような」
 よくわからないという顔をしている私に、彼は困ったように苦笑した。
「――それしか考えられないだろ?」
 それはたしかにそうだと思う。


 私達は海にやって来た。出鼻をくじかれたものの、せっかくだから休暇を楽しもうというのが彼の提案だった。病院に行くとか、現実的な行動は後回しらしい。私自身もそれほど不自由を感じていない。大変だ、一大事だと大袈裟に振る舞うほうが、かえって滑稽な気がする。彼は能天気な人だった。
「何かの拍子に思い出すかもしれない」と言って、他に人影のない砂浜に座り込んで私を見上げる。砂浜は夏の熱砂が嘘のように失われていた。
「思い出を元に戻す薬とか治療なんて、訊いたことがないだろ。病院に行こうが、遊んでいようが同じだって」
 不安に思わない理由の一つが、彼の存在なのかもしれない。ここに来るまで何度も感じた。私は彼のことを知っているのだ。思い出は失われたままなのに、彼が隣にいることに安堵した。呼吸をするように隣に触れる気配が肌に馴染んでいる。
「なぁ。思い出がないって、どういうことだろう」
「どういうことって、記憶が障害を起こしているっていうことじゃないの?」
「なんて言えばいのかな。それってさ、すごく寂しいことだと思わないか」
 突然ロマンチックなことを言い出した彼の横顔を、しげしげと眺めてしまう。
「この海、おまえと来たことがある場所なんだ」
 思わず辺りを見回した。ゆったりとたゆたう波が、緩やかに寄せては返す。飛沫が波打ち際で輝いていた。海と空の境界がひときわ青い。美しい光景だ。
 残念ながら私には心当たりがない。けれど、彼にとっては思い出深い場所なのだ。忘れているだけで、私にとっても大切な思い出だったのかもしれない。
 突然、彼に対して申し訳ない気持ちが込み上げてきた。
「……ごめん。私、何も覚えていないみたい」
「うん。おまえの中では、全てなかったことになっているからな」
 彼にとっては寂しい事実なのだろう。私は思い出の中に在った彼を殺してしまったのだ。
「ごめんなさい」
「どうして謝るんだ?」
「だって、彼氏の立場としては、すごく寂しい気持ちになると思う」
 彼は哀しそうに眼差しを伏せて吐息をついた。
「本当に寂しいのは、俺じゃないと思うけどな」
 波の音に負けそうな声で呟いてから、彼はスボンの砂をはたきながら立ち上がった。
「とりあえず、この小旅行は思い出を探す旅ってことにしよう」
 迷わず頷くと彼が笑う。私も自然に微笑むことが出来た。


 海を後にしてやって来たのは、瀟洒な旅館だった。どうやらここも彼と二人で訪れたことのある場所らしい。けれど、やはり私には心当たりがない。真新しい発見に満ちている。
「はー、風情のある旅館だね」
 磨き上げられた板張りの廊下は、内庭を囲い込む回廊のようになっていた。手入れの行き届いた庭園の様子には、都会の喧騒など微塵も感じられない。まるで異世界のようである。圧倒されたり感動したりする私を見て、彼は笑っていた。
「前に来た時と、全く同じ反応だな。おまえがすごく気に入っていたから、今回の休暇もここに来ることに決めていたんだ。……だから、気に入っただろ?」
 飽き足らずに感動しまくっている私に、彼は露天風呂があると説明してくれた。そこが更に私のお気に入りだったらしい。案内された部屋に荷物を置くと、さっそく彼と露天風呂へ向かう。浴場にたどり着くと、彼と別れて女風呂の大きな暖簾をくぐった。大浴場の印象はなく、品の良い造りになっている。とうとうとお湯が注がれている湯船に、暮れかけた空の黄昏が映っていた。揺らめいて輝き、それは忙しなく形を変える。
 湯船に浸かりながら、私は思い出を失ってからはじめて独りきりになった。
 失われた思い出。彼という存在の全て。
 あの海の情景も、この旅館の風情も、露天風呂からの素晴らしい景色も、何も残っていない。美しい思い出の全てを巻き添えにしてまで、いったい何を忘れ去りたかったのだろう。まるで過去につながることのない未来を夢見るように。
 私の未来(あした)は、どこに続いて行くのだろう。
(あなたの思い出を買います)
「そういえば……」
 ろくに目を通していないが、あのメールには、続きがあったような気がする。
 訪れた彼に手渡した携帯電話。彼がメールを確かめていたのを思い出す。
 私は急に不安になって露天風呂を後にした。


(あなたの思い出を買います。代価としてあなたの望みを叶えます。ぜひ、素敵な夢を見てみませんか)


 旅館の部屋まで戻ると、座卓の上に豪勢な料理が用意されていた。
「すごい料理」
 卓上に並んだ品々に目を奪われて、思わず目を輝かせてしまう。彼は既に風呂から戻っていたらしく、座卓についたままこちらを仰いだ。
「遅いっ。どれだけ長風呂なんだ」
 おあずけを食らっていた彼に急かされて、私も慌てて向かい側の座布団に座った。
「よし。では、いただきます」
 お箸に手を伸ばしかけて、私はハッと我に返る。
「そうだ。あのさ、私の携帯電話って、あなたが持っているのかな」
 彼は口をもぐもぐさせたまま頷いた。
「あのメールの続きって、何が書いてあった? 私、よく見ていなかったんだけど」
「おまえ、ろくに確認もせずに返信したのか?」
 彼は呆れた顔をして携帯電話を取り出してくると、「ほれ」と私に返す。
 私は素早くメールを確かめて、思わず吐息をついた。
「なんだ、やっぱり悪戯メールか」
 気を取り直して料理に箸を伸ばす。出会い系サイトの宣伝でもなかったようだ。思い出を売る代わりに望みを叶えるなんて、どこまでもおとぎ話である。
「……悪戯とは、違うと思うけど」
 彼が小さく呟く。私は料理を楽しみながら首をかしげた。
「送信者を見てみろよ」
(送信者――死神)
「何これ」
 凝った悪戯だと感心してしまいたくなる。何気なく彼に声をかけようとして、次の瞬間、私は言葉を詰まらせてしまった。目の前で、彼がぼろぼろと涙を零して泣いているのだ。
「ど、どうしたの? 料理のワサビがきつすぎたとか?」
 彼は声を殺して泣きながら頭を振る。
「っごめん。笑って傍にいたかったけど。俺、哀しいよ」
 素直な告白だった。まさか彼がこんなふうに泣き出すとは、本当に驚いてしまった。同時に彼の泣き顔を見るまで気付かなかった自分の鈍さを呪いたくなる。恋人が自分のことを忘れてしまうなんて、哀しいに決まっている。申し訳のない思いで一杯になってしまい、何とかして慰めようとしてみるが、かける言葉が見つからない。
「きっと、おまえはすごく哀しくて苦しかったんだ。だから、忘れてしまいたかった。そんな辛い目にあわせたのは俺なのに、でも、俺との思い出を捨てて欲しくないんだ」
 嗚咽を繰り返しながら、彼が訴える。二人で過ごした楽しい日々を失くしてまで、私は何を消し去りたかったのだろう。
 肩を震わせて泣き続ける彼の隣に寄り添って、私はその大きな背中に手を添えた。
 ひやりと、背中に触れた指先が凍てつきそうな感覚。冷たい。温もりのない、彼の身体。
(思い出なんて、いらないよ)
 私が消し去りたかった思い出。
「ごめんな、ごめん。俺が死んでしまったからだ。ごめん」
「え?ちょっと待って。……意味が、わからない」
「ごめん。だけど、哀しすぎるよ。見ていられない」
 下手な茶番劇を仕掛けられているような錯覚がする。「冗談はやめてよ」と笑い飛ばしてしまいたいのに、顔は引きつるばかりだった。動悸が激しい。吐き気がする。
(もう一度、声が聞きたい。会いたい)
 気持ちが悪くなる。私は何かを望んでいた。
「あの、哀しすぎるって……、私が忘れているからだよね」
 彼はグスンと鼻をすする。
「俺達は二度と会えないんだ。会っても意味がない。俺、わかってしまったよ」
 泣き濡れた顔をあげて、彼は懸命に笑おうとしているようだった。
「こんなに意味のない再会のために、おまえは思い出を売ったわけじゃない。だって、会えたって俺が誰なのかわからない。二人で語り合う思い出もない。……おまえは生きていて、俺は死んでいる。結局、何をしてもその境界を越えることは出来ないんだ」
「あなたは死んでいないよ」
「おまえが声を聞きたい、会いたいと。そう望んだからだよ。だからここにいる。だけど、この思い出は生きているおまえに繋がることはできないんだ。これは夢と同じだから」
 胸が苦しい。とても嫌な秘め事を暴かれてしまう不安に似ていた。
「おまえは大切なものを失って、とても哀しかった。その哀しみに繋がる全ての思い出を捨ててしまいたかったんだ。だけど、その大切なものに会いたいと望んだ」
「あのメールのこと?あれはただの悪戯だよね」
「――だから、その悪戯を導いたのが、おまえ自身だったってこと」
「私が?」
「なぁ、頼むから思い出を捨てるなよ。これが俺の望み。……きっと、おまえはすごく泣くだろうけど。でもな、そのつづきにしかおまえの未来(あした)はないんだ」
 思い出のつづきにある未来。彼は追い討ちをかける。
「おまえが思い出を殺すということは、俺を殺すことだよ。俺が生きた証は、おまえの思い出の中にあって、その中で俺は生きていける」
「私が、あなたを殺す?」
「そう。おまえはそれを望むのかな」
「そんなこと望まないよ」
 思わず声を高くすると、彼は少しだけ笑った。
「うん、知っているよ。ごめんな、約束していたのに。おまえと一緒に旅行できなくて」
「今、旅行しているよ?」
「うん。でも、違うから。おまえが望んでいた旅行にはならなかった。だけど、おかげで伝えることができる」
「何を?」
「このまま、ずっとおまえと彷徨っていたい気もするけど、おまえには未来(あした)があるから」
「あなたにもあるよ」
 彼は寂しそうに笑うだけだった。
「俺がおまえの望みを壊してやるよ」
「どうして?」
「どうしてかな。幸せになってほしいから、かな。乗り越えてほしいんだ」
 彼は再び涙をこぼす。泣きながら訴える彼を目の前にしても、私の思い出は戻らない。
「約束してくれよ」
「よく判らないけれど、それであなたは哀しくなくなる?」
「もちろん」
「じゃあ、わかった」
 そんなふうに応えるだけで、精一杯だった。うろたえるだけの私に、彼は「今はそれでいい」と笑った。あまり箸が進まないまま食事を終えると、襖を隔てた隣の部屋に二組の布団が延べてあった。
「なぁ、おまえのこと抱きしめて眠ってもいいか」
「ええっ?」
 彼はつられて顔を真っ赤にしていた。既に彼と自分の関係を疑う気にはなれなかったけれど、戸惑ってしまうのは仕方がない。「何もしないから」という言葉を信じて、私は彼と同じ布団で眠った。私を抱きしめるように伸ばされた腕、そして触れる体。
 温もりのない、ひやりとした質感。ぞっとするほど冷たい。途端に私は強烈な哀しみに支配されて、思わず強くしがみついてしまう。
 どうしてこんなに哀しいのかわからない。わからないけれど、哀しくてたまらなかった。
 声を殺して泣き出した私を労わるように、彼は冷たい腕で私の頭を撫でる。
「ごめんな。だけど、ありがとう」
 泣き疲れてまどろむ私の耳元で、優しい声がしていた。とても、愛しい声だった。


 その夜も泣き明かした。
 食卓に伏せて一夜を明かした私は、涙と鼻水で汚れた顔をあげた。
 放り出してあった携帯電話に手を伸ばす。
 (受信メール1)を見つけて、慌ててメールを確かめる。
(あなたの思い出を買います)
 期待を裏切られて、すぐに小さな画面が涙で滲む。涙が溢れてきて止まらなくなった。
(昔の恋愛が色あせるような、楽しい恋をしませんか。嫌な思い出を忘れたい人に、素敵な出会いをご用意します。ここをクリック。http://www.koikoikoi.lllove/――)
 どこからやってくるのか判らない迷惑メール。勧誘文句が無性に腹立たしくなる。
 すぐに削除してから、これまでに彼から届いたメールを開いてみた。
(優しい俺様が、気分転換につきあってやろう)
(有給はとれたか?)
(旅行、行きたい処、考えておいて)
(じゃあ、それで決定。楽しみだ)
 シンプルなのに優しい言葉の数々。そんなことにも、失ってしまってから気がついた。
(二人で、サイコーに楽しい思い出を作ろう)
 声をあげて思いきり泣いた。どうしてだろう。こんなに哀しいのに彼との思い出は宝物なのだ。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。与えられた想いの全てが、私の一部になっている。
 これから築かれてゆく思い出に、彼はいないけれど。
 それは残酷なくらいに哀しくて、寂しいけれど。
「……お腹がすいた」
 泣き疲れた頭で、のろのろと台所に向かい冷蔵庫を開けた。旅行へ行くはずの休暇に入ってから、まともな食事をとっていなかったのだ。
 彼の不在を嘆くあまり、身体が生きることに拒絶反応を示していたのかもしれない。チョコレートを取り出して、カケラを口に含む。染みる甘さだった。
 再び涙が零れ落ちる。貪欲に私の未来(あした)は続いて行く。食べて、眠って、泣いて、繰り返しの果てに、いつの日か笑っているのかもしれない。けれど、そんな私を見て、きっと彼は「それでいい」と同じように笑うのだ。
 なぜか、それだけは間違いないと思えた。

夢幻旅行 END

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サイトup 2006.7.29

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