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森のレクイエム

二 森に眠る

1 森の家

蝉の鳴き声に囲まれて、坂道を上る。彼方に見える樹々が深緑に揺れていた。この土地の住人は、その緑の地帯を森と呼ぶ。
「貴坊。ジュースでも飲むか」
「うん」
「ほら、何にするんだ」
 甥の貴史が、自動販売機のオレンジジュースを指差した。出て来た缶を頬に当てて、彼は深い息をつく。
 目の眩みそうな強い日差しが照りつけ、蝉は煽られたように賑やかに鳴き交わす。今年中学に上がった貴史が、まだ幼さの残る顔で俺を見た。
「悠兄」
「ん。何だ、貴史」
「今年はお姉ちゃんは?」
「先に山荘へ行っているよ。着けば会えるさ」
 坂の上の緑の地帯。森の外れに山荘がある。夏には仕事と避暑を兼ねて、この地を訪れていた。
「悠兄。今度はどんな物語を書くの?」
「んー。まだ、考えてない」
 本当は決まっていた。未完となる物語。心なしか画材の入ったケースを重く感じる。
 坂を上りきり、小道を歩くと涼風が頬をかすめて行く。風は、時折樹々の囁きを集め、歌声を奏でる。この地は歌うのだ。高音の歌声は澄み渡り、哀しい。なぜ歌うのかは、分かっていた。
 慰めているのだ。この避暑地は、今回の絵本のモデルとなる。
 『森のレクイエム』
 今なら、描くことができるだろう。
「あ、山荘だよ。悠兄」
「ああ」
 樹々の向こうに、苔蒸した緑に馴染んだ山荘が見えて来た。玄関へ回り、一年ぶりに鍵を解く。
「おかしいな。先に小夜子が来ている筈なのに」
 部屋の中は静かだった。煩わしい蝉の声だけが聞こえる。ソファの片隅に掃除機が転がっていた。
「貴坊。荷物をあっちの部屋へ持って行け」
「お姉ちゃんは?」
「一応、先に来てはいるらしいけど」
 とりあえず、画材を奥の仕事部屋へ運んだ。窓を開けると風が吹き込み、高音の歌声が届く。久しぶりに聞く森の歌だ。
 悼み、哀しみ、呼んでいる。それなのに、森はその奥地へ踏み込むことを拒む。窓際から離れ溜め息をつくと、近くで新たな歌声が重なった。
 人を包みこむ、聖母のソプラノ。通徹した高音の響きは硬質で、俺を引き込む。初めて聞いた時から魅せられた歌声。小夜子だ。
 隣の部屋へ顔を出すと、貴史の隣で彼女が歌っていた。窓からの光線が、彼女を輝かせる。
 貴史は純粋に聞き入っていた。まだ幻に酔える子供なのだろう。
「さーよーこー。この掃除機は何かなー」
 足元を指差してにこやかに声をかけると、彼女はすぐに振り向いた。
「やだ、悠。大失敗」
 眩しい笑顔が返って来た。だから俺も、幻に酔うふりができる。
「何が?」
「悠の事もびっくりさせてやろうと思ってたのに。森に誘われて歌っちゃったわ」
「馬鹿」
 軽く小突くふりをして、彼女に触れた。
「掃除はもう終わってるの」
「遅れてしまって、悪かったな」
 哀しげな瞳が、何か言いた気に歪んだ。そのまま背中を向けた彼女に、口走りそうになる。傍らに貴史がいなければ、口走っていたに違いない。
 落ち着くために、深く息をついた。
「なぁに、ニヤニヤしてんだ。貴史」
「一人で寂しかったんだよ、お姉ちゃん。悠兄ってば、愛されてるよね」
「お前は年々、生意気度が高くなるな」
 ふざけてプロレス技をかけると、貴史はすぐに降参した。
「別に、私は寂しくなんてありませんでしたよー」
 小夜子が貴史を抱いて舌を出す。貴史の顔が、真っ赤にのぼせ上がった。
「顔が赤いよ、貴史ちゃん」
 からかうと、彼はすごい勢いで小夜子から離れた。その様子が楽しく、更にからかうと、貴史は怒ったように悪態をつく。
「何だよ。笑ってる暇があるなら二人はさっさと結婚しろよな」
 こんな夏が、永遠に続けば良かった。

2 花火


 光沢を放つ小さな箱が、手の中にある。小さな指輪が中から顔を出した。澄明に煌めく、美しく切り込まれた石。再び箱を閉じて、デスクの引き出しにしまう。
 小夜子に受け取ってもらいたい。そんな事は、叶わぬ夢だろうか。
「悠兄、ご飯だって。すごい御馳走だよ。早く」
 仕事部屋の扉を開け放ち、貴史がはしゃいだ声を上げた。促されて食卓のある部屋へ入ると、料理が華やかに顔を並べている。席について、小夜子に目を向けた。
――一緒になろう。
 彼女が拒むのは、目に見えている。絶対に首を縦には振らないだろう。小夜子はいつまでも気付かないのだろうか。
 俺にとって、何が一番幸せであるかを。
「悠」
 凛とした声に呼ばれて我に返った。小夜子が睨んでいる。黒硝子のように、澄んだ瞳。
「物語を考えるのもいいけど、美味しいとか、何か言う事はないの。そんな怖い顔してられちゃ美味しいご飯もまずくなるじゃない」
「話を考えている訳じゃないよ」
 お前の事を考えているとは、言えなかった。隣の貴史も窺うように俺の顔を見ている。
「どうしたの?」
 答えようとすると、彼女自身がそれを遮った。取り繕ったように、話題を変えるのだ。
「そうだ、貴史君。後で花火をしましょう。私、用意したのよ」
「あ、うん」
 二人の会話を聞きながら、目の前に並んでいる料理に手を伸ばした。そのまま、勢いよく口に頬張る。
 小夜子の手料理。それだけで、知らずに目頭が熱くなっていた。
 夕食を終えてから、花火を持って表へ出た。
 樹々の合間から覗く空は、気が遠くなるほど彼方に見える。凍てついた星は高く、今にも零れ落ちて来そうに瞬いていた。
 バケツに水を汲み、花火に火を点ける。シュッと言う微かな音の後で、激しい光の滝が舞い散った。蒼白い閃光に照らされる小夜子の顔は、作り物のように見える。
 言い出せずにいる言葉。
 口にしようとする度に、小夜子が身を堅くするのが分かった。
 最後の花火が灰に変わる。立ち上がった俺を、貴史が大きな瞳で仰ぐ。
「――仕事を始めるから」
 絵本に取り掛かるため、部屋に戻った。
 俺と小夜子は、同じ事を恐れているのかもしれない。

3 桃


 皺の刻まれた顔を少し厳しくして、じいちゃんは言っていた。
「一体いつになったら彼女と一緒になるんじゃ、お前は」
 彼と出会ったのは、この山荘に初めて訪れた夏だ。
 坂の下で腰を痛め、困っていた所を助けた時から知人となった。
 顔を合わせる度に、「小夜子をモノにしろ」と繰り返した。
「悠、今いいかしら」
 仕事部屋の扉をノックしてから、小夜子が顔を出した。
「まだ、起きていたのか」
「――ええ。昼間おじいちゃんに頂いた桃を切ったんだけど」
「ありがとう、もらうよ」
 小夜子は手にしていた皿を、傍らのテーブルに置いた。象牙色の桃は蜜を帯びて光っている。染みるほどに、甘く瑞々しい。
「貴史は?」
「寝てるわ。もう夜中の一時よ」
「もうそんな時間か」
 彼女は頷いて桃に手を伸ばした。
「そう言えばじいちゃんが、戸締まりをしっかりしろと言っていたよ」
「戸締まりを?」
「ああ。最近この辺りに変な輩が徘徊してるって」
「そうなの?」
 不安そうに彼女が身をすくめた。上目使いにこちらを見る瞳は、どんな高価な宝石も叶わない。再びじいちゃんの言葉を思い出して、おかしくなる。
「何がおかしいのよ」
「いや。お前は特に用心しろって、じいちゃんが言っていたからね」
「あら。もちろん悠が守ってくれるわよね。ここに付き合ってる責任において」
「お前が勝手に来るって言ったのに」
「ご飯を作ったり、家事をしてるのは一体誰だったかしら」
 浅く笑いながら、俺は彼女の手を引っ張った。
「嘘だよ」
 至近距離で見る小夜子の瞳は、一層綺麗だ。そこにもう一つの宇宙(そら)があるように輝いている。
「――守るよ。俺の責任において」
 指に絡まる長い髪から、甘い匂いがする。抱きすくめた体は小さく、穏やかな息遣いが伝わって来た。彼女の柔らかな温もりは、全てに勝る。
 そんなふうに、いつかは醒める未来を見ていたのだ。

4 紺色(ビロード)の小箱


 白い画面を、下書きに沿って緑に染める。霧のような緑が一面に行き渡ると、今度は濃淡をつけ奥行きを描きこんで行く。死者の森はどこまでも奥深く、果てがない。
「綺麗だね」
 部屋に入って来た貴史が、描き始めの森を見て言った。
「まだ、何を書いているか分からないだろ」
 筆を置いて貴史を振り返る。
「お昼だよ、行こう」
「なぁ、貴史」
 子供の方が、純粋に人の心を見抜く事ができるだろう。扉を閉めるように言い、手招きすると、貴史は怪訝な顔をしながら寄って来る。
「どうしたの?」
「小夜子、おかしくないか」
 自分で分かり切っている事を、敢えて確認した。貴史は首を捻り即座に答える。
「おかしいのは、悠兄じゃないの?」
「がくっ」
「だって、何か考えこんで怖い顔したりさ」
「んー。それは何て言うかね、結構覚悟がいるんだよ、男は」
 ここしばらく口にできずにいる事を、貴史に示した。デスクの引き出しから青い小箱を取り出して見せる。
「それって……」
「さぁ、貴史。これは一体何でしょう」
「ひょっとして、指輪?」
「ピンポン」
 貴史は面白い位表情を明るくして、瞳を輝かせた。
「すごい。悠兄。やったじゃん」
「お前ね、まだ渡してないだろ」
 箱を手に取り、彼は中の指輪を確かめる。大きな黒い瞳で眩しそうに眺めていた。
「早く渡せば良いのに」
 無邪気にはしゃぐ貴史に吐息をついて見せ、箱を取り上げる。
「小夜子、おかしくないか」
 もう一度聞いてみた。いつもの夏とは違う筈なのだ。俺も小夜子も、貴史ですら。それがなぜかは、認めたくなかった。
「こういう事はガキの方が敏感だろ」
「そうかな、確かに悠兄を避けてるかなって思う時もあったけど。でも、それは悠兄が怖い顔をしてたからじゃないの?」
 きっとそうだろう。貴史の言う事に間違いはない。けれど、小夜子は俺がなぜそんな顔をするのか知っている。知っていて、避けているのだ。
「悠兄、可愛いなぁ」
 いたずらめいた無邪気さで、彼が笑う。
「お前はー、調子に乗るんじゃない」
 捕まえて技をかけると、貴史はすぐに「ギブアップ」と叫んだ。
「単に俺が神経質になっているだけか」
「そうだよ。……だいたい、これを用意するためにここに来るのが遅れたんだろ? 小夜子さんが少し機嫌を損ねているとしても、それを渡せば解決じゃん」
 貴史は何も知らない。幸せな奴だと思った。
「でも、時計をしていないんだ」
 少しだけいじめてみたくなる。
「え?」
「ああ、いや」
 けれど、貴史が正気に返って困るのは俺だけだった。
「お前も中坊になって、しっかりして来たな」
「こら。二人とも、早く来てって言ってるでしょ。ご飯が冷めるじゃないの」
 小夜子が勢い良く部屋にやって来た。
「ごめーん、お姉ちゃん」
 即座に食卓のある部屋へ向かう貴史の後ろで、意を決して口にする。
「小夜子、話があるんだ」
 彼女の顔色が、はっきりと蒼白くなった。不自然なほど整った顔は、蝋人形のように動かない。濡れた唇だけが微かに上下した。
「その前に……。その前に、ご飯を食べて頂戴」
「……ああ」
 彼女が背を向ける。夢は、叶わないから夢である。そんな言葉を思い出した。それでも、俺には小夜子が必要なのだ。
 決して醒めない夢を見るために。

5 擦れ違う風


 貴史に先に食卓を離れるように合図を送って、小夜子と二人きりで向かい合う。時間がない。彼女が今年の夏をどう考えているかは、分かっているつもりだった。
「あのな、小夜子……」
「悠、今度はどんな物語なの?」
「まだ決まってない。それより、小夜子」
「ご飯、もういいの?」
 仮面のような無表情な顔に、一筋苦しみが浮かんでいた。小夜子は別れるつもりでいる。もう、そう決めてしまっているのだ。箸を持つ自分の手が震えているのが分かった。
「――それが、お前のやり方か」
 重い沈黙があった。小夜子が涙ぐんだように見えた。
「もう少し、考えさせてほしいの」
「わかった」
 時間がない。小夜子は知らない。俺が何もかも知っている事を、知らないのだ。廊下へ出ると貴史が立っていた。今にも泣き出しそうな顔をしている。声をかける余裕がなく、黙って通り過ぎた。
 仕事部屋の椅子に腰掛け、デスクの上に広げたままの絵に視線を落とす。
 無意識に筆を握っていた。
「貴坊か」
 背後に気配を感じて振り返ると、貴史がオズオズと近づいて来る。心配を張り付けた顔でこっちを窺っている。子犬のような仕草に、自然に微笑みが浮かんだ。
「これ、落ちてる」
 貴史が物語を書きなぐった紙を拾い上げる。
「それは、そこに置いてあるんだよ」
 そのままデスクの側へやって来て、彼は絵を覗き込む。
「森?」
「正解。よく分かったな」
「うん。だって、あの紙に。……ここの森がモデルだね。どんな話なの」
「簡単に言うと、森が歌う話」
「レクイエムってどういう意味?」
「死んだ人の魂を、慰めて鎮める歌ってことかな」
「ふうん。また、ちょっと哀しい物語になるの」
「かもな。貴坊はハッピーエンドの方が好きか」
「ううん。でも、悠兄はなんでそんな切ない物語ばっかり書くようになったのかな、と思って。昔の奴は、気持ち良すぎる位ハッピーエンドだったから」
「――そういえば、そうだな」
 ハッピーエンド。俺も小夜子も好きだった。望んでいた夢だから。
「現実はそう甘くないからな」
「悠兄って夢がないよね。それが物語に出てるわけだ」
「悪かったな。ハッピーエンドも好きだけどね」
 それでも、もう二度と描くことはできないだろう。裏切られたのだから。三年前のあの日、俺は約束を果たせなかった。幼い貴史は、ひどく泣いていた。けれど、俺は認めたくなかったのだ。
 なのに、何も認めていない俺が真実を見てしまう。泣きじゃくり全てを受け止めた貴史が、夢を見ていられる。
 彼女の歌声は、俺には届かない。だから、ずっと演じて来た。
「ねぇ、悠兄。小夜子さん、泣きそうな顔をしてた。だから、諦めたら駄目だよ」
 貴史の瞳は、汚れていない。生きた小夜子を映し出す水晶玉のようだ。
「予感はしていたんだ。時計をしていないから」
「時計?」
「そう。ほら銀色の、お前も知っているだろ。いつも肌身離さず付けていたのに。だから、な」
「でも、去年も言ってなかった、悠兄。お姉ちゃんが時計してないって」
「……言ってないと思うけど」
 時計は、全てのキーワードになる。
 いつか貴史も夢から醒めるだろう。どうかその時のお前が、笑っていられるように。その澄んだ瞳が濁る事のないように。
「じゃあ、気のせいかな。とにかく、時計なんて忘れて来ただけかもしれないし。頑張れ、悠兄」
「まだ、振られたわけじゃないからな」
「うん」
 覚悟を決めなければならない。本当は真実を知って、いつでも哀しみを見据えて来た。小夜子、お前の歌声は俺には届いていない。

6 森の歌


 仕事部屋に、聖母のような歌声が聞こえて来る。
 窓を明けて、耳を澄ました。
 これは鎮魂歌だ。ただし、死者を悼み、慰めるための歌ではなく。
 絶望した魂を慰めるための歌。行くあてもなく、彷徨い続けている心を癒す声。
 小夜子の美しい歌声だった。
 やがて歌が終わると、貴史と小夜子の話声が聞こえて来る。窓から見える玄関先に、二人の闇に溶けかけた姿が浮かんでいた。
「すごいよ、お姉ちゃん。それ、何て言う曲?」
「『アヴェ・マリア』よ」
「きっと、一生忘れないと思う。見て見て、鳥肌が立ったよ」
「大袈裟よ、貴史君は」
「そんな事ないもん」
 しばらく沈黙が続いた。それを破り、小夜子の声が凛と通る。
「私は、悠にふさわしいと思う?」
 微かに、貴史が頷いたように見えた。小夜子はゆっくりと首を振る。長い髪が白い頬を隠し、そのまま闇に紛れそうだ。
「……私はそうは思わないわ」
「そんな事ないよ。それに、悠兄の事好きなんでしょう?」
「私の心には、悠が棲んでる。今別れても、きっと思い出と一緒に彼だけは残るわ。でもね、見て。――時計を、無くしてしまったの」
 静かな響きを持って小夜子が語る。俺達はこれ以上間違えてはいけない。
「そんなの。それ位の事で悠兄は怒らないよ」
「そうね。でも、この時計が二度と戻って来ないように、取り返しのつかない事があるの」
 取り返しがつかない。だから二度と間違えてはいけない。
「何かあったの? お姉ちゃん」
「ただ、もう彼にはついて行けない。今年で最後にしようと思ってたのよ」
 ゆっくりとデスクから離れ、仕事部屋を出た。これ以上、夢を見ているふりはできない。外へ出ると、森の澄んだ闇がすぐに足元から忍び寄って来た。
「何をもめているんだ」
 貴史が振り返る。
「貴坊。中に入ってろ」
 何か言いた気な顔を伏せて小走りに駆け、彼は中へ引き籠った。ドアを閉まるのを見届けてから、純粋な漆黒に溶けた森の奥に目を向ける。闇に沈む森はひどく穏やかで、梢の合間から月光が零れていた。
「小夜子……、何かあったのか」
 近づいた俺を、彼女は淋しそうに見上げた。
「何も。ただ、時計を無くしてしまったの」
 闇の中で浮かび上がる細い腕が、霞んで見える。隣に腰を下ろすと小夜子は初めて口にした。
「もう、今年で最後にしましょう」
 その言葉に誘われたように、森が歌い始める。硬質な高音。時には女の悲鳴のように激しく上り詰める旋律。まるで小夜子が胸の奥に閉じ込めた悲鳴のようだ。
「俺は理由を聞いているんだ」
 哀しげな顔で、彼女は俺を見つめる。
「今の貴方には、知らない事が多すぎる」
「小夜子」
「――悠は何も知らない」
 吐き出すように告げて俯いた。長い髪が表情を見えなくする。
 どんなにか、苦しんだに違いない。俺も、小夜子も。
 歌声は夢を見せてはくれなかった。
 貴史のように酔う事はできなかった。信じたくてどうしようもなくても、小夜子は死者でしかない。その真実を、ずっと見据えて来たのだ。
 手を伸ばして、彼女を腕の中に捕まえた。変わらない小さな体は、けれど凍てつくほど冷たかった。
「知っているよ」
 全てを知っている。驚いたように、腕の中の体が揺るいだ。
「小夜子を知っている」
「一緒にいるのは、苦しいわ」
「それはお前が、俺に惚れているからだ」
 森の声が美しく流れ続ける。小夜子は顔を上げた。潤んだ瞳に笑顔が宿っている。
「自惚れているわ」
「そうだよ、悪いか」
 あの日、果たせなかった約束。
 凍りついた夏の夜があった。
 森の静謐な闇だけが、変わる事なく全てを包んでいる。
「でも、もう少し考えさせて。まだ心の整理がつかないの。……貴方には、笑顔で答えたいから」
「――わかった」
 一人で逝くな。飲み込んだ言葉、彼女には届いたに違いない。

7 記憶の坂道


 坂の下の町まで画材を買いに行くと告げると、小夜子に買い物を頼まれた。貴史がついて行くときかないので、二人で山荘を出る。
 下り坂に差しかかると、照りつける太陽が肌を焼く。彼方に広がる水平線が、空との境界に青いインクを零したように緩い曲線を描いていた。
 澄み切った空には、見事な入道雲。魂が集まり、上って行くように神々しい。天へと続くあの雲の中では、何が見えるだろう。一面の純白は、夢を見せてくれるのだろうか。苦しみも哀しみもない、至高の世界。引き換え、この下界は全てをどうでもよくさせる程暑い。
 至る所で鳴き交わす蝉。吹き出す汗。目も眩むほど全てが焼けている。
「ところでさ、悠兄。……昨夜、良かったね」
 貴史が一歩前へ飛び出し、振り返って笑う。
「お前、覗き見していたな」
「だって、応援してるし。――気になってたしさ」
「でも、まだ返事をもらってない」
「ほとんどイエスだよ、あれは」
「あー、もう、うるさい。お前は」
 軽く貴史の頭を掻き回すと、彼は小走りに坂を駆け下って、俺の手から逃げた。
 貴史が全てを思い出してしまえば、小夜子の存在は消え去ってしまうだろう。夢は現にならず、醒めてしまう。それ位、儚いものでしかない。
 森が見せる、或いは小夜子が見せる夏の夢。
 まだ、醒めるわけにはいかない。彼女が迷っているうちは。
 一人だけで逝かせはしない。けれど、それを決めるのは小夜子なのだ。
「でもさ、悠兄。大人ってよく分からない。変なの」
 坂の途中で振り返って、貴史はわずかに顔を歪める。
 彼の無邪気さは救いだった。あの時も今も。
「貴坊もそのうち分かるようになるさ。まだまだ子供でいなさい、お前は」
「ちぇっ」
 夏が来るたびに、ずっと貴史が羨ましかった。
 小夜子が生きていると、演じなければならない自分。
 小夜子が生きていると、心から信じている彼。
 無邪気な思いで向き合える彼が、羨ましかった。
「おい。あれ、じいちゃんじゃないか」
 坂の下を歩いて来る人影があった。見覚えのある浴衣で誰か分かった。彼もこちらに気付き、手を上げる。
「やっぱり今年も来とったのか」
 その一言で、背筋が凍りついた。貴史はひたすら不思議そうな顔をしている。
「何を言ってるんだよ。この前、じいちゃん桃を持って来てくれたじゃないか」
「この前?」
 おそらく貴史の中で、この三年の出来事は混沌としているのだろう。
「なぁ、じいちゃん。一週間前にうちの山荘に来てくれただろう?」
 貴史の言葉は、三年前と繋がっている。幸せな頃のままなのだ。けれど、小夜子の組み立てた幻影は完全ではない。
貴史の夢を壊さない為に、三年前のじいちゃんの口癖を持ち出した。
「じいちゃん、俺に早く結婚しろって言っていたじゃないか」
 皺の中にある細い目が、微妙に歪んだ。
「まぁ、ちょっと待て。貴史も悠も。お前達の言っとる事はさっぱり分からん。わしはお前達に会うのは一年ぶりじゃ」
「じいちゃん」
「去年の事は覚えとるよ。悠に早く小夜子を忘れるように話した」
 厳しい瞳が真っすぐに俺を貫く。老いた瞳は全てを見抜いたかもしれない。
「小夜子を忘れろって。じいちゃん、この前は身をかためろって……」
 声が震えた。動悸が激しく、自分の顔色の悪さも容易に想像できる。
「去年、確かに言ったぞ。早くいい人を見付けて身をかためろと」
 もう、やめてほしかった。蝉の声も煩わしく、耳をふさぎたくなる。精一杯演じて見たが、じいちゃんには効果がないだろう。焼けるような日差しのせいか、目眩がした。
「ねぇ、じいちゃん。じゃあ、悠兄にお姉ちゃんとさっさと結婚しろって言ったのはいつだった。言ったよね、じいちゃん」
「今日のお前達は、どうかしとる。久しぶりにここに来て、昔を思い出したか」
「え?」
「三年前じゃ。わしが悠に小夜子と結婚しろと言ったのは。あの年は町に変な輩が徘徊しとった。覚えているか、悠。お前は忘れる筈がないだろう」
 忘れる筈がない。けれど、事実だけを突きつけるのはやめてほしいのだ。彼には分からない、真実がどこにあるのか。
「ちょっと待ってくれよ、じいちゃん。それ、この前聞いた」
 俺と貴史の夢を破る資格は、誰にもない。
「この前……。変だよ、悠兄。僕、頭が混乱して来た。だってじいちゃんの言ってる事も正しい」
「悠」
 二人の視線が突き刺さるようだ。小夜子を幻にするのは、まだ早い。
「お前は今年も去年と同じ瞳をしているな。あの時から、ずっと同じじゃ。本当は、もうここには来ない方がいいのかもしれん。……ちゃんと、心の整理がつくまで」
「じいちゃの言っている事は、理解できないよ」
 理解できない。分かりたくもない。けれど、痛いほど認めてしまう。
 目眩と耳鳴りがひどく、蝉の鳴き声が遠くなった。耐え切れなくなって、じいちゃんから踵を返す。
 小夜子を忘れる事などできない。その死を認める事はできない。
 彼女が、未来の道標(みちしるべ)だったのだ。

8 間違い


 画材店に入った頃には、目眩もやんでいた。傍らの貴史の表情が陰っている。
「これが、パステル。色鉛筆じゃないんだ」
「そうだよ」
 貴史は綺麗に並んだパステルを、ためらいがちに一本手に取った。無造作に用紙に擦り付けて眺めている。彼の夢は、まだ完全に醒めてはいないようだ。
「じいちゃんも、ついにぼけてしまったのかもしれないな」
「そうかな」
 夢が破れる前に、小夜子は決断するのだろうか。
 山荘に戻り、貴史がじいちゃんの話をすると、彼女は過剰に反応した。崩れ始めた夢に気付いたに違いない。
「そう。おかしなことを言っていた。少し、ぼけはじめたのかな」
 俺が告げると、小夜子がわずかに目を伏せた。
「暑いからじゃないの?」
「そんな感じじゃないんだ」
「――そうなの」
 無表情に答え、彼女はキッチンへ姿を消す
 小夜子は間違った選択をするかもしれない。そう考えただけで、血の気が引いた。
 仕事部屋へ向かうと、貴史が後をついて来る。
 椅子に深く腰掛けてから、彼に呼びかけた。肩を掴んで引き寄せる。
「痛いよ、悠兄」
「どういう事なんだ」
 思わず呟きを漏らしてしまう。なぜ、小夜子は迷うのだろう。一人で逝く事がどれだけ俺を不幸にするか、分かっていない。
 掴まれた肩が痛いのか、貴史が微かに身動きした。そのわずかな動きで我に返って顔を上げた。目前にある黒く大きな瞳には、戸惑いと哀しみが浮かんでいる。
 貴史が夢から醒めるのは、時間の問題かもしれない。
「じいちゃんが、ぼけているんだ。そうだな、貴史。小夜子はここにいる。そうだろう?」
 彼の心に、すぐに壊れる鍵をかける。貴史は泣き出しそうな顔で、深く頷いた。
「お姉ちゃんはここにいるよ。じいちゃんがぼけたんだ」
 ゆっくりと力が抜けた。もう疑っている、小夜子の存在と自分の記憶を。貴史の瞳は嘘をつかない。その澄んだ瞳が、そう告げているのだ。

9 繰り返し


 仕事部屋の窓から、藍色の闇が森の彼方へと広がっている。朝日がまだ顔を出さず、辺りには淡い闇が立ち込めていた。
「どうしたんだ、こんな早くに」
 部屋に入って来た小夜子に声をかけると、彼女は物語を綴った紙片を手にした。
「悠。この話はハッピーエンドになるの」
「分からない」
「悠の絵は優しい。物語も。あなたの心がそのまま出てる。大好きよ、どの作品も。……もう、ハッピーエンドは書かないの?」
「書けないよ」
 小夜子は微かに首を振り、俯いた。長い髪に触れると、哀しみに沈んだ瞳が上目使いに俺を見る。迷い、哀しむ瞳。森の闇と同じ漆黒がある。
「今日の夕方、おじいちゃんが来るわ。悠に目を醒ませって。――悠もよく考えて、何が一番幸せか」
「ずっと考えていたよ、答えは一つしかない」
 お前が側にいる事だ。そう告げると彼女は否定する。淋しさを宿した瞳には、俺が映っていた。
「先の事は誰にも分からない。こんなに才能だってあるのに。絶対に後悔しないって言える?」
「ああ」
「嘘よ」
「嘘じゃない」
 小夜子の手がそっと俺の頬に触れた。冷たく白い、細い指。失う事など考えられない。耐え切れず、思わず彼女を引き寄せた。
「一人で逝くな」
「私には、決められない」
 涙に濡れた声が、はっきりそう告げた。
「悠の未来を否定する事なんてできない」
「未来なんて、あの時に全て無くした」
 あの時。暗い森で眠る小夜子に全て託した。この森で、未来を手放した。
「――お前が消えた時に。だから、ずっと探していた」
「この森で……。そう。――ずっと、呼んでいたわ」
「知ってる」
「違う。あの日、ずっとあなたを呼んでいた。自分の声が木霊して、森が悲鳴をあげているようだった」
「小夜子」
「あなたは約束を守らなかった」
 約束。あの日、小夜子を一人で行かせるべきではなかった。
「でも、悠は抱きしめてくれたわ、ボロボロの私を。――嬉しかった」
「あれは小夜子じゃない。偽物だ。お前はここにいるんだから」
「違う。ここにいるのは偽物。本物は、もうどこにもいない」
 長い沈黙が訪れた。抱きしめた体は幻。それでも、小夜子に変わりはないのに。
「私には決められない。だから、貴史君に聞くわ」
「貴史に?」
「そう。悠にとって何が一番幸せか、彼の方が良く知ってる」
「どうして?」
「一緒に、夢を見てくれたから」
 だから、見たまま、感じたまま。彼だけが真実を教えてくれる。
「……何も失いたくない」
「もう失ってるの。でも、私も悠を失いたくない。いいえ、貴方の幸せを壊したくない」
 小夜子が身を離した。
 窓の向こうで朝日が顔を出した。手の届く距離にいる彼女にも、光が降り注ぐ。
 三年前の今日、小夜子の時計が止まった。

10 三年前


 赤く焼けた地平線近くの空に、夕闇が迫っている。淡い藤が段々に濃い紫を迎え入れる。力尽きた夕陽に照らされて、辺りは長い影で満ちた。
「悠兄」
 坂にさしかかった所で声がした。振り返ると、貴史が駆けて来るのが見える。俺にはない眼差しを持って、走って来る。知らずに目を細めていた。
「お前、じいちゃんは?」
「じいちゃんが悠兄と一緒に行けって」
「そうか」
 山荘にじいちゃんが訪れて来た。俺に
「目を醒ませ」と言いに来たのだ。彼には演技を見抜かれている。逃げるしかなかった。
「それに、悠兄が」
「え?」
「……兄ちゃんが、遠くへ行ったまま戻って来ない気がしたし」
「馬鹿だな」
 笑おうとして出来なかった。貴史もお見通しなのだ。
「お姉ちゃん、商店街にいるかな」
 小夜子がどこにいるのかは検討がついていた。足を向けるには勇気が必要だった。
 坂を下ってあてもなく貴史と歩いた。賑やかな商店街もシャッターを下ろし始め、坂道を歩く頃には陽が暮れていた。高い空に星が輝いている。冴えた輝きが、いつか森の奥で見た灯火を思わせた。
 まだ幼い貴史を連れたまま、光を目指して森へ踏み込んだ事があった。あの時も、小夜子を探していた。
 闇の中に浮かぶ懐中電灯の光は、チラチラと命の炎のようだった。闇のせいで樹海と化した森は、やけに静かで。光に向かうにつれて、その静寂は破られる。人の話声がだんだん近くなって行くのだ。
 辿り着くと、人影が群れを成して何かを取り囲んでいた。
「小夜子さんは見つかったか」
 嫌な予感がした。人垣の中心で、小夜子が眠っていたのだ。犯人が捕まったと、じいちゃんが言った。
――最近町に変な輩が徘徊しとるらしい。
 そうだ。小夜子は気を付けなければいけなかった。日暮れの坂道には人気がなくなる。
――もちろん悠が守ってくれるわよね。
 約束したのだ。責任を持って守ると、なのに。
「野犬が食い荒らしたらしい。誰なのか分からん」
 分からない筈がない。体が小刻みに震えだし、足元から力が抜けて行く。
「……小夜、子」
 呼びかけて、いくら待っても返事はない。深く眠っているらしい。こんな所では風邪を引くかもしれない。温めてやらなければ。
 手を伸ばすと彼女の体は冷たかった。凍りついた人形のように。
 自分が凍てつく。小夜子の体は、こんなに小さくはない。
「……違う、小夜子じゃない」
 呼んでも答えない。腕に抱く体もあまりに小さい。これは違う、偽物だ。
「だって、返事をしない」
「悠。でも、お前――」
「違う。……あいつは、呼べば答える。だから、違う。――違う」
 これは、小夜子ではない。
「小夜子のわけが、ないんだ」
 風の音がする。樹々の囁きが聞こえる。
――悠、助けて。
 声が聞こえる。葉擦れの音に交ざって悲鳴のような、小夜子の声。
――助けて。
「違う!小夜子じゃない」
「悠。なら、なぜ泣く。小夜子じゃないなら、なぜ」
 じいちゃんに肩を叩かれた。小夜子の悲鳴が掻き消える。単なる樹々のざわめきだった。
「泣いてなんかいないよ」
 その日を境に、小夜子は姿を消した。

11 森に眠る


 至福の日々は、いつでもここにあった。
 小夜子のいる情景の中に。
 美しい森の避暑地にあった。
 夏が終わって彼女の不在を思い知ると、世界は色彩を欠いたように暗く沈んだ。
 彼女を失うことは、できなかった。
「どうした、貴史」
 暗い坂道で貴史が立ち止まった。俯いた顔から、小さな影が落ちたように見えた。
 涙だ。
「泣いているのか」
 三年前に繰り返し歩いた坂道。丁度、こんな暗い夜道だ。貴史の記憶の鍵も、もう外れてしまったのだろう。彼は泣いてないと言うように首を振り、俺の腕を引っ張った。
「どこへ行くんだ、貴史」
「森」
「おい。じいちゃんも小夜子も待っているのに」
「待ってないよ」
 硝子が砕けた。なぜか貴史の激しい否定は、そんな事を思わせた。分かっていた事なのに、衝撃が大きな波紋を描く。貴史には、いつまでも夢を見続けて欲しかったのかもしれない。 
 森に踏み込む貴史の背中は、三年前とは比べものにならない程大きくなっている。抱き上げる事の出来た小さな少年は、もういない。
「貴史、いい加減にしろよ」
 静まり返った森に、自分の声が響き渡る。永遠にこの森で過ごして欲しかったのは、小夜子であり、貴史であったかもしれない。何より自分が、この森で立ち止まりたかった。貴史がゆっくりと振り返る。
「あと少しなんだよ、悠兄」
「何が」
 あどけなさの残っている顔から、無邪気な笑顔が消え去っている。風が森を渡り、樹々が囁きを交わす。闇を照らすのは天上からの月光だけ。
 磨かれた鏡のような月が、白い光を鋭く地上へ突き立てる。
 貴史が俺の視線から逃げるように、顔を伏せた。
「いったいどうしたんだ。帰るぞ」
 貴史は小夜子の眠った場所を目指しているのだ。彼の腕を掴むと同時に、暗闇に慣れた目が、遺品を見つけた。繁る葉影の下でぼんやりと浮かぶ塊がある。立ち止まった俺に、貴史はすばやく反応した。
「悠兄」
 小夜子と共に時を止めた腕時計。水晶硝子に亀裂が走り、文字板の屈折が奇妙に歪んでいる。手に取ると、金属の冷たさが背筋に反射した。
「お姉ちゃんのだよ、悠兄」
「……ああ」
 終わりがやって来る。小夜子を探さなければ。森を吹き過ぎる風が、不自然に止まった。糸を張ったような完全な静寂が辺りを支配する。
 闇に沈んだ彼方から、細いソプラノが流れ出した。
「小夜子の歌声だ」
 悼む旋律。哀しみに満ちた歌声。呼んでいるのか、別れを告げているのか分からない。歌声を追って奥へ踏み込むと、声は次第に澄み渡って行く。
 木立の向こうに白く霞んだ人影が揺らぐ。気配に気付いたらしく、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「小夜子……。こんな所にいたのか」
 歩み寄って、切株に腰掛けている彼女に時計を差し出す。
「ほら、時計」
「ありがとう、悠」
 時を刻まないまま、細い腕に時計が戻る。小夜子は俺の背後に目を向けた。
「ねぇ、貴史君。もう一度聞いても良いかしら」
 振り返ると、少し離れた木立の前に貴史が立っていた。大きな瞳が真っすぐにこちらを見ている。
「私は、悠にふさわしいと思う?」
 貴史は答えない。表情が歪み、哀しみに彩られて行く。ただ震えた小さな声で、俺を呼んだ。
「悠兄……」
「何だ、貴坊」
 闇よりも透明な漆黒が、彼の瞳の中にある。
「今は、幸せなの?」
「幸せだよ」
 微笑んで見せると、貴史はかすかに頷いた。
「お姉ちゃんは?」
「私の幸せは、悠の幸せ。……でも、分からない。何が悠にとって一番幸せなのか」
 貴史の瞳が、哀しみを映した。小夜子の瞳から涙が滑り落ちる。
「悠には、未来があるわ。――貴史君、答えて」
「悠兄」
 しゃくりあげながら、貴史は俺を見上げた。涙に濡れても深い黒をたたえた瞳は、綺麗だった。彼の頭に手を置くと、貴史は腕で涙を拭う。
「泣くな、貴坊」
「……お姉ちゃん。――悠兄は、今が、幸せだって……」
 未来よりも美しいひとときは、いつでもここにあった。
 貴史だけが、その想いをわかってくれる。
 だから小夜子も俺も、彼に託したのかもしれない。
「ねぇ、僕の事、忘れないで」
 貴史の声が森を揺るがす。
 ゆっくりと、闇の彼方を目指した。
 樹々が奏でる鎮魂歌に包まれ、森に眠る。

森のレクイエム FIN

Back * 目次 * あとがき

初出年月日 1994.9.13 推敲年月日 2004.7.1
サイトup 2005.1.24

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