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森のレクイエム

一 森は歌う

1 森の家

 長く続く坂道のむこうに、樹々が見えはじめた。僕が指でしめすと、彼はうなずいた。毎年、叔父の悠兄(ゆうにぃ)と一緒に、夏休みの一カ月を避暑地ですごす。今年の夏は特に暑かった。都会を離れても、その暑さはついてきた。
「貴坊(たかぼう)。ジュースでも飲むか」 
 蝉の泣き声が、焼けたアスファルトに反響する。坂道の途中で、悠兄は足をとめた。
 今年で二十七になる彼は、額に汗を光らせて笑った。鼻筋の通った顔が優しくゆがむ。
「ほら、何にするんだ」
「そのオレンジの奴」
 重い音がして、自動販売機からそれがでてくる。缶はよく冷えていて気持ちが良かった。
「悠兄」
「ん。何だ、貴史(たかし)」
「今年は、お姉ちゃんは?」
「先に山荘へ行っているよ。着けば会えるさ」
 悠兄は何かをごまかすように、画材の入った大きなケースを左手に持ちかえる。
 前方には、地元の人が森とよぶ地帯がある。樹々がどこまでも茂り、野鳥が飛びかい、その木陰は夏でも涼しい。そんな森のはずれに、悠兄の小さな山荘がある。
 僕と悠兄と、小夜子(さよこ)さん。森の夏は、いつでも三人のものだ。
「悠兄。今度はどんな物語を書くの?」
「んー。まだ考えてない」
 彼は絵本作家だ。優しくて、切なくて、いつでも大好きになれる作品ばかりだった。夏になると絵本を一冊書きあげるために、この土地へやってくるのだ。
 坂を上りきり、小道を歩くと、ひっそりとたたずむ山荘が視界にはいった。白い壁がわずかに苔蒸している。
「おかしいな。先に小夜子が来ている筈なのに」
 悠兄は言いながら、一年ぶりに山荘の鍵をあけた。部屋の中は、窓からの陽射しで明るく照らしだされている。森から染みこんだ草の香りが、変わらず充満していた。
 ソファの片隅には、小さな掃除機が転がっている。
「貴坊。荷物をあっちの部屋へ持っていけ」
「お姉ちゃんは?」
「一応、先に来てはいるらしいけど」
 彼は画材をいつもの部屋へ持って入った。僕は窓を開けて森の空気を胸一杯に吸いこんだ。清んだ空気は、都会の汚れを洗い流してくれそうだ。
 風に流れて、歌が聞こえてきた。細いソプラノだ。樹々と風の関係で、ときおり森が歌うのだと、悠兄が教えてくれた。森の歌は、どこか切なく忘れることができない音色になる。儚く美しい、森の声。
 どこまでも続く木立のむこう、緑にけぶる奥の方から、ここまで流れつく。
「わっ」
「うわぁ」
 驚いて振りかえると、小夜子さんが笑顔で立っていた。長い髪が光に透けて、褐色に輝いている。
「大成功。久しぶりね、貴史君」
「びっくりした。気配もなく近づいてくるんだもん」
「だって、驚かせたかったから。――森の歌ね」
 窓からとぎれがちに響くソプラノを聞いて、小夜子さんは瞳を閉じた。
 やがて彼女も声を重ねる。森に負けず、美しい調べだ。消え入りそうな弱い調子から、胸の芯を突き刺すような強さまでを歌い分ける。磨かれた珠のように艶を帯びた響き。
「さーよーこー。この掃除機は何かなー」
「やだ、悠(ゆう)。大失敗」
「何が?」
 奥の部屋から顔をだして、悠兄が笑っていた。
「悠のこともびっくりさせてやろうと思っていたのに。森に誘われて歌っちゃったわ」
「馬鹿」
 コツンと彼に頭を小突かれてから、小夜子さんは掃除機を手にした。
「掃除はもう終わってるの」
「遅れてしまって、悪かったな」
 彼が謝ると、小夜子さんは哀しげに彼をにらんで、手にした掃除機を片付ける。
 悠兄は溜め息をついてから、ふと僕に気がついた。
「なぁに、ニヤニヤしてんだ。貴史」
「きっと一人で寂しかったんだよ、お姉ちゃん。悠兄ってば、愛されてるよね」
「お前は年々、生意気度が高くなるな」
「わ、悠兄。痛い、痛いってば」
 プロレス技から逃げきると、戻ってきた小夜子さんが背中から僕を抱いて、彼にベーと舌をだす。
「別に、私は寂しくなんてありませんでしたよー」
 悪態をつく彼女からは、良い香りがした。悠兄は僕を見て面白そうに笑っている。
「顔が赤いよ、貴史ちゃん」
「なっ……」
 咄嗟に小夜子さんから離れると、彼女は唖然としてから笑いだした。
「やーだ、貴史君。もう色気づくお年頃なのね」
「違う、お姉ちゃん」
「まぁまぁ、貴史ちゃん。お兄さんがいろいろ教えてあげるからね」
「悠兄っ!」
 顔を真っ赤にして叫ぶ僕に、二人は寄り添って笑っている。小夜子さんは三年位前から、この山荘に顔を出すようになった。悠兄の大学の頃からの恋人だ。
 僕は笑っている二人に反撃にでた。
「何だよ。笑ってる暇があるなら二人はさっさと結婚しろよな」
 その台詞は、二人にはかなり効果があった。

2 花火


 僕達が着いた晩は、例年のように小夜子さんが御馳走を作ってくれた。
 早速、アツアツの天ぷらを頬張っている隣で、悠兄は深刻な顔をしている。張りつめた空気を感じとって、話しかけることができなかった。
「悠」
 緊張を揺るがす大きな声。彼はゆっくりと顔をあげた。でも、小夜子さんはひるまない。凛とした瞳が彼をにらんでいる。
「物語を考えるのもいいけど、美味しいとか、何か言うことはないの? そんな怖い顔してられちゃ、美味しいご飯もまずくなるじゃない」
「話を考えている訳じゃないよ」
 悠兄はおかしかった。実は、ここにくるまでの間も何度かこういうことがあったのだ。妙に落ちつきがなくなったり、じっと黙って考えに耽ったり。無表情な顔は整い過ぎて、作りもののようでさえあった。
 真摯な瞳が、まっすぐ小夜子さんを見ている。
「どうしたの?」
 さすがの彼女も、少し戸惑っている。悠兄の唇が動きかけた時、小夜子さんが咄嗟に口を開いた。
「そうだ、貴史君。後で花火をしましょう。私、用意したのよ」
「あ、うん」
 ぎこちない空気が残る。悠兄は弱く笑うと、勢いよくご飯を掻きこむ。小夜子さんの溜め息が聞こえてきた。
 少しおかしな夕食が終わると、外へでた。
 樹々の黒い影のあいだから濃紺の空が広がり、月がみえる。吸いこまれそうなほど澄んだ空は、手で叩けそうなほど近い。石を投げればそのまま硝子のように砕けて、破片が降って来そうだ。
 悠兄がバケツに水を汲んで持ってきた。小夜子さんは蝋燭に火をつける。
 赤い炎に照らされて、ユラユラと影が揺らめいた。
 花火をしているあいだ、小夜子さんは悠兄と言葉を交わさなかった。僕の側から離れず、じっと激しく閃く火花を見ていた。悠兄が、時折ネジの緩んだ人形のように、ぎこちなく唇を動かそうとし、そのつどやめた。
「――仕事を始めるから」
 全ての花火が灰にかわると、悠兄は呟いて中へ引きこもった。小夜子さんは、また深い溜め息をついた。
「どうかしたの? 悠兄もお姉ちゃんも」
 彼女は微笑んだ。そんな寂し気な笑みを、僕は見たことがない。綺麗な顔は、暗がりでも白く浮かびあがる。そのまま闇に溶けこみそうに、輪郭がにじんでいた。
「どうかしているのかもしれない。……怖いわ」
「何が?」
 彼女は答えず、立ちあがった。僕に手を差しだして、立ち上がらせてくれる。細い手は夜の涼気のためか、ひんやりと冷たかった。
「中に入りましょう」
 自分勝手に鳴く虫の声が、背中から追いかけてくる。

3 桃


 袋一杯の桃をさげて、今年もじいちゃんが訪れた。桃は完熟していて、柔らかい。皮にはえた産毛が、手の平に優しく刺さる。
「一体いつになったら彼女と一緒になるんじゃ、お前は」
 じいちゃんは坂の下の町に住んでいる。初めてここを訪れた時、困っていた彼を助けたのが出会いだ。
「じいちゃん……」
 悠兄は痛いところを突かれたように、頭をたれた。僕はキッチンにいる小夜子さんのところへ桃を持って走る。切ってもらい、皿に並べたそれを手に、再び二人のいるリビングへ戻った。
 皮をむかれた果実からは、小夜子さんと同じ香りがする。甘くけだるい、心を和ませる匂いだ。
「ええかー、悠。ぐずぐずしとると、トンビがやって来てさらっていかれるぞ」
 悠兄はうんざりしながらじいちゃんの言葉を聞いていた。じいちゃんは、毎年訪れるたびに彼に同じことを繰りかえしている。
「なぁ、貴史。お前も言え。悠にさっさと結婚しろと」
 僕はうなずいて悠兄にわざとらしく笑みを向けた。
「うるさいなぁ、二人とも。俺だって考えてないわけじゃないよ」
「だったら、さっさとせんか」
「はいはい」
「なんじゃ、その気のない返事は」
 さすがの悠兄も、じいちゃんにかかっては赤子同然だった。
「それはそうと、最近町に変な輩が徘徊しとるらしいからな。ここも気をつけんといかんぞ」
「変な輩。変質者とか?」
 話の矛先が変わって、悠兄はやっと真っすぐじいちゃんを見る。僕が桃にかぶりついていると、じいちゃんはシワの顔で不気味に笑った。
「まぁ、そんなようなもんよ。小夜子なんぞは美人じゃから気をつけんと。なぁ、悠」
「じいちゃん、その意味ありげな流し目はやめてくれよ」
「ふふ。しかし、最近は月が綺麗じゃろう」
「月?」
「月のある晩は良くないことが起きるぞぅ」
 じいちゃんの言い方が不気味で、僕は思わず肩をすくめてしまう。彼は年に似合わない豪快さで笑った。
「冗談じゃよ、貴史。怖いか」
「別に」
「男はそうでなくてはいかん。じゃ、そろそろ失礼しようか。戸締まりはしっかりとな」
「ああ、分かった。ありがとう、じいちゃん」
 悠兄が玄関先まで彼を見送って、戻ってくる。
「やれやれ」
「桃、美味しいよ、悠兄」
 歯を入れると、甘い密が染み出してくる。
「あら。もう帰っちゃったの? おじいちゃん」
 小夜子さんがキッチンから顔をだして、残念そうな声をあげる。悠兄は桃を頬張りながら、さりげなく話した。
「ああ。さっさと身をかためろって、そればっかり連発してた」
 次の瞬間、二人のあいだに妙な空気が流れた。思わず吹きだしてしまう。
「何笑ってるのよ、貴史君」
 小夜子さんが軽く僕の頭をたたく。悠兄の深い溜め息が聞こえてきた。

4 紺色(ビロード)の小箱


 悠兄が仕事場にしている奥の部屋は、絵の具の匂いがする。濃いその香りは、森の青臭い匂いと似通っていた。
「兄ちゃん、昼ご飯だって」
「んー」
 振りかえらずに返事をする彼に近づくと、デスクの上に淡い色彩が広がっていた。まだ書きはじめたところらしく、一面緑だったけれど、それだけで充分優しかった。
「綺麗だね」
「まだ、何を書いているか分からないだろ」
 筆をおいて、悠兄は僕に笑いかけた。
「お昼だよ、いこう」
「なぁ、貴坊」
 ふいに呼びとめられて振りかえると、悠兄は部屋の扉を閉めるように促す。
「どうしたの?」
 扉を閉めて、再び彼のデスクに近づくと、悠兄はちょっと考える様子で言った。
「小夜子、おかしくないか」
「おかしいのは悠兄じゃないの?」
「がくっ」
 彼は椅子の上で態勢を崩すフリをしてから、苦く笑う。
「だって、何か考えこんで怖い顔したりさ」
「んー、それは何て言うかね、けっこう覚悟がいるんだよ、男は」
「はぁ?」
 首をかしげると、悠兄はデスクの引きだしから箱を取りだした。紺色の小さな箱。窓からの太陽光線で青色に鈍く光っている。深い青は、まるで海底の色を吸いとったように鮮やかだ。桃の皮のような毛並みまで持っていた。
「それって……」
「さぁ、貴史。これは一体何でしょう」
「ひょっとして、指輪?」
「ピンポン」
「すごい。悠兄。やったじゃん」
「お前ね、まだ渡してないだろ」
 彼の手の中の箱を取りあげると、確かに中で指輪が煌めいていた。くもりのない眩しい輝き。硝子でもなく水晶でもない、透明に磨きあげられ、切りこまれた石。神聖な光が表面で反射する。
「早く渡せばいいのに」
 僕がはしゃいでいると、彼は吐息をついて髪をかきあげる。箱を手にしてデスクに置くと、もう一度言った。
「小夜子、おかしくないか」
 めずらしく、悠兄は悩んでいるようだ。
「こういうことはガキの方が敏感だろ」
「そうかな、確かに悠兄をさけてるかなって思う時もあったけど。でも、それは悠兄が怖い顔してたからじゃないの?」
 言いながら、思わず吹きだしてしまう。
「悠兄、可愛いなぁ」
「お前はー、調子に乗るんじゃない」
 すぐに腕が伸びてきて、プロレス技をかけられる。
「痛い。ギブアップギブアップ」
 僕をはなしてから、悠兄はまた溜め息をついた。頭をたれて上目使いにこっちを見る。彼の長い前髪が視界をさえぎり、その瞳に影をつくった。
「単に俺が神経質になってるだけか」
「そうだよ。……だいたい、これを用意するためにここにくるの遅れたんだろ。小夜子さんが少し機嫌を損ねてるとしても、それを渡せば解決じゃん」
「でも、時計をしていないんだ」
「え?」
「ああ、いや。お前も中坊になって、しっかりしてきたな」
 悠兄の言葉に胸をそらせて威張っていると、いきなりドアが開いた。
「こら。二人とも、早く来てって言ってるでしょ。ご飯が冷めるじゃないの」
「ごめーん、お姉ちゃん」
 慌てて部屋をでようとした僕の背後で、低い声がした。
「小夜子、話があるんだ」
 思わず僕の鼓動が高鳴る。小夜子さんの横顔がサッと緊張したのが分かった。
「その前に……」
 彼女は取りつくろうように、唇を動かした。
「その前に、ご飯を食べて頂戴」
「……ああ」
 悠兄が立ちあがって、僕を促して部屋をでる。
――小夜子、おかしくないか。
 彼の危惧を、はじめて理解した。たしかに彼女の反応は不自然なのだ。だって、見たはずだ。デスクの上の紺色の箱を。青く鈍い光沢を放つ、小さな箱。誰が見ても、それが何を意味するかは分かりきっている。

5 すれちがう風


 昼食を終えて食器を流しへはこぶ僕に、悠兄は退散しろと合図を送ってきた。思わず笑いながら、軽くうなずいて見せる。
「悠兄。僕、仕事場へいって絵を見るから。いいよね」
「ああ」
 食卓をはなれて廊下へでる。仕事場へはいかずに、盗み聞きすることに決めていた。息をひそめて中の様子をさぐる。
「あのな、小夜子……」
「悠、今度はどんな物語なの?」
「まだ決まってない。それより、小夜子」
「ご飯、もういいの?」
 しばらく、沈黙があった。心臓が幾分、鼓動を強く打っている。じれったいようで、不安で、少し嫌な予感がしたのだ。
「それが、お前のやり方か」
 低くおさえた声が漏れてくる。小夜子さんの小さな声が答えた。
「少し、考えさせてほしいの」
「わかった」
 椅子をひく音がして、慌てる僕にかまわず悠兄が姿を見せた。何も言わず、無表情なまま自分の仕事部屋へ消えていく。背中を見送ると、胸に石がつまったように苦しくなった。そっと食卓をのぞくと、小夜子さんは食器の片づけをはじめていた。
「貴史君。悠の部屋へ行っていたんじゃないの?」
「どうして? お姉ちゃん」
 彼女は察したようで、寂しく笑った。
「盗み聞きはよくないわね」
「どうして。悠兄のこと、嫌いになったの?」
「違うのよ」
「だったら……」
「ねぇ、貴史君。私には、私の事情があるの」
 小夜子さんは涙を零さないのが不思議なほど、哀しそうな顔をしている。悠兄よりも明るい琥珀の瞳が、潤んでいた。僕は何も言えなかった。
 森から、歌が聞こえてくる。ゆっくりと小夜子さんからはなれて、悠兄の部屋へ向かった。
 どこか哀しい歌声は、仕事部屋にも響いている。冴え渡ったソプラノは不気味なほど高音だ。女の人の悲鳴のように聞こえる。
「貴坊か」
 右手に筆を持って、悠兄が振りかえった。いつもどおりの微笑みが宿っていた。少しホッとして近寄る。物語の一部を書きなぐった紙が床に落ちていた。鉛筆のうすい線が筆記体のように滑っている。
 『森のレクイエム』
 右端に書かれた、その言葉だけを読みとった。
「これ、落ちてる」
「それは、そこに置いてあるんだよ」
 描かれている緑は、さっきよりもわずかに深くなっていた。
「森?」
 聞くと、悠兄は尻上がりの口笛を吹いた。
「正解、よく分かったな」
「うん。だって、あの紙に。……ここの森がモデルだね。どんな話なの?」
「簡単に言うと、森が歌う話」
「レクイエムってどういう意味?」
「死んだ人の魂を、慰めて鎮める歌ってことかな」
「……ふうん」
 悠兄の絵は、そのまま彼の心だと思う。優しいのだ。色使いも、線の流れも。水を含ませた筆が何度も行き来して、言葉で表せない、澄んだ色が広がる。色鉛筆で仕上げをされた絵になると、透き徹った色彩のうえに、鉛の影が落ちて、深い情景が現れる。画面一杯に、想いが溢れて息づくのだ。
「また、哀しい物語になるの?」
「かもな。貴坊はハッピーエンドの方が好きか」
「ううん。でも、悠兄はなんでそんな切ない物語ばっかり書くようになったのかなと思って。昔の奴は、気持ち良すぎる位ハッピーエンドだったから」
 彼は、ただ首をひねった。
「そういえば、そうだな」と呟いてから、吐息をつく。
「現実はそう甘くないからな」
「悠兄って夢がないよね。それが物語にでてるわけだ」
「悪かったな。ハッピーエンドも好きだけどね」
 森の情景は、透明感をそのままに深みだけを増していく。硝子の箱に閉じこめられたように、平面の中で世界ができあがる。しばらくじっと絵に見入ったあとで、オズオズと言ってみた。
「ねぇ、悠兄。小夜子さん、泣きそうな顔をしてた。だから、あきらめたら駄目だよ」
 ゆるやかに動かしていた手をとめて、彼は僕を見る。少し胸が痛くなるような、優しい微笑みが返ってきた。
「予感はしていたんだ。時計をしていないから」
「時計?」
「そう。ほら銀色の、お前も知っているだろ? いつも肌身はなさず付けていたのに。だから、な」
 小夜子さんの細い腕を飾っていた腕時計。全体が銀色で、表面の水晶硝子が針を屈折させる。
 悠にもらったのよ。って、彼女の笑顔を一緒に覚えている。
「でも、去年も言ってなかった? 悠兄。お姉ちゃんが時計してないって」
「……言ってないと思うけど」
「じゃあ、気のせいかな。とにかく、時計なんて忘れてきただけかもしれないし。がんばれ、悠兄」 
 声援を送ると、彼は笑う。
「まだ、振られたわけじゃないからな」
「うん」
 聞こえてくる森の声はどんどん遠ざかり、やがてやんだ。

6 森の歌


 夕食がすんだ後、悠兄はすぐに仕事部屋にこもる。
 リビングのソファに座っていると、森が歌いだした。途切れがちなソプラノが聞こえてくる。やがて声が近くなった。
 優しい声音が高く響きわたる。あまりにもはっきりと聞こえるので、外へでてみると小夜子さんが歌っていた。玄関をでたところの段差に腰かけて、森と一緒にメロディーの波に漂っている。
「お姉ちゃん」
 ピンと張った糸がゆるむように、声が途切れた。彼女は振りかえって笑う。
「森の声かと思った。歌が好きだね」
「まぁね。学生時代は声楽をやっていたから。目指せソプラノ歌手、なんてね」
「へぇ。だから上手なんだ」
「これくらい、普通よ」
 笑いながら、彼女はまた歌いはじめた。高い音が更に上り詰めてゆく。水晶をこすりあうと、そんな音がするのかもしれない。
 ゆっくりとした旋律が、しだいに高まり、樹々と共鳴する。
 染みわたる歌声。重なる森の歌と、葉ずれの囁き。
 不思議なほど、心が落ちついた。少しずつ思いが磨かれ、最後には素直な気持ちだけが残る。
 闇が洗われたように、透明感を増していた。
 小夜子さんの独奏(ソロ)が終わると、思わず拍手を送った。
「すごいよ、お姉ちゃん。それ、何て言う曲?」
「『アヴェ・マリア』よ」
「きっと、一生忘れないと思う。見て見て、鳥肌が立ったよ」
 彼女はギュウッと僕の肩を抱いて、嬉しそうに笑った。
「大袈裟よ、貴史君は」
「そんなことないもん」
 森は、静かに闇に沈んでいる。小夜子さんは深く息をついて僕を見た。
「ねぇ。私は悠にふさわしいと思う?」
 驚いたけれど、すぐにうなずいた。彼女は撫でるように僕の頭をたたく。横顔からどこか暗い微笑みがもれた。
「私はそうは思わないわ」
「そんなことないよ。それに、悠兄が好きなんでしょう?」
 彼女は真っすぐ僕を見た。暗闇の中でも、吸いこまれそうなほど澄んだ瞳。
「私の心には、悠が棲んでる。今別れても、きっと思い出と一緒に彼だけは残るわ。でもね、見て」
 小夜子さんは細い腕を少し上げた。それは白い磁器のようにぼんやりと光って見える。
「時計を、無くしてしまったの」
「そんなの。それ位のことで悠兄は怒らないよ」
「そうね。でも、この時計が二度と戻って来ないように、取りかえしのつかないことがあるの」
「何かあったの? お姉ちゃん」
 彼女はゆっくりと首をふった。
「ただ、もう彼にはついていけない。今年で最後にしようと思っていたのよ」
「別れちゃうの?」
 長い髪がゆれ、彼女はうなずく。弱い微笑みを浮かべたまま。
「そんなの変だよ。お姉ちゃんは悠兄を好き。悠兄もお姉ちゃんを好き。なのに、どうして?」
 思わず声が高くなっていた。小夜子さんの横顔が、遠かった。空をおおう黒い梢にさらわれ、消えてしまいそうだ。
「悠が、可哀想よ」
「お姉ちゃん」
「何をもめているんだ」
 開いた扉からもれる光が、僕と小夜子さんを照らす。悠兄が背後に立っていた。ゆっくりと扉を閉めて、歩み寄ってくる。
「貴坊。中に入ってろ」
 おだやかに、彼が言った。後ろ髪ひかれながらも中へ戻る。リビングの窓から二人の姿をたしかめて、奥の仕事部屋へ駆けこんだ。
 ちょうど、その部屋の窓から二人の様子が間近に見える。すでに窓は開いていて、声が聞こえてきた。
「小夜子……。何かあったのか」
「何も。ただ、時計を無くしてしまったの」
 小夜子さんの隣に、悠兄はゆっくりと腰をおろした。二人は寄り添うように座って、影を作る。樹々の間からのぞく夜空に、月が煌々と光っていた。
「もう、今年で最後にしましょう」
 森がふたたび歌いはじめた。ゆるい風が流れ、葉ずれの音にソプラノの歌声が重なる。切ない、悲しい音色。まるで、小夜子さんの心を語るように。
「俺は理由を聞いているんだ」
 彼女が、隣にいる悠兄の顔を見つめる。遠くてよく分からないけれど、微笑んだようだ。
「今の貴方には、知らないことが多すぎる」
「小夜子」
「――悠は何も知らない」
 彼は小夜子さんの腕をつかんで引き寄せる。悠兄の澄んだ瞳は、遠目に見ても綺麗で、真摯に光っていた。
「知っているよ。小夜子を知ってる」
 月が照らしだす二つの影が、一つになった。くぐもった小夜子さんの声が、途切れがちに聞こえた。
「一緒にいるのは、苦しいわ」
「それはお前が、俺に惚れているからだ」
 森の美しい声だけが、音になる。細く細く、微かにここまでたどり着く声。暗く沈む森の彼方で、誰かが歌っているように。
 やがて、小夜子さんの笑い声がとどいた。
「自惚れてるわ」
「そうだよ、悪いか」
 彼女は顔をあげて、少し彼から身をはなす。
「でも、もう少し考えさせて。まだ心の整理がつかないの。……貴方には、笑顔で答えたいから」
「――わかった」
 悠兄の声が、優しかった。

7 きおくの坂道


 次の日、悠兄と一緒に坂の下の町までおりた。画材を買うためだ。ついでに小夜子さんに買い物をたのまれた。坂道には影がなく、日光がまともに肌を焼く。蝉はここについた頃と変わらず賑やかだ。
「できれば、あの種類のパステルがあればいいんだけど。失敗したな」
 坂を下りながら、悠兄は困った顔をしていた。彼の話によると、例えば同じ色鉛筆の緑でも、種類によって微妙に違いがあるそうだ。
「ところでさ、悠兄。……昨夜、良かったね」
 一歩前に踏みだしてから、振りむいて笑みを送る。彼は少し眉をあげてから、軽くにらんだ。
「お前、のぞき見していたな」
「だって、応援してるし。――気になってたしさ」
 吐息と共に表情をゆるめて、悠兄は優しく笑う。
「でも、まだ返事をもらってない」
「ほとんどイエスだよ。あれは」
「あー、もう、うるさい。お前は」
 ぐしゃっと力強く頭をかきまわされた。彼の腕から逃げだして坂を走る。遠くに目を向けると、わずかに水平線が見えた。空の青とまざり合いそうな境界が、優しい線になっている。その上空にいすわっている入道雲。
 雲のつくる陰影が、空のうすい青と溶け合っていた。どこまでも高く、魂が形作った一本の白い樹のようだ。天へと突きあげる、純白の巨木。
「でもさ、悠兄。大人ってよく分からない。変なの」
 彼は追いついてきて、ポンと僕の背中をたたく。
「貴坊もそのうち分かるようになるさ。まだまだ子供でいなさい、お前は」
「ちぇっ」
「おい。あれ、じいちゃんじゃないか?」
 坂の下から、ゆっくりと歩いてくる人影があった。浴衣を着た彼も、こっちに気づく。駆け寄っていくと「大きくなったな」と肩を叩かれた。
「今年もやっぱり来とったのか」
「何を言ってるんだよ。この前、じいちゃん桃を持って来てくれたじゃないか」
「この前?」
 首をかしげるじいちゃんに、僕と悠兄は顔を見あわせる。
「なぁ、じいちゃん。一週間位前にうちの山荘に来てくれただろ」
 確認するように尋ねると、じいちゃんはますます不思議そうに僕達を見る。悠兄は深い吐息をついた。
「じいちゃん、俺に早く結婚しろって言っていたじゃないか」
 彼は小さな瞳で僕と悠兄を交互に見つめた。
「まぁ、ちょっと待て。貴史も悠も。お前達の言っとることはさっぱり分からん。わしはお前達に会うのは一年ぶりじゃ」
「じいちゃん」
「去年のことは覚えとるよ。悠に早く小夜子を忘れるように話した」
――小夜子を忘れるように。
 この地では、森が歌う。あれは一体いつからだっただろう。
「小夜子を忘れろって。じいちゃん、この前はさっさと身をかためろって……」
「去年、確かに言ったぞ。早くいい人を見つけて身をかためろと」
 悠兄は、眉を潜めてじっとじいちゃんの顔を見つめている。僕にはじいちゃんの言う場面が、なぜか頭の中にあった。
「ねぇ、じいちゃん。じゃあ、悠兄にお姉ちゃんとさっさと結婚しろって言ったのはいつだった? 言ったよね、じいちゃん」
 彼は悠兄を見てから息をついた。顔に刻まれたシワに、汗が光っている。肌をこがす太陽の光線が、ジリジリと痛かった。蝉の声がわずらわしく、思わず近くの樹々を振りかえった。目を凝らしても、ゆれる緑の影に隠れているのか、姿は見えない。
「今日のお前達はどうかしとる。久しぶりにここに来て、昔を思いだしたか」
「え?」
「三年前じゃ。わしが悠に小夜子と結婚しろと言ったのは。あの年は町に変な輩が徘徊しとった。覚えているか、悠。お前は忘れるはずがないだろう」
「ちょっと待ってくれよ、じいちゃん。それ、この前聞いた」
「……この前」
 色水がまざりあって濁るように、記憶の見通しがきかない。
「変だよ、悠兄。僕、頭が混乱してきた。だってじいちゃんの言ってることも正しい」
「悠」
 じいちゃんが穏やかに呼びかけた。悠兄は蒼ざめた顔をあげる。
「お前は今年も去年と同じ瞳をしているな。あの時から、ずっと同じじゃ。本当は、もうここには来ない方がいいのかもしれん。……ちゃんと、心の整理がつくまで」
「じいちゃんの言ってることは、理解できないよ」
 低く吐きすてて、悠兄は歩きはじめた。じいちゃんが僕を見る。瞳の色は鈍く、像を結んでいるのかどうか分からない。
「貴史は大きくなったな。あれから、もう三年」
「じいちゃん」
 彼は寂しそうに笑い、そのまま歩きはじめた。
 蝉が鳴いている。強くなったり弱くなったり、不規則な声だ。
 しばらくじいちゃんの背中を見つめたあと、悠兄を追いかけて走った。

8 まちがい


「悠兄」
「あったよ、緑のパステル」
 町の画材店でも、悠兄の顔色は蒼かった。色とりどりの絵の具や、大小さまざまな筆が並ぶなか、彼は何度も深い息をついた。
 僕の気持ちも、どこか重い。
「これが、パステル。色鉛筆じゃないんだ」
「そうだよ」
 パステルは太く、微妙な色の差で順番に並んでいる。綺麗な濃淡はそれだけで価値がありそうだ。試しに手にとって用紙にこすりつける。芯は粉になり、蝶のリンプンのように細かい。
「じいちゃんも、ついにボケがはじまったか」
「そうかな」
 山荘では、小夜子さんが僕達の帰りを待っていた。頼まれていた物をさしだすと、受けとって笑う。
「ありがとう。今日の夕飯はね……」
「お姉ちゃん、じいちゃんに会ったよ」
「おじいちゃんに?」
 その続きは悠兄が口にする。
「そう。おかしなことを言っていた。少し、ぼけはじめたのかな」
「暑いからじゃないの?」
「そんな感じじゃないんだ」
「――そうなの」
 小夜子さんがキッチンへ姿を消すと、悠兄も仕事部屋へ向かった。彼を追いかけて部屋へ入ると、椅子に腰かけた悠兄がこっちを見ている。顔色が蒼く、表情も硬くこわばっていた。
「貴史」
 まるで貧血をおこしたような彼の様子に戸惑いながら、側まで駆け寄ると肩をつかまれた。指が食いこんで骨でとまる。
「痛いよ、悠兄」
「どういうことなんだ」
 うつむいた彼から、かすかに声がもれた。力のこもった指先が小刻みにふるえ、白くなっていた。やがて顔をあげて、悠兄は僕を見すえる。蒼白な顔は像のように動かず、整っていた。
「じいちゃんが、ぼけているんだ。そうだな、貴史」
 流れる汗が、硝子細工のように滑りおちていく。
「小夜子はここにいる、そうだろう?」
「うん」
 泣きたくなった。どちらが間違いであるかは、明きらかだった。
「お姉ちゃんはここにいるよ。じいちゃんがぼけているんだ」
 悠兄は力なくデスクに顔をふせた。つかまれていた腕が赤くなり、熱を帯びる。それでも、悠兄の指の冷たさが残っている。

9 くりかえし


 数日が過ぎて、再びじいちゃんが桃を片手にやってきた。夕暮れ時で、黄昏の暖かな光がけだるく帳を下ろす。森では、変わらずゆるい涼風が吹いているようだ。
「じいちゃん、また来てくれたの? 小夜子さんは買い物にいってるけど。……悠兄を呼んでくる」
 じいちゃんを部屋へ促してから、奥の部屋へいこうとすると腕をつかまれた。痩せた手が僕をとめる。
「じいちゃん」
「お前は悠の演技につき合っているのか」
「え?」
 しばらく見あったまま、黙りこむ。静寂の中に時計の秒針が響いて、時が止まらないことを告げていた。
 そこに扉の開く音がする。悠兄が顔をだしたのだ。
「なんだ、じいちゃんか」
「悠兄」
 彼は歩み寄ってきて、玄関の方を向いたまま続けた。
「小夜子がなかなか帰ってこないな。俺、ちょっと迎えにいってくる。じいちゃん、戻ってくるまでゆっくりしていてくれよ」
 いつか、聞いたことのある台詞だった。あれは、いつのことだろう。
「悠」
 鏡の砕けるような、大きな声が響いた。
「いい加減に目を醒ませ」
「どうしたんだよ、じいちゃん」
 悠兄を睨む厳しい瞳の中に、わずかに哀しみが揺らめいていた。
「とにかく、俺は行ってくるから。すぐ帰ってくるよ」
 悠兄は戸惑い、逃げだすように玄関へ向かった。部屋から消える背中が、なぜか遠く小さい。じいちゃんは表情をゆるめ、哀しそうに僕を見た。
「……ついていってやれ、貴史」
「あ、うん」
 突っ立っていた僕を促して、じいちゃんはソファに深く沈みこむ。
 玄関へ向かうと、悠兄はすでに外へでていた。

10 三年前


 小夜子さんの姿は、どこにもなかった。
「入れ違いになったのかな」
 町の商店街を抜けて、細い道にでた。そのまま山荘への坂道につながっている。陽は山に隠れ、辺りは暗かった。まだ完全に沈んではいないらしく、太陽は雲に茜色の影を刻んでいる。
 紺、紫、青、藤、橙と、空に濃淡ができ、星も瞬きを始めていた。磨かれたような満月が、上空に大きく顔をだしている。
 悠兄と僕の影が、薄く背後に伸びていた。
 いつか、同じような事があった。
 もっと真夜中で、悠兄と二人でこの道を歩いていた。不安な気持ちを隠し切れず、僕も彼も小走りに坂を上る。
 濃紺の空には、細い月があった。薄い雲がかかると、時折僕と悠兄の微かな影が消えた。
 田舎の道で電灯はなく、月の光がそのまま明かりだった。しんと静まり返った夜道で、僕と悠兄の足音だけがしていた。
 凍りついたような三日月。目を凝らすと、影の部分が見えて来て本来の丸い姿が明らかになる。
 坂を上っていると、森の暗い影が彼方に現れる。その中で小さな灯火が、くるくると回っていた。耳を凝らすと、人の声が聞こえてくる。まだ小さかった僕は、悠兄に手を引かれて坂を駆け登った。
 森の中へ足を踏み入れると、人の話し声は近くなる。遠くから見えた灯火は懐中電灯の光だった。
 つないでいた悠兄の手は冷たく、汗に濡れていた。走った動悸と緊張の動悸が交ざって、気分が悪かった。半分泣きながら悠兄を見上げると、彼の顔は暗闇の中で白く霞んで見えた。人形のように無表情で、前方の小さな光を見据えている。
「悠兄」
 心細くなって声をだすと、彼は動かない表情のまま振り返り、僕を抱き上げて歩いた。
「大丈夫だよ、貴坊」
 やがて樹々の密生している地帯に、たくさんの人影が見えてくる。影は死神のように黒くうごめいていた。
 話し声が明らかになってくると、悠兄の手は一層冷たく凍っていく。
 死神のような群れから、振り返る影があった。
「悠」
 じいちゃんだ。緊張感がその場に広がり、群れを成す影も、一斉にこっちを見た。悠兄が、そっと僕を地面へ下ろす。
「小夜子さんは見つかったか」
 誰かが言った。悠兄は石膏のように棒立ちのまま、ただ首を振る。
「悠、犯人が捕まったそうじゃ」
 じいちゃんが悠兄の肩を抱くようにして、人垣の中心へ連れていった。
「遺体は森に放置したままだと……」
 一人置き去りにされたのが心細くて泣きだすと、誰かが僕を抱き上げてくれた。悠兄と同じ、冷たく白い腕だった。目の位置が高くなると、悠兄が見えた。
 雪で作られた人型のように、彼は身動きしない。顔はそこからでも真っ白で、ぼんやりと輪郭が浮かび上がっている。誰もが口を閉ざし、黙っていた。
 静けさの中を、風が梢の葉を掠めて森を渡っていく。
 葉擦れの囁きが遠ざかり、風が止んだ頃、呟きが聞こえた。
「これは……」
「野犬が食い荒らしたらしい。誰なのか分からん」
 人垣の間から、かすかに黒い影が見えた。悠兄の足元に転がっている。長い髪の毛のようなものが、辺りに広がっていた。
「あれは何?」
 聞くと、僕を抱いている人は、ただその腕に力をこめた。
「悠」
「こんな……」
 掠れた声音だけが、風に流される。
「――小夜、子」
 呼びかけに、答える声はない。長い空白だけがやってくる。
「……‥違う、小夜子じゃない」
 悠兄が、折れるように膝をついた。暗闇の中で彼の腕が伸びる。そのまま転がっていた黒い影を、引き寄せた。
 襤褸切れのような塊は、悠兄の腕に抱かれると女の人に見えた。
「だって、返事をしない」
「悠。でも、お前――」
「違う。……あいつは、呼べば答える。だから、違う。――違う」
 囁くように、絞りだした声。「違う」と、そればかりを繰りかえす。
「悠兄。泣いてる」
 見上げると、僕を抱き上げたまま彼女は弱く微笑んだ。澄み切った瞳から、夜露のような涙が零れている。冷たい滴になって、僕の頬にも触れた。
「お姉ちゃんも、泣いてるの?」
 彼女は答えなかった。
「――小夜子のわけが、ないんだ」
 長い長い静寂が、やってくる。

11 森は歌う


 三年前から、森は歌うようになった。
 あの日から、悠兄はハッピーエンドを描かなくなった。
 僕達は毎年ここへ誘いこまれ、夏の間夢を見た。
「どうした、貴史」
 坂道で立ち止まった僕につられて、悠兄も足を止めた。前方には黒い森が佇んでいる。
 もう、小夜子さんはいない。
 熱い涙が滑り落ちた。溢れでて止まらない。
「泣いているのか?」
 激しく首を振って、悠兄の腕を引っ張る。彼は当惑したままついてきた。
「どこへいくんだ、貴史」
「森」
「おい。小夜子もじいちゃんも待ってるのに」
「待ってないよ」
 美しく懐かしい記憶。蝉の鳴き声に、悠兄と小夜子さんと僕の笑い声が響く。とうの昔に失われていた幸せ。
 彼女は、もういない。
 完全に陽が暮れ、森は闇に沈み、柔らかい土が足音までも消し去ってしまう。丈の低い草が影になり、手を伸ばしているように見えた。
 風も吹かず、ただ静けさだけが横切っていく。
 無造作に生えた樹々の輪郭が、闇よりも黒く聳え立っている。行く手を遮るように伸ばされた小枝を掻き分け、あの場所を目指す。
「貴史、いい加減にしろよ」
 怒ったように、悠兄が鋭い声を上げた。森の中に巡らされた枝を揺るがすような、凛とした声だった。
 振り向くと、あの時と変わらず彼の顔は蝋のように浮かんでいる。その中の瞳は、闇と同じ漆黒でこっちを見ていた。
「あと少しなんだよ。悠兄」
「何が」
 答えられず、視線を地面に落とす。目は暗闇に慣れたらしく、地面に群がる草を見分ける事ができた。
「いったいどうしたんだ。帰るぞ」
 僕の腕を掴んだ彼の手は、驚くほど冷たかった。
「悠兄」
 彼はふいに立ち止まり、一点を見つめていた。草の覆い茂る地面に注がれた視線。不思議に思って目で追うと、葉影の下で、何かが土に埋もれている。
 悠兄がゆっくり、塊を拾い上げた。
――時計、だった。
 かつて、小夜子さんの細い腕を飾っていた時計。
 表面の水晶硝子が、わずかにひび割れている。針は動かず、彼女の時が止まった事を告げていた。
「お姉ちゃんのだよ、悠兄」
「……ああ」
 風が、歌声を乗せて漂ってきた。
 森が歌っている。
 悠兄は立ち上がると耳を澄ました。
「小夜子の歌声だ」
 彼は歌声の方へ向かって歩き始める。横顔は作り物のように無表情だった。澄んだ瞳は森の奥を見つめ、虚ろに見えた。小枝をかわし、彼は闇に沈む奥へと踏みこんでいく。
「悠兄、待って。これは森の音だよ。風の関係で声のように聞こえるだけだ」
 振り返る事もなく、彼はどんどん進んでいく。ついていくのが精一杯だった。
 風と共に流れるソプラノは、まるで声の元が一点にあるように、奥へ入るほど聞き取りやすくなる。音色は声に変わり、言葉になった。
「悠兄」
 彼は前方の木立の間を抜け、立ち止まった。
 樹々に囲まれ、自然に作られた神殿の内部のように、ぽっかりと空間がある。その中央で、切り株に座っている人影が見えた。
「小夜子……。こんな所にいたのか」
 悠兄は安堵したように微笑み、近づいた。彼女は歌うのを止めると、悠兄に笑いかける。梢から漏れてくる月の光が冴え渡り、森に深い闇を映しだした。
 すくんで動けない僕の前で、悠兄は小夜子さんに手を差しだす。
「ほら、時計」
「ありがとう、悠」
 彼女は受け取ると、腕に通す。そのまま、僕を見た。
「ねぇ、貴史君、もう一度聞いても良いかしら」
 悠兄が、ゆっくりと振り返った。闇色に染まった、漆黒の瞳。それでも澄み渡り、二人が同じ物を見ているのが分かる。
「私は、悠にふさわしいと思う?」
 哀しげな響きを帯びた声。僕には、答える事ができなかった。
「悠兄……」
 呼びかけると、彼は微笑んで答えてくれる。
「何だ、貴坊」
 いつもと同じ、優しい呼び方。
 小夜子さんの亡殻を抱きしめていた彼は、小さかった。あの日から、悠兄の心は死んでしまった。
「今は、幸せなの?」
 悠兄は僕に近づいて優しく肩を叩いた。澄んだ眼差しは深く、穏やかな色を帯びている。
「幸せだよ」
「お姉ちゃんは?」
 彼女は視線を伏せた。瞳に影が落ちて、表情を堅くする。頬は陶器のようで、叩けば崩れてしまいそうだ。
「私の幸せは、悠の幸せ。……でも、分からない。何が悠にとって一番幸せなのか」
 僕にも分からなかった。遠い将来を、その場で考える事などできない。
 小夜子さんは涙を零していた。潤んだ瞳が、答えを求めている。
「悠には、未来があるわ。――貴史君、答えて」
 このままではいけないのは、誰が見ても明らかだ。
――けれど。
 それを拒んだのは、他の誰でもない。
 小夜子さんとの別れを認めなかったのは、誰でもない、彼なのだ。
 心を奪われた屍。できれば二度と、そんな彼を見たくはなかった。
「悠兄」
 見上げると、笑いかけてくれる。お前の答えが正しい。眼差しが、そう語っているように見えた。頭に触れる、悠兄の大きな手は、僕の物ではない。
「泣くな、貴坊」
「……お姉ちゃん。――悠兄は、今が、幸せだって……」
 しゃくりあげながら何とか言葉にすると、彼女は濡れた瞳で笑った。
 悠兄が耳元で「ありがとう」と囁く。触れる吐息は冷たかった。
 彼女の方へ歩み寄る背中は、闇の中で青白く浮かび上がる。
 小夜子さんは立ち上がり、悠兄はそんな彼女を強く抱きしめた。
「ねぇ、僕の事、忘れないで」
 二人は頷き、更に森の奥へと歩きだす。
 暗闇に、二人の姿が沈んだ。強い風が吹き始め、美しい歌声が舞い上がる。

 

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